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第31話 産

「―――ひとたび始めてしまえば、後戻りはできません。まことに、よろしいですか」


人払いをし、明かりも既に必要最低限に落とした部屋で。

そんな確認とともに、お産を早める施術が始まった。


広げた道具を順に手に取っていくフェリョンを、そばで手伝うのはユンファだ。産気づかせるためのすべての施術が完了したあと、フェリョンは退室し、そのあとはユンファが引き継ぐ手筈(てはず)になっている。


「―――では、最後に、こちらを」


鍼と灸を順に施した後、フェリョンが盆に乗せた薬を差し出す。器に並々と注がれた薬湯が、暗く揺れている。


差し出されたそれを受け取り、ヒャンは一度深呼吸をした。


これを飲み干せば、お産が始まる。


未知のそれに、打ち勝てるだろうか。一瞬、そんな考えが(よぎ)った。それを、(かぶり)を振って打ち消す。


いいえ、必ず勝たなければならない。勝ってみせる。


ヒャンは覚悟を決め、一気に薬を飲み干した。


「―――……っ!!」


その手から、空の器が転がり落ちる。


ずん―――……! と、腹の底から脳天までを貫くような凄まじい痛みが襲い、ヒャンは息を詰めた。


衝撃で手足が、全身が、がくがくと震える。灼熱の痛みが、まるで刃を深く突き立てるように身を貫き、全身からどっと汗が噴き出した。


「……う、……あ……っ!」


今まで感じていたものとは、まるで比べ物にならない。

息をするのさえままならない強く鋭い痛みが、体を、下腹を、何度も貫く。


「力を抜いて、息を詰めず、吐き出してください!」


何度も誰かのそんな声が聞こえた気がした。だが、まったく頭に入ってこない。


お腹を内から捻るように強く締め付けられるような形容しがたい痛みと圧迫に、腰骨が割れそうな程軋んでいるのを感じる。


噴き出した汗が全身を気持ち悪く濡らし、次から次へと、息も継げないような痛みが立て続けに襲ってくる。


苦しいのは、子も同じなのだろう。もがくように、子もお腹の中で暴れまわっているのを感じる。


痛みと蹴られる衝撃が重なり、何度も心が挫けそうになる。意識を手放すことができたら、どれだけ楽だろう。度重なる激しい痛苦に、そう思ってしまいそうになる。


けれど、これに負けるわけにはいかない。


ユノ様―――、どうか、どうか私に力を―――。


意思に反して激しく震える両手で、胸元の首飾りをなんとか握りしめ、必死に祈る。


必ず無事に、あなたを産んでみせる―――……!


ヒャンはただその一念のみで、想像を絶する壮絶な痛みに、一人立ち向かった。






チョンミョンがその知らせを聞いたのは、たまたまソンドの居室に居合わせた時だった。


「なに、ヒャンが産気づいただと?」


知らせを受けて眉を寄せるソンドを、横目に見やる。

いや、たまたまではない。チョンミョンはあえてこの場所に来ていた。


茗渓寺(めいけいじ)参詣のため、ヒャンが王宮を出た夜、その寺が野盗に襲撃されたという知らせを直接受けるためだ。


だが、事態は思わぬ方向に進んでいるようだ。鷹の目を細めるソンドの横で、チョンミョンも同じように眉を寄せる。


「ヒャン()の産み月はまだふた月も先のはず。それが産気づいたなど、まことの話か?」


どうやら早馬を飛ばしたらしい現地の兵からの知らせを受けた官が、自身も信じられないというような表情で頭を下げる。


「ええ、どうやら、まことのようです。現地では、近くの里から産婆を呼び寄せ、急ぎ出産の準備を整えているとのこと。……ですが、あまりにも急なことで、お産がどのようなものになるか、誰にも予測できないとのことです」


その言葉に、チョンミョンは同じようにそばに控えていたギテに、ちらと視線をやった。


想定外にヒャンが産気づいたところで、計画は変わらない。産もうが産むまいが、無防備な状態であることに変わりはないのだ。兵がいたところで、それを配備するのは将軍であるギテだ。


チョンミョンの視線に小さく頷いたギテは、一歩前に出てソンドに進言する。


大王(だいおう)様。兵はあくまで、参詣の護衛のための配備となっております。急遽お産が始まったとなれば、今の人員だけでは到底足りませぬ。急ぎ、お産のための人員と、追加の護衛を送るのがよいかと」

「そうだな。ヒャンが産むのがまこと天命の子であれば、そのような心配は無用とも考えられるが―――だが、このクァク・ソンドの長子であることに変わりはない」

「万が一に備え、私も現地に向かいます」

「ああ、そうするがよい。急ぎ向かい、ヒャンと子を守れ」

「は!」


(めい)を受けたギテはソンドに一礼し、そしてチョンミョンにも礼を取ってから、(きびす)を返す。


退室間際に、再度ちらと寄越した視線を受け、チョンミョンは目だけでギテに頷き返した。それだけで、十分通じる。


ギテはこれから、ヒャンと腹の子を守りに行くのではない。消しに行くのだ。寺のそばに既に控えさせている者たちとともに。


口元が歪みそうになるチョンミョンの前で、ソンドは知らせを持ってきた官に対し、臙脂(えんじ)の羽織を翻す。


「私も現地へ向かおう。無事に生まれれば、この紫微国(しびこく)三景(さんけい)統一の覇者に導く子だ。この父も、ともに迎えてやらねばな」


くっと喉の奥で笑うように言うソンドに、官とチョンミョンは揃って頭を下げた。そのままソンドは居室を出て行き、そのあとを追うように、官もチョンミョンに一礼して出て行く。


チョンミョンは誰もいなくなった室内で、ただ笑いを堪えていた。


腹の底から湧き上がる笑いに、痙攣するように喉の奥が引き攣る。


もうすぐ、邪魔者が消える。今からソンドが向かったところで、寺に着いた頃にはヒャンも子も生きてはいまい。

それくらいには、ギテは信用できる男だ。


何より、この腹の子の命運がかかっている。そのためであれば、ギテは必ずチョンミョンの(めい)を遂行するだろう。


ヒャンと子が死んだところで、ソンドが三景統一を果たす妨げになるわけではない。ただ、その手段の一つが消えるだけだ。


であれば、先程のソンドの(めい)よりも、ギテは確実に、チョンミョンの(めい)の方を優先するはずだ。


チョンミョンは一人、遠い目をするように瞳を(すが)めた。


次に彼らがこの王宮に戻ってくる時、事態は確実に自分に跪く形になっている。その時が楽しみで仕方がない。


今まで散々屈辱を味わってきた分、思う存分高笑いをさせてもらうことにしよう。


もちろん、実際に声を立てて笑うつもりはない。当然、心のうちでの話だ。


チョンミョンは、ふっと一度だけ笑みをこぼし、その場をあとにした。






ソンドの元を下がったあと、追加の兵の配備とお産のための人員や荷の手配を急ぐ中、ギテはそれらの準備が整うのを待たずして王宮の外へ馬を駆けた。


理由は、急遽産気づいたというヒャン妃の守りを急ぎ強化するためだ。


追加の兵やお産のための人員は、茗渓寺へ徒歩(かち)で向かうことになる。その歩みに合わせていては、いくら急いでも到着がいつになるか分からない。

そのため、信頼のおける自身の直属の部下数人のみを連れて、先に王宮を出た。


だが、それはもちろん、表向きの理由だ。


真の狙いは、茗渓寺のそばに既に控えさせている者たちに寺を襲撃させ、その騒ぎに乗じてヒャンをその腹の子諸共消すこと。


受けた(めい)は必ず遂行する。

それが、ソンドがギテを側近として最も重用する理由であり、ギテがこの紫微国の将軍たる所以だ。そして、ギテ自身も自負している点である。


受けた(めい)は、絶対だ。仕損じることなど、あり得ない。

だからこそ、ギテは今凄まじい勢いで馬を駆っている。


馬を飛ばして寺のそばの指示した場所へ向かうと、集めた者たちは既に、夜陰(やいん)に目立たない黒衣に、目から下を覆う黒い覆面をして待機していた。


同じように黒い覆面をしたギテと部下も、彼らの前に立つ。そして。


「―――行け!」


静かに放たれた言葉に、ざざざ、と闇が一斉に動き始める。寺へと向かうその影を見つめ、ギテは僅かに目を細めた。


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