第28話 意
居所に戻り、ヒャンはそばの円卓に手をついた。
足元からくずおれそうになるのを何とか堪え、這うように移動して腰を下ろす。
強く握りしめた手は血の気を失い、白くなって小刻みに震えている。
怒りか、焦りか、悔しさか、胸の内にあるものをすべて吐き出すように、ヒャンは大きく息をついた。
それでもなお、奥底から湧き上がるものは静まらない。
チョンミョンに対抗できるとすればもしや、と一縷の望みをかけて覚悟を決め、ソンドに願い出たが、結局何も得られないまま、ただの徒労に終わってしまった。どころか、己の愚かさを痛感し、忸怩たる思いを抱くだけの結果になってしまった。
とん、と軽く叩くようにお腹が動く。
ヒャンは唇を嚙み締め、その動きを弱く撫でた。
このままでは、本当にこの子は王后様に奪われてしまう。生まれてすぐ、この母の手の温もりすら伝えられないうちに、遠く離れた場所へと連れて行かれてしまう。
もしも、何かが起きたら。
もしも、真の素性が露見してしまったら。
この子の命は、瞬時に危険に晒されることになる。
どうにかしたいのに、どうにもできない。
なんとか、この現状を覆す術はないのか。
必死に考えを巡らせるが、自分にできることなどたかが知れている。なんとしても守ると誓ったのに、何もできない自分が悔しい。
ぎりぎりと握りしめる掌に爪が食い込み、薄い皮膚を裂いて血が滲む。
「ヒャン妃様!」
そこで部屋に駆け込んできたユンファが、色を失った顔でヒャンに走り寄った。
「大変です! 王后様が……、王后様が……つ!」
そのただならぬ様子に、さあっと一気に全身の血の気が引いていく。
これ以上に、まだ何かあるというのだろうか。
「王后様が、どうしたの……? ユンファ、落ち着いて話して」
努めて冷静に語りかけながら、ヒャンは喉が震えそうになるのを必死に堪えた。
ここで崩れれば、保てなくなる。ただ嘆くだけの自分にはなりたくない。
だが、そうやって冷静でいられたのも、ユンファの次の言葉を聞くまでのことだった。
「中宮殿付きの女官から聞いたのです! 王后様は、ヒャン妃様のお子を手元に置き次第、亡き者にするおつもりだと……!」
「な……!」
見開いたヒャンの瞳が、音を立てて凍りついた。
衝撃があまりにも大きすぎて、二の句が継げない。心臓を鷲掴みにされたように、息が詰まった。
胸を掴み、必死にそれを落ち着かせる。
子を奪われることを防ぎたいと思った。自らの手で育てたいという気持ちもあるが、何よりも、子の命を危険に晒さないために。それなのに。
「ユ、ユンファ……、一体なぜそんな話に? ……い、いいえ、その話は、確かなの?」
肩で息を繰り返しながら、やっとの思いでそれを尋ねる。
もしかしたら、とその可能性を疑ったことがないわけではなかった。だが、それはずっと先のことで、今案ずることではないと、心のどこかで思ってしまっていた。
必死に尋ねたヒャンに、ユンファも苦し気に答える。
「王后様の居所である中宮殿の女官の一人と、以前より交流があったのです。その者が密かに教えてくれました。王后様はヒャン妃様のお子をお育てになるつもりなど一切無く、病、あるいは事故に見せかけて、その命を奪うおつもりであると……」
「まさか、そんな……っ」
本当に、そのつもりで。
中宮殿の女官ということは、チョンミョンのそば近くに仕える者ということだ。内密になされた話を、何かの折に聞き咎めたのかもしれない。
ヒャン付きの女官であるユンファに、それをわざわざ密かに伝えてきたのだ。冗談でなされた会話というわけではないのだろう。
目の前が真っ暗になり、悪寒が背すじを這い上がる。
その執念深さに、恐怖さえ感じた。
理由は決まっている。自身の子のためだ。
チョンミョンの子が男子であれば、ヒャンの子が先に生まれていたとしても、その子が嫡子になる。自然にいけば、その子どもが世継ぎになるはずだ。
だが、ソンドも言っていたではないか。誰の子であろうと関係なく王后の元で養育するのは、より優れた者が玉座につくのを容易にするためだと。
チョンミョンは、子のために、根本からその可能性を排そうとしているのだ。
つまり、ソンドの第一子とされる、ヒャンの子を殺して―――。
その時、どん、とお腹が強く蹴られた。
続けて、どん、どんっ、と普段より一層強い衝撃が内側から伝わってくる。
それはまるで、己を脅かす思惑に反抗するように。しっかりしろ、とヒャンを叱咤するように。
恐怖に慄きかけた心を、それが再び引き上げてくれる。
ヒャンは鼓舞するように強く動くお腹を見つめた。そして、震える手を伸ばし、だがしっかりとお腹に両手を添える。
まだ生まれてもいない我が子。その命を守れるのは、自分しかいない。
きっ、と顔をあげると、ヒャンはユンファに告げた。
「チョン医官を、ここへ」
「ヒャン妃様、お呼びでしょうか」
ユンファに頼み、フェリョンを呼びにやると、医官はすぐにやって来た。
「呼びたてて、すみません。急ぎ、確認したいことがあったのです」
「急ぎの確認とは、何でしょう?」
卓の向かいを示すと、フェリョンは一礼してそこに腰かける。
文字通り、駆けつけてきたのだろう。少々息が上がり、額には汗もかいているようだ。
だが、それを気に留めている余裕はない。ヒャンは、フェリョンが腰かけたのを確認すると、すぐに口火を切った。
「まず、確認のためにうかがいます。内医院では、私の産み月は今より三月後と認識されている、これに相違ありませんか」
「ええ、相違ございません。ご懐妊を確定させた医官長とも確認が取れておりますので、大王様もそのように認識されていると思います」
なぜ今さらそれを問うのかと、フェリョンは怪訝そうに眉を寄せながらも首肯する。
そこに、ヒャンは「―――ですが、」と言葉を加えた。
「それは「表向き」のもので、本来の産み月は今よりふた月後、そうですね?」
フェリョンは一瞬はっとした表情を見せ、それからまた、先程と同じように首肯した。
「はい、おっしゃる通りです。表向きのものと、本来のもの、そこにはおよそひと月程の差異がございます。ただ、産み月というものはおおよその目算で確実なものではございません。そのため、予定されている産み月より早く生まれるということはそう珍しいことでもなく、そこに多少のずれがあったとしても大きな問題ではないかと」
「ええ、そのようにうかがいました」
ヒャンは頷き、そして、正面からフェリョンを見据える。
「では、その産み月を、さらに早めることはできますか」
「―――は?」
唐突な言葉に意味を掴みあぐねたようで、フェリョンは眉根を寄せ、困惑を隠そうともせずに大きく首を傾げた。
「それは一体、どういう意味でしょう?」
「言葉通りの意味です。産み月を、早めたいのです」
困惑するフェリョンを、ヒャンはただまっすぐに見つめた。




