第30話 炎
紫微国の王宮は広い。
広い分、そこに勤める官吏や女官の数は、官位を有する者から下働きの地下の者にいたるまで、数千に及ぶ。
王宮内のどこで何が起きているのか、それをつぶさに把握していようと思えば、その中に満遍なく駒をつくるのが一番手っ取り早い。褒美でも、弱みでも、大した思慮の無い者を裏で懐に取り込んでしまうのは、実に容易なことなのだ。
「―――それはまことか」
「はい、大王様のそば近くに仕える内官から知らせが参りました。近く、安産祈願のため、ヒャン妃様が茗渓寺を詣でられるそうにございます」
「茗渓寺に安産祈願とは……」
呟いて、思わず笑みがこぼれる。
茗渓寺は、王宮からは少し距離のある寺院だ。とはいえ、徒歩でも半日もあれば到着する。身重の妃を乗せた輿での移動だとして、それ程かかる時に違いはないだろう。
チョンミョンは口の端を僅かにあげたまま、取り出した小振りの巾着を卓の上に放る。少し重い音を立てて落ちたそれを無言で懐にしまい、ホン尚宮は頭を下げた。
知らせを寄越してきた内官には、ホン尚宮を通してその褒美が渡される手筈になっている。
先日、ヒャンがソンドへの謁見を願い出たことも、同じ内官からの知らせだった。そして、予想通り、ソンドがヒャンの話を聞き入れなかったという話を届けてきたのも。
ゆえに、今回の知らせも信憑性は高いだろう。
己のそば近くに仕える内官がチョンミョンへ情報を流している事実に、ソンドは今のところ気付いたような素振りを見せたことはない。
もしかすると、気付いた上で放っている可能性もある。
どちらにしろ、チョンミョンがやることなど、ソンドは歯牙にもかけないだろう。今はそれが実に好都合でもある。
それにしても、安産祈願とは―――。
無事に生まれたところで、子はすぐにこの手元にやってくる。そうなれば、大した抵抗もできない些細な命など、簡単に捻りつぶせる。
生まれたばかりのか弱き赤子がたまたま死んだところで、それは珍しいことでもなんでもないのだ。
安産を祈願したところで、どうせすぐに捻りつぶされる命。ヒャンにできることなど、何もない。祈願するだけ無駄な話だ。
だが―――。
放っておいても子の命はこちらが握っているのだが、ヒャン自ら「外」に出るというのであれば、話は変わってくる。
外は、中よりも守りが薄く、より簡単に「こと」を運びやすくなるからだ。
チョンミョンは冷たい笑みを深め、ホン尚宮を斜めに見上げた。
「急ぎ、チャン将軍を呼べ」
「かしこまりました」
呼びにやると、ギテはすぐにやって来た。
既に人払いをしており、部屋のそばには、ホン尚宮も含め誰もいない状態だ。普段は扉の外に控えている女官達も、すべて下がらせている。
やって来たギテは一礼し、示された卓の向かいに腰を下ろす。
その目が、最近また一段と大きくなってきた腹に寄せられているのに気づき、チョンミョンは目を細めた。
「男子だ」
腹に手を触れながら笑う。
「さすが大王様の子、蹴る力も強い。誰にも負けぬ、誰よりもたくましい世継ぎになるであろう」
腹の子はソンドの子、あえてそう口にした。
この腹を見ながらギテが何を思っているかなど、考慮するに値しない。ただ、事実だけを語る。
「ええ、きっとそのように」
一瞬だけ、何かを言いたそうに目を細めたように見えたギテは、だがすぐに元の無表情に戻り、静かに頭を下げた。
まだ生まれてもいない子の性別について、男子だと言いきるチョンミョンの言葉をギテが否定しないのは、その理由を知っているからだ。
そして、子がソンドの子でなければ、チョンミョンにとっては産む価値などない。それも心得ているからこそ、他に耳をそばだてる者のいないこの空間であっても、ギテは何も口にしない。
実際は胸中で何を思っていようと、それを表に出す男ではないことを、チョンミョンは承知している。だからこそ、この男を選んだのだ。
チョンミョンは腹から手を離し、ギテに向き直った。
「―――して、ヒャン妃が近く茗渓寺への参詣を予定しているのは知っているか」
「うかがっております。大王様より、護衛の配備を命じられておりますれば」
「そうであろうな」
チョンミョンは口元に僅かに笑みを浮かべ、ギテを見る。
「茗渓寺といえば、規模こそ立派だが、山深い場所に建つ寺院だ。一番近い人里までも、歩いてしばらくの距離がある」
「ええ、さようにございます」
「人里離れた寺院なればこそ、夜になれば野盗に襲われる可能性もある。そして、襲われたら最後、逃げる場所もない僻地に建っているのが、あの寺だ」
ギテが無言で頷く。
チョンミョンは、瞳に強い光を宿らせ、赤い唇を広げた。
「もしも、だ。実際にそのような襲撃があり、参詣のためにたまたま逗留していた側室が腹の子諸共斬り殺されたとして、嘆くならば己の不運を嘆くしかあるまい。そうであろう?」
そして、ホン尚宮に渡したのと同じように、ギテの前に少し大きめの袋を置く。中に詰められたものがぶつかる硬質な音が、くぐもった中に小さく響いた。
チョンミョンの瞳が、さらに鋭利に光る。その奥には、すべてを焼き尽くすような苛烈な炎が渦巻いている。
「内密に、腕に覚えのある者を集めよ。これは好機だ。王宮にいてはあの女まで手を出すことはできないが、外であればそれが容易になる。今あの女を腹の子諸共消しておけば、後の憂いを消すことにも繋がる。―――この子を世継ぎに、ひいてはこの国の王にするために、必ず成し遂げねばならぬことだ」
再び腹に手を触れ、チョンミョンは強い視線をギテに向けた。そのギテの瞳の奥にも、同じ炎が静かに燃えているのが見える。
表情に表れないとしても、チョンミョンの腹にいる子の行く末について、このギテこそが誰よりも気にかけてくれているだろう。
その上で、チョンミョンは声を低めてギテに命じる。
「夜陰に乗じて寺を襲い、腹の子諸共、ヒャンを消せ」
「ご命令、しかと承りました」
ギテは短く答え、卓上の袋を懐に収めると、速やかに退室していった。
早めて、ひと月―――。
決意してからのひと月は、本当に早かった。
本来であれば、子はまだお腹にいる時で、子の方も、自分自身の体も、これから迎えるお産に向けて、少しずつ準備を整えていく時なのだろう。
そんな時期に、無理やりお産を早めるのだ。子も自分も、命を危うくする危険な行為であることは十分承知している。
だが、これ以外に、子を外に逃がし、その命を守る方法を思いつかない。
自分の手を離れてしまうとしても、どこかで確実に生きていてくれるのであれば、迷わずそちらを選ぶ。
ヒャンは、茗渓寺への道のりをゆったりと進む輿の中で、もう何度触れてきたか分からない大きなお腹に両手を添わせた。
もうすぐ、この子に会える。
ほんのひと時であったとしても、何よりも大切なユノとの子を、もうすぐこの腕に抱くことができる。
僅かな喜びを感じると共に、だがそれ以上の緊張に体が震えるのを感じ、ヒャンは祈るように両手を握り合わせた。
必ず無事に生み、そして、絶対に無事に逃がしてみせる。
茗渓寺への道は、ソンドに命じられ、将軍であるギテが配備した兵たちに守られている。その少なくはない兵たちの目をかいくぐり、なんとか外に子を逃がさねばならない。
寺へは、ユンファも、担当医官であるフェリョンも同行している。二人の手を借りれば、きっと上手くいくはずだ。
ヒャンは胸元を衣の上からそっと押さえた。そこに、肌身離さず下げている首飾りがある。
鴉の彫刻が施された、白銀の首飾り。
胸を押さえたまま静かに息を吐き出し、そして、ヒャンは前を見据えた。
覚悟は、とうに決まっている。
必ず、成し遂げてみせる―――。




