第27話 請
この子を守るために、できることは何でもすると誓った。
チョンミョンの「通達」を聞いてすぐ、ヒャンはソンドに謁見を願い出た。
「そなたが面会を願い出るなど、珍しいな」
臙脂の羽織に、金糸の大龍がその背に踊る。
この国の大王が政務を行うとともに、その主な居所となっている便殿に入ると、ソンドは既にそこにいた。
謁見を願い出てから、既に数日が経っている。
一日、一日と、日が過ぎていくのをじりじりとした気持ちで待っていたところに、ようやく知らせが届いたのは昨日のことだ。
「わざわざ知らせを寄越してまでやって来るとは、余程大事な用があるようだ」
一段高くなったところから見下ろす鷹の目が、くっと愉しそうに細められる。
ヒャンがソンドに見えるのは久方ぶりのことだった。
あれ程やって来ていたのが嘘のように、懐妊が分かった途端、ソンドの足はぴたりと止んだ。当然といえば当然ではあるが、ソンドが本当に、ただ天命の子だけを望んでいたことがよく分かる。
足が途絶えたのはもちろん幸いなことではあるが、本当にただそれだけのためにユノの命が奪われたのだと思うと、やりきれない苦い思いだけが胸中に広がる。
「このたびはお時間をいただきまして、ありがとうございます」
少し離れた場所で、ただすいと一礼するヒャンに、ソンドはふっと軽く笑う。
「せっかく来たのだ。まずは、茶でも飲まぬか」
ヒャンの胸中など関係ないというように、ソンドはおもむろにそばの卓に向かい、そこに用意された茶に手を伸ばした。
「先日、吏那国より献上された品だ」
言いながら、盆に用意されていた茶器を緩慢な動作でその上に返し、手ずからそこに茶を注ぎ始める。
「貴重な茶らしく、懐妊中の身にも良いらしい。―――ああ、もちろん、腹の中の子にも、な」
喉の奥でわざとらしく笑いながら、視線だけをヒャンのお腹に寄越し、ソンドはそんなことを口にした。
注がれる茶に一度だけ目を向け、だがヒャンはすぐにそこから顔を背ける。堪えなければと思うのに、眉が歪むのを抑えられない。
吏那国―――、今は紫微国の配下となっているが、かつては光海国と紫微国の双方に隣接した敵国であった。ユノが捕らえられた際、一枚噛んでいた国だ。
その茶をこの場に用意したのは、きっとわざとだろう。そこに、このクァク・ソンドという男がよく表れている。
何かの種を蒔き、それがどのように育ち、花を咲かせ、枯れていくのか、それをただ高い場所から眺めて、愉しんでいるような男だ。
懐妊中の身や、お腹の子にも良いなどと、心にも思っていないようなことをよく言える。
本心では、こんなことなどしたくないと今でも思っている。
だが、ヒャンは心を決めると、注いだ茶の一つを手に取るソンドに対し、その場で膝を折った。
重いお腹を抱え、ソンドの前に跪いて首を垂れる。
手にした茶をたっぷりと時をかけてひと口含んだあと、ソンドは器ごしにこちらを一瞥した。
「何の真似だ」
「恐れながら、大王様にお願いしたき儀がございます」
「―――ほう?」
茶器を手にした向こう側から、鋭く光る眼が寄せられているのが分かる。
垂れた頭上に落とされる、腹の底に響くような声を聞きながら、ヒャンは跪いたままの姿勢で言葉を続けた。
「この紫微国では、側室の子であっても正室である王后様の元で育てられるとうかがいました」
逸る気持ちを抑え、なるべくゆっくりと、相手に真意が伝わるよう丁寧に言葉を紡いでいく。
「なれど、王后様の元とはいえ、生まれたばかりの我が子を手放すこと程、身を削られるように辛いことはございません」
どくどくと心臓が激しく脈打ち、髪を結い上げたこめかみに冷たい汗が伝う。
この子を守るために、できることは何でもする。
例え、一生許せぬ仇に頭を下げることであったとしても、それが身を切る程に耐えがたいことであったとしても。
王后であるチョンミョンの言葉を覆すことができるとすれば、それはその上にいる者の言葉しかないのだ。だから、自分自身の矜持など投げ捨てても、全力でそれを請う。
「この国の習わしは理解しておりますが、どうかこの子を、私の手で育てられるようにしていただけませんか」
そう言って、ヒャンはソンドに深く頭を下げた。
実際はほんの一瞬、けれどヒャンにとっては永遠に近しい程の時が流れたあと、くっと茶を煽る音が聞こえた。
「自らの手で子を育てたい、か―――」
その呟きとともに、かん、と茶器が置かれる音が耳に届く。
「そなたの望みは分かった」
「大王様、では―――!」
はっと顔を上げて、だがその口元に薄い笑みが広がっているのを認め、ヒャンは固まった。それは決して、こちらに歩み寄るようなものではない。
ひどく緩慢な動作で手を伸ばし、空いた器に再び茶を注ぐソンドは、案の定。
「―――だが、」
と、そこで口にした。
注ぐ茶に視線を向けたまま、わざとらしい程にもったいつけるような口調で続ける。
「後宮のことはすべて王后に任せている。残念だが、私が口を出せる領分ではない」
そして、注いだ茶を再び手に取りながら、横目でヒャンを見やった。
「それよりも、いつまでそうしている気だ。いくら私でも、身重な者を跪いたままにさせておくのは忍びない。それに、その腹の子は、大事な天命の子でもあるしな。―――立て」
「―――……っ」
だが、ヒャンは俯いたまま動けなかった。
その耳に、低くどすの効いた声が繰り返す。
「聞こえなかったか。立て、と言っている」
ヒャンは無言のまま、ゆっくりと立ち上がった。
手にした茶を再び口に運びながら、ソンドは鷹の目を鋭く細め、そんなヒャンを見下ろす。
「よいか、習わしというものにも、その謂れが存在するものだ。側室の子を王后の元で養育するのは、その生まれに関わらず同じ教育を施し、国の中枢を担う人間として同じだけの素養を身につけさせることにある。また、より優れた者を玉座に据えることも容易になる」
「……それは、承知しておりますが、」
「承知していながら、それを拒もうということか。―――では、そなたの望みには、それに勝る価値がある、と?」
「それは……」
自分にとっては、価値などという言葉では済ませられない程、大切な意味がある。
生まれてすぐに奪われるということを許してしまえば、一度離したが最後、もう二度とこの手に戻ってくることはないかもしれない。そんなこと、とても耐えられない。
ヒャンはお腹に添えた手をきつく握りしめた。
試すような鋭い視線でヒャンを見下ろしていたソンドは、だがそこでふっと笑うと、僅かに表情を崩して呟く。
「まあ、王后とはいえ、生まれたばかりの子を他の者に預けるのだ。不安に思うそなたの気持ちも分からないわけではない」
「でしたら―――!」
「だが、その腹にいるのがまこと天命の子であれば、三景統一の覇者へと導く子だ。王后とて、ぞんざいな扱いはすまいよ」
ソンドはヒャンのお腹に再び目を向け、くっとまた茶を煽る。
本当に、そうだろうか。
天命の子を望んでいるのは、ソンドだ。チョンミョンも同じようにそれを望んでいるとは限らない。
いや、むしろ、望んでいるどころか、きっと―――。
「―――まことに、そうでしょうか」
思わず、それが口をついて出た。ソンドの眉がぴくりと撥ねる。
「王后様がご自分のお子と同じように、この子をお育てになると、まことにそう思われますか」
「……ふっ、そなたも、言うではないか」
睨むように続けたヒャンに、ソンドは口の端を軽く上げると、空になった茶器をかん、とまた卓に置いた。そして、おもむろにヒャンの方へ足を向ける。
「そなたの言う通り、その腹の子を王后に預けて、仮に何かあったとしよう。だが、それは大した問題ではないのだ」
言いながら、ゆらりとヒャンに近付く。そばに寄り、ふいに伸ばした手で、ソンドはヒャンの顎を掴んだ。
「何を―――っ」
ヒャンの抵抗など意に介した風もなく、そのまま、掴んだ顎をくいと上に向けさせる。そして、ヒャンの耳元に顔を寄せ、ソンドは囁くように続けた。
「王后の元で子が無事に育たなければ……、例えば、何かの折に命を落とすようなことがあったとしても、それはその腹の子が天命には関係なく、単にそこまでの者だったというだけに過ぎぬ。惜しくはあるが、その時はまた次を待てばよいだけの話」
「………っ!!」
軽く笑みを孕んでさえいるその言葉に、ヒャンは心の底から震撼した。
このお方は、一体何を言っているのだろうか。
仮に、お腹の子が自分の求める子でなかった場合、命を落としたところで一向に構わないと、そう言っているのだろうか。
ヒャンは眉を歪め、顎を掴む手を払うように、思いきり顔を背けた。
その抵抗を予想していたのか、ぱっと手が離れ、ソンドは元のように体を離す。
肩で息をする手が、無意識にお腹を庇う。
何ということを。
お腹を守る手に、力がこもる。衣の上から握り締めた手が、小刻みに震えている。
本気で言っていると分かるその目に、ヒャンは激しい憤りで一気に血が上るのと同時に、反対側では一気に血の気が引いていくのを感じた。
このようなお方とは、決して相容れない。
そんな相手に子の命運を預けようとしていた自分が、愚かに思えてくる。わなわなと震えて、泣きたくもないのに目の奥が熱くなり、それを堪える喉がひどく痛い。
だがソンドは、ヒャンが払った手を軽く見下ろし、面白そうに目を細めている。
「死んだように生きていたそなたが、そこまで強い目をするとは意外だな。それ程に子の力が偉大なのか、それとも―――」
そこで不自然に言葉を切り、そして、ヒャンを見る。
「他に、何か理由があるのか―――?」
鷹の目を一層鋭くして、ソンドは低く笑う。
下腹がまた硬く縮まっていくような嫌な息苦しさを覚えながら、それに対する答えを返してやることはこの先も一生起こり得ない、とヒャンは心に固く誓った。




