第21話 医
紫微国の医官チョン・フェリョンは、賑やかな喧騒に包まれた宮殿の中を、ある一角に向かっていた。
緊張の面持ちで進める足取りは、心なしか重い。
官吏装束の上に纏った白衣が縺れるように足に絡み、前を歩く女官との距離が開く。フェリョンは深く息をつき、冷たい汗でじっとりと湿った掌を握りしめ、早足で女官のあとを追った。
紫微国の宮中には、医術を司る内医院という部署がある。内医院には多くの医官、医女が在籍しており、フェリョンもその一人だ。
内医院の主な役割は、王室の安寧と紫微国の民の健康を守ることにある。
紫微国の最高医療機関として、王室の人々の体調に気を配ることはもちろん、民の間に疫病が流行っているという知らせが入れば一番に駆けつけ、それ以上の拡散防止に尽力することも大切な役割となる。
その内医院の医官として王宮に出仕し始めて十数年、周りの者達が何かしらの役について次々と出世していく中、フェリョンは未だに下っ端の医官を続けていた。
腕が悪いわけではない。むしろその逆で、フェリョンの医術の腕が優れていることは、気心の知れた同僚ならば皆知っている。だが、本人の不器用さが、せっかく舞い込んだ出世への道を悉く無にしているのだ。
様々な医術書を読み解いて医術の腕を磨くことや、患者に対して最善の治療を施すことに長けていたとしても、それだけではこの王宮ではやっていけない。
元来、上官に媚を売ったり、褒美や見返りの計算をして治療したりすることが不得手なフェリョンは、医術に対してはまっすぐだが、出世にはこと消極的だった。
また、そういうものを得意とする者たちからはなぜか疎まれる傾向にあり、よって、上官や他部署の高官などの中には、フェリョンの腕を並み以下だと認識している者も多い。
気付けば、後輩の多くにも追い越され、同時期に内医院に入った仲間たちの中で、王宮に出仕し始めた頃とさほど変わらない下っ端の医官でいるのは、フェリョンただ一人になっていた。
それでも、フェリョン自身は今の生活に大いに満足している。
国の最高機関で得た知識で、一人でも多くの患者を救うことができれば、医者冥利に尽きるというもの。高官の診察より、疫病に苦しむ民の治療に率先して当たるのも、そのためだ。
そんなフェリョンに突然声がかかったのは、仲間の医官たちが近頃一番の関心事について盛り上がっているそばで、何冊もの医術書を広げている時だった。
側室の一人であるヒャン妃が大王の第一子を懐妊したという知らせに、近頃宮中は明るく活気づいている。それは、フェリョンが勤める内医院とて例外ではない。
医官たちの間では、誰がヒャン付きの医官になり、一番の出世の道を手にすることができるかという話題で持ちきりだった。
ヒャンが身籠った子が男児なら、庶子とはいえ、ソンドの長子になることは間違いない。その生母であるヒャンのお付医官になれば、自動的にその御子のお付になることにもなり、もしその御子が世継ぎにでもなれば、将来は約束されたも同然だ。
また、もし女児だったとしても、第一子を担当すれば、第二子、第三子と担当できる可能性が高まる。つまり、世継ぎを担当する布石になりうるのだ。
どちらに転んでも、ヒャン、ひいては、ソンドの第一子の担当医官になれるかどうかで、この先の出世に大きく関わってくる。だからこそ仲間の医官たちは、その差配を決める医官長に毎日のように群がり、こぞって出世の道に乗ろうと競い合っていた。
そもそもの出世の道から外れている自分に声がかかるはずもない、とたかを括っていたフェリョンは、仲間たちの輪には加わらず、今日もいつもと同じように医術書の埃と格闘していた。
その中で、唐突に「チョン医官―――」と医官長の声が聞こえた時、フェリョンは初め、自分が呼ばれていることに気付かなかった。
周りがしんとなり、自分に視線が注がれていることにようやく気付いて顔を上げたフェリョンの目に、医官長と、そのそばに見知らぬ女官が立っているのが映った。
「チョン医官、ヒャン妃様がお呼びだそうだ。急ぎ向かいなさい」
医官長に急かされるままに支度をし、仲間たちが血走った視線を送りつけてくる中、フェリョンは女官の後ろに付き従うように内医院を出て、今に至る。
だが、どうして自分が呼ばれたのだろう。
上官や、官位のある仲間の医官たちならともかく、フェリョンはしがない下っ端の一人に過ぎない。そもそも、王の妃に見える身分でもなければ、今注目の妃に名指しで呼ばれるほど、目覚ましい活躍をしているわけでもない。
結局フェリョンは、「医官の手を煩わせるほどのことでもないが、それでも気になるからちょっと聞いておこう」というくらい軽い内容の質問をするために、暇そうな下っ端医官を適当に呼んだだけだろうと結論付けた。
それにしても……。
顔を上げたフェリョンは、額に浮かんだ汗を手で拭い、また足を早める。
女官の足が早いのか、はたまたフェリョンの足が遅すぎるのか、気付けばすぐに距離が開いてしまう。
たしかに、最近少し出てきた腹が気になっていたところではあるが……。
緊張だけでなく、日頃の運動不足も祟ってか、汗だくになりながらその距離を詰めるのも何度目かに至った頃、前を歩いていた女官が歩みを止めた。
「ヒャン妃様、チョン医官をお連れしました」
扉に向かって、女官が声をかける。いつの間にか、ヒャンの居所に着いていたようだ。
「中に通して」
切らした息を慌てて整えるフェリョンの耳に、中から涼しげな声が届く。
両開きの扉を開き、女官が道を空ける。
「どうぞ、お入りください」
フェリョンが中に入るのと同時に扉が閉められ、女官の足音が遠のいていくのを後ろに感じた。
それを頭の隅で怪訝に思いながら、奥に進む。
入ってすぐの場所には、外からの目隠し用に衝立が置かれている。その向こうに足を踏み入れたフェリョンに、部屋の奥の方で立ち上がった背が、ゆっくりと振り返った。
その姿に、初めて見える。これが―――。
ヒャンから少し離れたところで立ち止まり、フェリョンは深く礼を取った。
「臣チョン・フェリョン、ヒャン妃様にご挨拶申し上げます」
硬い声で深々と頭を下げるフェリョンに薄く微笑み、軽く頭を下げる。
「チョン医官、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「いいえ、滅相もございません」
「こちらに」
ヒャンはそばの円卓を指し示し、フェリョンに席につくよう促した。
静かに頷き、ヒャンが座すのを待って腰を下ろしたフェリョンは、遠慮がちに顔を上げた。
静まり返った室内の様子に、少しばかり眉を寄せる。
今、宮中で一番の渦中の人物の居所であるというのに、この場所はあまりにもしんとしている。まるで、宮中の喧騒から切り離されたように、その賑やかさをまったく感じない。
そこで、フェリョンははたと気づいた。そういえば、ここに向かう途中、誰ともすれ違わなかった。
ここは、王の第一子を宿した妃の居所だ。普通であれば、ひっきりなしに人が出入りしていてもおかしくはない。なのに、途中の回廊には人っ子一人いなかった。
そしてさらに、宮中であればどこにでも配置されているはずの衛兵の姿も見なかったことに気づく。
やっと授かった現王の直系血筋だ。警備を厚くしこそすれ、一人もいないなどということはあり得ない。
ここの様子にしたっておかしい。そばに多く控えているはずの女官の姿は一切なく、先程の女官もヒャンとフェリョンを残してどこかに行ってしまった。
そこまで至ってようやく、フェリョンはあえて人払いがしてあるのだということに思い至る。しかも、かなり徹底した人払いだ。
ここまで厳重に人の目と耳を退けてあるとは、これはただ事ではない。
なぜ自分はこんなところへ呼ばれてしまったのだろう。こんな「上の御方」の事情を鑑みることは自分には不得手なのに。
今すぐ回れ右をして帰りたいが、大王の妃を前にそんな無礼は許されない。息をするのも憚られるような空気に、ごくりと唾を飲み下す音がやけに大きく耳に響いた。
「チョン医官を呼んだのは他でもありません」
静かに口を開いたヒャンが、ゆっくりと右腕を卓の上に置く。
「診脈をしてもらえますか」
「……………診脈、ですか?」
「ええ、そうです。診脈をお願いします」
頷くヒャンに、呆けたような視線を向けたまま、フェリョンは固まった。
フェリョンは高位の医官ではない。ただその末端に席を連ねているだけの、一介の医官だ。大王の妃の診脈をするなど、とんでもない話だ。
だが、かと言って、断ることもできない。それはそれで、不敬に当たる。
予想だにしていなかった申し出に、フェリョンは凍りついたように固まった。




