第29話 張
「産み月を早めたいとは……、ですが……」
変わらず困惑の表情で呟くフェリョンを、ヒャンは真剣な眼差しで見つめる。
知らず知らずのうちに、手がお腹に伸びていた。その下にある大切な命を守るように、両手でそこを強く包む。
「……っ!」
その下腹が、唐突にきゅうっと締め付けるように硬く縮まるのを覚え、ヒャンは息を詰めた。
妙な息苦しさに、足りなくなった空気を体に運ぼうとしているのか、心臓がどくどくと強く胸を打つ。
「ヒャン妃様?」
唐突に息を詰めたヒャンを、フェリョンだけでなく、そばに控えていたユンファも心配そうに見つめている。
ヒャンは軽く手を上げ、今にも寄ろうとする二人を制した。
締め付けられるように下腹が縮まるのは、これが初めてではない。ここ最近、頻繁に起きている。だから、それがすぐにおさまるものであることも、ヒャンは承知していた。
硬くなっていたお腹が少しずつ弛緩していくのを感じ、詰めていた息をすべて吐き出したあと、「大丈夫です」とヒャンは顔を上げた。
「近頃、よく締め付けられるようにお腹が縮まり、硬くなるのです。すぐにおさまるので、心配はいらないかと思うのですが……」
「お腹が、締め付けられる……?」
ヒャンの言葉に、瞬時にフェリョンが眉を寄せて難しい顔をした。だが、それ以上何かを言うことはしない。そのまま、考え込むように黙している。
気を取り直すように息をついたヒャンは、「それよりも、」と再びフェリョンに向き直った。
先程の確認への答えをまだ得ていない。
「チョン医官。先程の言葉について、いかがですか。産み月を早めることは、できますか?」
フェリョンは唸るような声をあげ、しばらく逡巡していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「多少であれば、できなくはありません。鍼、灸、薬を正しい手順で施せば、本来の出産時期より多少は早く産気づかせることは可能です」
「まことですか……!」
「ですが、多少であるとはいえ、それは大変危険な行為でもあります。本来はまだお腹にいる時に、無理やり産気づかせるのです。母体にも胎児にも、かなりの負担がかかります。当然、命も危うくなります。とてもおすすめできる行為ではありません」
唸るように答えながら、フェリョンが視線を下げる。だが、ヒャンの答えは決まっている。
「もちろん、それは承知しております」
「では―――!」
「ですが、やらねばならないのです」
強く返すヒャンに、はっと瞳を見開いたフェリョンが、言葉を失くしたように押し黙る。
「……理由を、お聞かせいただけますでしょうか」
苦渋の表情ではあるが、頭ごなしに否定するわけではない。
そこから、本来であれば同意するわけにはいかないが、できるだけ意思に沿おうと努めていることがうかがえる。
そのことだけでもありがたい、と思いながら頷き、「なんとしても、子の命を守るためです」とヒャンは話し始めた。
「この王宮で出産すれば、この子はすぐに取り上げられてしまう。そうなれば、子の命が危うくなるのです」
「お子は、お生まれになったあとは王后様の元で庇護されると聞きました。出自が知られることを心配されているのだとしても、そこまでの危険を冒す必要があるとは思えません」
「いいえ、それだけではないのです。王后様は、この子の命を狙っている。言われるままに預けてしまえば、私は二度と、この子を抱くことすらできなくなるでしょう。―――これは、憶測ではありません。確証あってのことです」
「な……! まさか、そのような……」
最後に付け加えられた言葉に、フェリョンは顔面蒼白になり、今度こそ本当に言葉を失う。
それは当然の反応だろう。ヒャン自身もそう思う。
「それを防ぐためには、大王様や王后様の手の届かない外で出産するしかない。大王様の側室である私が外に出られるとしたら、寺院参詣くらいしかありません。出産を控えての安産祈願と称すれば、近くの寺院を詣でるくらいはできるでしょう。そうやって外に出た折に出産し、子を逃がしたいと考えています」
「ですが、そのようなことが、まこと可能なのでしょうか……?」
「分かりません。ですが、やらねばならないのです。ただ、表向きに予定されている産み月が近くなった頃に外に出たいと言ったところで、聞き入れられるとは思えません。ならば、秘密裏に産み月を早め、許可を得て外に出た折に、偶然を模して出産するしかないのです」
「なんと……」
そう呟いたまま二の句が継げないフェリョンに、だがヒャンはさらに続ける。
「表向きには、あと三月。実際には、生まれるまでふた月。それをさらに早めるのです。予定よりかなり早く産気づいたとなれば、普通なら、生まれた子が無事に生き延びることは難しいでしょう。死産だったと告げたとしても、怪しむ者はいないに違いありません」
それを狙って、子を外へ逃がす―――――これは、一世一代の大きな賭けだ。
決意の眼差しを向け、ヒャンはそっとお腹に触れた。
この手で育てることはもちろん、日々の成長を喜ぶことも、慈しむこともできなくなる。けれど、王宮にいては確実に奪われることになるその命だけは、守ることができる。
この子を守るために、それが唯一、ヒャンに取ることができる方法だった。
「チョン医官、先程の方法で、どのくらい産み月を早めることができますか」
まっすぐに尋ねるヒャンに、言葉を失って沈痛な色を浮かべていたフェリョンは、その表情を少し難しいものに変え、唸るように答えた。
「施術が上手くいったとしても、大幅に早めることはやはり難しいかと思います。―――ただ、ヒャン妃様には既に陣痛の気がおありのご様子。それを利用すれば、あるいは……」
「陣痛の気?」
「はい、産み月が近くなって参りますと、お腹が強く締め付けられ、硬くなるように張ることがございます。これは産気づく前段階の症状で、この張りが断続的に繰り返し起こり、徐々に締め付けが強くなっていくようになりますと、陣痛、お産となります」
フェリョンが説明したその症状は、まさに近頃ヒャンがたびたび感じているものだ。つい先程も起きた症状である。
納得するヒャンに、フェリョンは難しい顔のまま説明を続ける。
「産み月となり、屈むのも難しい程お腹が大きくなる頃であれば珍しくない症状なのですが、稀に、まだまだ産み月に満たないような早い時期に頻繁に張りが起きてしまうことがございます。ちょうど、今のヒャン妃様のように」
フェリョンはそこで一度目を伏せ、ヒャンのお腹に視線を向けながら「その主な要因としては、過度な疲労や心労が重なってのことが多いのですが……」と呟く。
心労―――、確かに、近頃その張りを感じていたのは、大きな衝撃を受けたり、激しい憤りや、全身の血の気が引く思いを感じていた時だったかもしれない、とヒャンは思う。
きっと、自分で思う以上に、心にも体にも大きな負担がかかっていたのだろう。
「確かに、私は既にチョン医官が言うような状態にあるようです……。ですがそれは、問題ないことなのでしょうか?」
「本来であれば、今の時期にその張りを頻繁に感じることは、早産を引き起こす危険性を孕んでいるため、注意しなければなりません。ですが、あえて産み月を早めるのであれば、それを上手く働かせることも可能かもしれません」
なるほど……、とヒャンは頷く。
「……では、その場合、どのくらい出産を早められるのですか?」
度重なるヒャンの確認に、フェリョンは考え込むようにしばし黙った。何かを言いかけて、迷うように何度も首を振っている。
その様子に、この医官の葛藤が手に取るように伝わってくる。だが、ヒャンはそれを辛抱強く待った。
やがて、フェリョンは息を吐き出し、心を決めたように再び顔を上げた。
表情は硬いまま、けれど迷いは感じない口調で言いきる。
「早めて、ひと月。それ以上は譲れません」
ひと月―――。
であれば、本来の産み月から考えると、今からひと月後。表向きには、予定のふた月前となる。
「その時期であれば、生まれてもぎりぎり、お子は育つことができます。また、母体への負担を考えても、それ以上早めることはできません」
「十分です」
ヒャンはほっと息をつき、両手でお腹を包んだ。
あなたの命は、この母が必ず守ってみせます。
そして再び顔を上げ、フェリョンを見る。
「ひと月後、王宮から出た折、この子を出産し、外に逃がします。大変なことをお願いしているのは重々承知しています。ですがどうか、今一度私に力を貸してください」
深く頭を下げるヒャンに、フェリョンは「承知しました」と重く頷いた。




