第23話 賭
―――医官のチョン・フェリョンにすべてを話したのは、賭けだった。
子は宝。
子が何にも勝るものだというその言葉の意味を、ヒャンは近頃身をもって体感している。
まだ胸につかえるような気持ち悪さはあるが、開け放った窓辺にゆったりと腰かけ、鳥の囀りや草花の香りを感じながら風に当たる余裕が、少しずつできてきた。
閉め切った室内に閉じこもり、寝台から身を起こすことも億劫だった頃と比べると、これは大きな進歩だ。
体調面もそうだが、気持ちの面での変化が一番大きいのだと思う。
すぐそばの枝で、小鳥たちがさわさわと揺れる葉の間を飛び回り、楽しそうに遊んでいる。
それを微笑ましく眺めていたヒャンは、ふとお腹に視線を落とし、そっとそこに触れた。まだその存在をはっきりと感じる程ではないが、確かにここに命がある。
お腹の子の存在は、失った生きる力を取り戻してくれるようだった。
何のために生きているのか、死ぬこともできず、ただ漂っているだけだった自分に、再び差した一条の光のような存在。
ユノに託されたこの命を守る。そのために、できることは何でもする。
フェリョンを自分の担当医官にすることは、その一つだった。
医官といえども、紫微国の一家臣であることに変わりはない。真実を伝えれば、自分もお腹の子も危うくなる。それは危険と隣り合わせの行為だ。
だが、ソンドの側室の出産に、医官が関わらずにいることは不可能だ。いつ、どこで、どんな相手に知られてしまうか分からない。その危険を思えば、より信頼できる相手に身を委ねる方が安全とも言える。
真実を誰にも知られないように隠し通すか、それとも、いざという時に備えて信頼できる味方をつくっておくか。
ヒャンが選んだのは、後者だった。
ユンファに頼んで医官のことを調べてもらい、この者であれば、と白羽の矢を立てたのがフェリョンだった。
褒美や見返りよりも、命の尊さを知り、身分に惑わされることなく、一つの命を救うことに全力を尽くせる者。己の命を脅かす程の大きな秘密を抱えてもなお、それができる力がある者。
自らの立身出世よりも、疫病に苦しむ民を一人でも多く助けようと尽力するその姿勢が、何よりもヒャンが求める人物像に合致していた。
だが、医官とて人だ。地位や名誉より命を大事にする医官であったとしても、自分の命はやはり惜しい。他人のためにすべてを懸けられるなど、よく知った相手であっても難しいものだ。
しかし、話すと決めた以上、賭けには必ず勝たなければならない。負けはすなわち、死に繋がる。
お腹の子を、何よりも大切なユノの子を守るためには、なんとしてもフェリョンに諾と答えさせなければならない。
そう覚悟して挑んだ面会だった。
決死の問いかけに、フェリョンが首を縦に振るのを見た時、力が抜ける程に心から安堵したのは、噓偽りのないヒャンの真実だ。
フェリョンの答えを聞いて、詰めていた息が漏れ、思わず全身の力が抜けそうになったことに、フェリョンは気付いていただろうか。
試すようなことをし、立場を利用して半ば強引にこちらに引き込むような真似をしてしまった。そのことを申し訳なく思う気持ちもある。だがそれは、お腹の子を守るために、絶対に必要なことでもあったのだ。
ふう、と小さく息をついて顔を上げたところで、ユンファが淹れたばかりの茶を出してくれる。
その温かな香りに、知らず知らずのうちに体が強張っていたことに気づいた。
あの医官から見て、自分はどのように見えていただろう。自身を懸けてもよいと思える人間に、見えていただろうか。
自分の勝手な都合で、本来ならば関係のない者を、命の危険もある道へ引きずり込んでしまったのだ。せめて、そう思ってもらえるだけの相手でいたい。
ヒャンはそう思いながら、いつの間にか冷えていた指を茶に伸ばした。
紫微国の医官チョン・フェリョンが、ソンドの側室であり、その第一子を身ごもるヒャンの担当医官になる、その少し前―――。
別の場所で、また別の大きな賭けが、行われようとしていた―――。
「王后様、おやめください! 」
神仏に向かって一心不乱に祈りを捧げていたチョンミョンに駆け寄り、これ以上の祈りを阻もうとギテがその肩を掴む。
「放せ! 邪魔をするな」
「王后様……!」
「放せと言っている!」
「いいえ、放しません。どうかお体をお労りください」
常に冷静沈着で、平素は無表情に等しいギテの瞳に、焦りのような色が見え隠れする。それだけ、傍から見て、己の様相が尋常ではないということだろう。
ヒャンの懐妊が判明してからというもの、チョンミョンは堂に籠り、ただひたすらに祈りを捧げ続けていた。
願うのはただ一つ。ヒャンの子が流れること。
ただその一念のみで、食事も摂らず、昼夜も問わず、己の力をすべて注ぎ込むように祈りを捧げ続けている。
チョンミョンは強い力で両肩を押さえるギテから顔を背け、振り絞るように言葉を発した。
「ヒャン妃が懐妊した……ヒャン妃が……。あの女が大王様のお子を……私が産むはずだった大王様の第一子を身籠ったのだぞ! さっさとこの手を放さぬか!」
「それはできませぬ……っ」
「では、あの女が男児を産むのを、ただ黙って見ていろとでも言うのか?」
思わず浮かべた自嘲の笑みに、ギテが今度は苦しそうに顔を歪める。それがさらに、チョンミョンの自虐心に火をつける。
「……ふん、結局そなたも、私の味方ではないということだな」
「そうではありませぬ! このままでは王后様が先にお倒れになってしまいます」
「倒れるのが何だと? そなたは私に、この先ずっとあの女の影として生きろと言いたいのか。この国の王后であるこの私に……」
自分の放った言葉が、そのまま自分を深く抉る。それは、この先確実に起こり得る、間違うことなき未来だ。
矜持を傷つけられ、尊厳を踏みにじられ、何もかも奪われることしか見えないその確かな未来に、目の前が一気に暗くなる。
だが、チョンミョンはぐっと奥歯を噛み締めた。
それでも、毒を吐くことを止められない。そうしていなければ、自分を保っていられない。
誰かに傷をつけられるくらいなら、自らの手でつくってしまう方がましだ。その上に新たなものがいくら積み重なろうと、痛くも痒くもない。
無様に涙を流す姿など、誰の前でも決して見せぬ―――。
「王后様、まだヒャン妃の腹の子が男児だと決まったわけではありません。お気を強くお持ちください」
「はっ、男児が授かれぬ私に、気を強く持てだと?」
だからチョンミョンは、その口元を歪めて笑みの形をつくる。それが己を守る唯一の方法だからだ。
あえて人に言われずとも、自分が一番よく分かっている。男児を授かることができていれば、こんなに苦しむこともなかった。王后として、世継ぎの母として、ソンドの横にいるのは自分だったはずだ。
だが、そんなことを言ったところで、事実は何も変わらない。変えることなどできない。
未来永劫、生きている限り、終わることのない苦しみだ。
―――男児を授かりたければ、他の子種を。
ギテを睨み上げていたチョンミョンの耳の奥に、ふいに、そんな声が響いた。
瞬間、ふつりと音が途切れる。それまで数多の羽虫が飛んでいるように煩かった頭の中が、水を打ったように急にしんと静まる。
どく、どく、と低く脈打つ鼓動だけが聞こえた。
チョンミョンは、ゆっくりと目の前のギテを見上げた。
そうだ、男児を授かれば……。
瞳の奥に、燃え上がる苛烈な炎が静かに広がっていく。
見開いた瞳でギテをじっと捉えたまま、チョンミョンは静かに赤い唇を広げた。
「―――チャン将軍、自分の子を、この国の王にしたくはないか」
「王后様……? 一体、何を―――」
怪訝に眉根を寄せたギテが、そこで息を吞んだようにはっと目を見開く。
「まさか……!」
チョンミョンは口だけで笑んだまま、ギテを見つめた。そして、固まったように動きを止めるギテに顔を近づけ、その耳元で囁くように笑う。
「そなたの心を、私が知らないとでも?」
「それは……」
「これは、そなたに与える、最初で最後の機会だ」
そう言って、囁きながらゆっくりとギテの首筋に触れる。
「今宵だけは、そなたの女になってやろう―――」
「―――――……」
その代わり、世継ぎを私に。
香がむっと立ち込める堂内で急激に膨れ上がった獰猛な気配に、チョンミョンは深い笑みを湛えたまま全身を預けた。
誰の前でも、決して涙は見せない。笑んだ眦を伝うのは、汗か、ただの水だ―――。
王后チョンミョンが懐妊したという知らせが紫微国の王宮内を駆け巡ったのは、それからすぐのことだった。




