第20話 命
衝撃で体がふらつき、足の力が抜ける。
つかえていた重い錘が吹き飛び、軽くなった胸に一気に空気が流れ込んでくる。その勢いに上手く息が継げず、開いた口から息切れのようにかすれた声が漏れ出た。
「では、この子は……、この子は、大王様の子ではなく―――……」
確かめるように呟く声が震える。
ユノは微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。
つまり、お腹の子は仇の子などではなく、真に愛する人との間に授かった、大切な忘れ形見だということ。
途端に目頭が熱くなり、思わず口元を押さえた指の間を、こぼれた涙がすり抜けていく。凝った心が溶け出すように、先程までとは全く違う熱い涙が溢れ、ヒャンの頬を濡らした。
まだ宿ったばかりの小さな我が子を撫でるように、ユノがヒャンのお腹にそっと触れる。
「希望に包まれた子だ」
愛おしそうに見つめて、本当に穏やかな声で。
「人よりも何倍も辛い道を歩むことになる。だがきっと、まっすぐに歩いていける強い子になるだろう。重い宿命にも負けず、その天命を必ず成し遂げてくれるはずだ」
止め処なく溢れる涙に、ヒャンは声が出ない。そんなヒャンの頬を両手で包み込み、ユノが微笑んだ。
「私たちの子をどうか頼む、ヒャン」
愛しい感触を確かめるように親指で頬を撫で、近づけたヒャンの額に優しく口づけをする。
ヒャンは頷くように瞳を閉じた。眦から落ちた涙がきらりと光り、白い頬に一筋の線を描く。
ふわり、と風が吹いた。
頬をすり抜けた風に、瞼が震える。
目を閉じていたヒャンは、こめかみに固い感触を感じた。同じように、体の片側が固い何かに触れている。
ヒャンは重い瞼に力を込め、ふるふると瞳を開いた。濡れた睫毛がゆっくりと上がる。
細い視界に、半身を預けるように壁が広がっているのが映った。のろのろと彷徨わせた視線の先に、ふつりと壁が途切れているのが見える。階下に続く石段だ。そこでやっと、壁ではなく地面に横たわっているのだということに気付く。
ヒャンはゆっくりと身を起こした。霞みがかった視界に目を凝らす。先程、身を投げ出そうとしてユノに引き戻された石段は、少し先に広がっていた。
はっと目を見開き、急いで辺りを見回す。つい今しがたまで目の前にいたユノを探すが、その姿はどこにも見えない。辺りには人の気配はなく、ただ静かに月明かりが降り注いでいるだけだ。
ヒャンは視線を落とし、細かく震える手を見つめた。
強く掴んで階上に体を引き戻してくれた腕の感触が、確かにそこに残っている。驚くほどにはっきりと、ユノの言葉が耳の奥に木霊している。
胸がつきりと痛んだ。
夢を、見ていたのだろう。あまりにも強く願っていたから。
だから、それが夢だとは思えないほどに、本当にユノがそこにいたように感じるのかもしれない。
それでも。
震える手でそっとお腹に触れ、その感触を確かめるようにゆっくりと指先を伸ばす。
夢かもしれない。生きるための、願望かもしれない。
だが、ヒャンは確信していた。それが夢だったとしても、ただの願望だったとしても、ここには、このお腹には、確かにユノの子がいる。
ユノに託された、大切な命がある―――……。
「……あなたは、ユノ様の、お子だったのね」
呟くように僅かに開いた口から、嗚咽が漏れた。胸の奥が痺れるように痛くなり、溢れた涙が頬を滑る。
「ごめんなさい」
お腹に宿るまだほんの小さな命に、涙に濡れる声で語りかける。
「母親だというのに、そんな大事なことにも気付かず……。ごめんなさい」
寄せた眉が大きく震える。嗚咽が混ざる喉を抑え、ヒャンは涙を堪えて優しく微笑んだ。
「私が、この母が、あなたを必ず守ってみせます。必ず」
お腹に触れる手に、力を込める。
ユノ様の子を。果たすべき天命をもった、私たちの子を。必ず。
強く誓うように、何度も何度も繰り返す。
それに応えるように、どくん…どくん…と脈打つお腹が小さく振動した。それはまるで、お腹の中の我が子が生きる力を与えてくれるかのように。
目の奥が震え、短い息をつくたびに熱い涙がこぼれる。
凍ったように止まっていた時が、再び動き始める。
「ヒャン妃様!」
倒れ込んだように地から身を起こそうとするヒャンを見つけ、ユンファの金切り声にも似た叫び声が響いた。
ヒャンを探してここまで来たのだろう。走り寄るその後ろには、数人の兵の姿も見える。
ヒャンは急いで涙を拭い、息を整えた。
「ヒャン妃様、大事ありませんか!」
駆け寄ったユンファがヒャンを助け起こす。
「ええ、大丈夫よ。少し足の力が抜けただけだから、心配しないで」
喉に力を込め、努めて落ち着いた声で答える。だが、松明に照らされてもなお白いままのヒャンの顔色に、ユンファは血相を変えた。
「このように血の気の引いた青いお顔で、何をおっしゃるのですか……っ! 私がどれほど心配したと……! このままではいけません! とにかく、医官を呼びましょう!」
「やめなさい」
医官を呼ぼうと走り出しかけたユンファを、ヒャンは強い口調で止める。
「……で、ですが、何かあっては……」
「私なら大丈夫。お腹の子も、心配ないわ」
視線を落として、衣の上からそっとお腹に手を触れる。それだけで、ユンファには伝わったのかもしれない。それまでと違う強い光を宿したヒャンの瞳に、はっと息を呑む気配が伝わってくる。
それを承知の上で、ヒャンはユンファに微笑んだ。
「心配かけてごめんなさい。でも、私はもう大丈夫よ」
「ヒャン妃様―――」
「何も無かったのだから、わざわざ大事にする必要はないわ。このまま部屋に戻りましょう」
お腹の子がユノの子となれば、この紫微国の王宮で無事に産み育てるには、それだけで危険が伴う。騒ぎはなるべく起こしたくない。
ヒャンはお腹を見つめ、決意するように唇を引き結んだ。
この子が無事に育つためには、ユノの子であることを知られてはならない。ソンドの子として育て、そして、この先もずっとその秘密を誰にも悟らせてはならない。
だが、それを叶えるためには、最低でも協力者が一人は必要だ。
落としていた顔を上げ、ヒャンは心配そうな視線を寄越すユンファをまっすぐに見つめた。
「ユンファ、一つ頼みがあるの」
ヒャンの強い眼差しに、ユンファは言葉もなくヒャンを見返した。




