第22話 条
突然の申し出に、額に大量の汗が浮き出る。
「チョン医官?」
ヒャンの呼びかけに、フェリョンは急いで平身低頭して答えた。
「……も、申し訳ありません。私は、しがない下っ端の医官でして……。その、ヒャン妃様の診脈をできる身分では……」
「存じております。その上で、チョン医官にお願いをしているのです。人払いをしているので、チョン医官が咎められるようなことはありません」
「……し、しかし」
「お願いします」
口調は静かだが、強い瞳でヒャンが見つめる。たらりと汗が頬を伝う中、僅かに目を伏せたフェリョンは、覚悟を決めたように息をつき、ヒャンに向き直った。
「……それでは」
懐から取り出した薄い布を、差し出された手首の内側に被せ、一番強く脈打つ場所に息を整えてそっと指を乗せる。
ころころと珠のように勢いよく流れる脈動。
この動きは間違えようがない。紛れもなく懐妊の証だ。
脈は元気よく打っている。何も心配する必要はない。なのになぜ、わざわざ下っ端の医官を呼び出して、しかも厳重な人払いをしてまで、再度診脈をさせるのだろうか。
不審に思いながらもしばらく脈を計っていたフェリョンは、ふいに眉を寄せた。
意識を集中するように瞳を閉じて再度脈を計るが、やはり眉根を寄せて首を傾げる。
そんなフェリョンの様子を、ヒャンがじっと見つめている。まるで、フェリョンの一挙手一投足を逃さまいと構えているようだ。
内心で、蛇に睨まれた蛙―――いや、それではヒャンが蛇だと言っているようなので、優美な猫に睨まれた鼠と言い直しておこう―――のような心地がしてくるが、それでも脈を計る手は止めない。
「チョン医官、どうかしましたか?」
その猫に静かに声をかけられ、フェリョンはびくっと肩を震わせた。
「……い、いいえ。ただ―――……」
押し黙るように言葉を切り、考え込むように俯く。
気になることはあるが、出方を誤れば取り返しのつかないことになる。
そもそも、ただ事ではない様子に、ただ事ではない申し出だ。その真意は測れないが、答えようによっては確実に己の首が飛ぶ。
少々の間を空けて、フェリョンは神妙な面持ちで顔を上げた。
「恐れながら、最後にお月のものがあったのはいつ頃でしょうか?」
「月のもの、ですか。こちらに来ることが決まった頃のことでしたので、ふた月程前かと」
「そうですか……。では、誠に申し上げ難きことなれど、少々お腹の張り具合を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「お腹の張り具合を?」
「無礼は重々承知しておりますが……」
「いいえ、承知しました。必要でしたら、お願いします」
フェリョンの突然の申し出にも顔色を変えず、落ち着いた表情でヒャンが頷く。一礼した後、軽く押すようにヒャンのお腹に触れたフェリョンは、答えを見つけたように目を細め、静かに手を引いた。
「何か、問題でも? 遠慮なく言ってください」
「その前に―――」
思案するように目を伏せたフェリョンは、真剣な表情でヒャンを見つめた。
「私から申し上げる前に、ヒャン妃様にお聞きしたいことがございます」
「何でしょう」
「何故、私を召されたのでしょうか。先程も申し上げた通り、私は一介の医官に過ぎません。何故私を呼ばれたのか、その理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「理由……。もっともなご意見ですね」
ふっと微笑み、ヒャンは静かな瞳を向けた。
「チョン医官を呼んだ理由は三つです。まず、患者の状態を正確に把握できる能力があること。様々な医術書を読み解き、日夜医術の見識を深めようと努めているチョン医官でしたら、その能力は十分あると確信していました。そして、どうやらそれは正しかったようです」
「……? それは一体―――」
「二つ目の理由は、これは賭けでしたが……、大きな秘密を抱えても堂々としていられる度胸があること。今のチョン医官の様子を見ると、これも間違いなかったようです」
「………っ! では、ヒャン妃様はすでに―――」
言いかけたフェリョンにふっと目を細め、ヒャンは続けた。
「そして最後の理由は―――……、何よりも、命に対して誠実なこと」
その言葉に、フェリョンははっと目を見開いた。
「褒美や見返りよりも、命の尊さを知り、身分に惑わされることなく、一つの命を救うことに全力を尽くせること。出世よりも、疫病に苦しむ民を一人でも多く助けようと尽力しているチョン医官になら、命運を任せても大丈夫だろうと判断しました」
「ヒャン妃様―――」
ヒャンは気持ちを切り替えるように息をつき、静かな笑みをフェリョンに向けた。
「理由はすべて話しましたので、次はチョン医官の番です。どうぞ、所見を」
静かな水面を写したようなヒャンの眼差しに、フェリョンは一瞬言葉を詰まらせる。だが、大きく息を吐き出すと、覚悟を決めたようにゆっくりと口を開いた。
「先程ヒャン妃様は、最後の月のものがふた月前だと仰いました」
「はい。それ故、医官長からも、懐妊してふた月が過ぎた辺りだと言われています」
「―――恐れながら、それは否にございます」
「否、とは?」
「まず、私の見立てでは、その出血は月のものではなく、ご懐妊の兆候だったのではないかと」
「懐妊の兆候?」
「はい。懐妊すると血の巡りが変わり、ごく稀に月のもののような症状を起こすことがございます。恐らく、ふた月前のものはその出血で、その時にはすでにご懐妊されていらっしゃったのではないかと」
小さく息を吸ったヒャンの手が、胸元に動く。無意識なのだろうか、そこにある何かを衣の上から握りしめている。
だが、フェリョンはそのまま言葉を続けた。
「そのため、お腹のお子は今三月を過ぎた辺りかとお見受けいたします。脈やお腹の張り具合から見ても、まず間違いないかと。ですが、そうなると……」
フェリョンはその続きを言い淀み、口を噤んだ。
ヒャンは元々、光海国の首長妃だ。どんな経緯があったかは知らないが、かつての夫の子を身籠っていないことが確認されてからでなければ、ソンドの側室にはなっていない。
だが、その証明となったのが、月のものではなく懐妊の兆候だったとしたら、お腹の子の父親は……。
「チョン医官のお言葉、その通りです」
フェリョンの心の声に応えるように、ヒャンが静かに口を開いた。
「……やはり、ご存知だったのですね」
ゆっくりと頷くヒャンに、フェリョンは言葉を失くした。
この紫微国で、しかも王の側室として、光海国の首長の子を身籠っていることが知られれば、ヒャンもお腹の子も無事では済まされない。なのに、目の前のヒャンは不思議な程に落ち着き払っている。
ヒャンは視線を落とし、そっと自分のお腹に触れた。
「この子は、大王様のお子ではありません。今はそのお名前を口にすることすら許されないお方の……、私が心からお慕いし、一生を添い遂げたいと想っていたお方の、お子です」
想いを馳せるようにお腹を見つめるヒャンの瞳に、光るものが滲む。
「そのお方から託されたこの命を、私は何としても守り抜きたい。いいえ、守らなければならないのです」
「ですが……、」
それはすなわち、この国で、王の側室として、王の第一子として、その子を産み育てるということだ。それは、ヒャンも子も、ともに命を危険に晒すことに他ならない。
「チョン医官には本当に申し訳ないことをしていると思っています。私の我儘のために、遭わなくてもよい危険な目に遭ってしまうかもしれない」
「それは……」
「無理にとは申しません。それでも、あなたほどの方が味方になってくれれば、これほど心強いことはありません」
ヒャンは言葉を切り、正面からフェリョンをまっすぐに見据えた。
「力に、なっていただけますか?」
「―――……」
そのまっすぐな瞳に、フェリョンは自然と首を縦に振っていた。




