第19話 夢
闇に聳える王宮の壁が冷たく見下ろす中を、ふらり……ふらり……と力なくヒャンは歩いていた。
進むたびに胸元の首飾りが小さく揺れ、硬い感触が僅かに胸を叩く。
遠くを見つめる瞳には、何も映されてはいない。
その瞳から、一粒の涙がこぼれた。瞬きすることも忘れた瞳から、溢れたものが一筋、また一筋と頬を伝う。
涙なんて、もう枯れ果てたと思っていた。
これ以上の絶望なんて、もうないと思っていた。
噛みしめた唇から、堪えきれない嗚咽が漏れる。
「――――……!」
唐突に、何かが胃の腑を突き上げた。
せり上がってきたものを押し留めようと、ヒャンは手で押さえるが、間に合わない。激しい吐き気に襲われ、その場にしゃがみ込む。
「………っ、ぐっ……ごほっ」
すえた臭いが鼻を突いた。その臭いがさらに強い吐き気を誘い、激しく咳き込む。額にじっとりとした汗が滲み、ひゅうひゅうと漏れる呼気がむせた喉を熱く焼いた。
ふらりと立ち上がった膝から力が抜け、くずおれるように地に手をつく。
「―――――」
もはや抑える気力も失った涙が、後から後から流れては、ヒャンの頬を勝手に濡らしていく。
……嫌だと思っているのに。
お腹を押さえる手に力がこもる。握りしめた指先は白くなり、強張った肩が小刻みに震えた。
消えてほしいと、思っているのに……。
きつく握りしめた拳で、お腹を殴る。何度も、何度も。繰り返し、何度も。
涙で視界が歪む。
途方に暮れたように空を振り仰いだ視界に、ふいに地面が途切れている様子が掠めた。ふらりと立ち上がった足が、そちらに向かう。
じゃり……。
裸足の足に、ひやりとした石の冷たさが伝わってきた。そのへりに立ち、下を見下ろす。
ひゅう……っ、と下から吹き上がった風が、頬をすり抜け、腰に垂らした長い髪を揺らした。
そこに伸びていたのは、階下へと続く数十段の石段。そして、その下に広がる、固い石畳。
ここから落ちれば、ひと思いにすべてを終わらせることができるだろう。
へりにかけた爪先をゆっくりと擦り出し、ヒャンは闇に染まる空を見上げた。
約束してくれ―――。
ふいに耳の奥に蘇った懐かしい声に、それまで感情が灯っていなかった瞳が大きく揺れる。
約束してくれ―――。何があっても、生き延びると。
闇を見上げたままのヒャンの瞳から、つう……と涙がこぼれた。瞼の裏に、恋しい笑顔が浮かぶ。
力なく垂れ下がっていた手が動き、胸元に揺れる首飾りに触れた。
掌にちょうど収まる大きさの銀板に、勇壮な嘴を構えた鴉が力強く羽ばたく白玉の彫刻が施された首飾りだ。
きりきりと胸が締め付けられ、刃を突き立てられたように強く痛んだ。
「―――……っ」
それは、ユノと最後に交わした約束。
最期の瞬間まで、自分自身のことより、それだけを案じてくれていた。
この身がどれほど穢れようと、心がどれほど壊れようと、この世に自分を繋ぎ留めていたのは天命なんかではなく、その約束だったのかもしれない。でも。
へりに架けた足を、少しずつ前に進める。
ごめんなさい―――……。
涙に濡れる瞳を閉じ、浮いた足に体重をかける。少しずつ、体が傾いでいく。
あの男の種を宿して生きることは、どうしても。
どうしても、私にはできない―――。
投げ出された体が宙に舞う。
地に打ち付けられた体は、今度こそ確実に時を止める。それを、心から願った。
瞬間。
落ちるはずの体が、ぐん、と強い力で引かれ、ヒャンは閉じていた瞳を大きく見開いた。
腕を掴む強い力がヒャンの体を階上に引き戻し、その反動で、風を受けた髪が大きく翻る。
視界が半回転し、そのまま何かの中に飛び込んだヒャンは、顔を上げて言葉を失った。そこに。
「………っ」
月明かりのもとでも見間違うはずのない、優しい眼差し。
だがそれは、そこにあることなどありえない、胸を締め付ける愛しい眼差し。
顔を上げたまま動くことのできないヒャンに、その瞳がふっと微笑む。
「ヒャン」
漆黒の衣に、無造作に束ねた髪を風にたなびかせて。
もう二度と聞けないと思っていたその声に、みるみるうちに視界が涙で覆われ、何も見えなくなっていく。
「ユノ様………?」
唇が震え、涙に濡れてかすれた声が小さくその名を紡ぐ。その声に頷くように目を細め、ぼやけて輪郭を失う世界の向こう側に、優しい笑みが広がるのが見えた。
ありえないと分かっている。でも、確かに目の前に、ユノがいる。
涙でそれ以上の言葉が出てこず、ヒャンは苦しくて張り裂けそうな胸を、衣の上から握りしめた。瞬くことすらもできない瞳から溢れた熱い涙が、頬を伝う。
腕の中のヒャンを見下ろし、ユノは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ヒャン、何を泣いている。そなたにそんな涙は似合わない。私の言葉を忘れたか?」
そう言って、溢れる涙に声を出すこともできないヒャンの頬に触れ、幾筋も伝う涙を指先で拭う。
「言っただろう。そなたの笑顔こそが、何よりの癒しなのだと」
穏やかな声が耳に届く。
ユノはヒャンの瞳を覗き込むように首を傾け、愛おしそうに微笑んだ。
頬にはりつく髪をそっと払い、優しく頭を撫でるようにしてヒャンの肩を抱き寄せる。ユノの肩口に顔を寄せたヒャンを、白檀の香りが優しく包み込んだ。
「これは、夢でしょうか……?」
詰めた息を吐き出す喉が震える。
夢でいいからもう一度―――。
何度願ったか分からないその夢が、今目の前にある。もう二度と叶わないと思ったユノの体温が、今ここにある。
ヒャンは、その存在を確かめるように、背に回した指で漆黒の衣を強く握りしめた。
「……いいえ、夢でも、よいのです。ずっと、お会いしたかったです、ユノ様―――」
「私もだ、ヒャン。私も、会いたかった」
小さく囁くような、泣き笑いにも似た声が耳元で響く。
温かく力強い腕を背中に感じ、ヒャンは堪えきれず、引き絞るように瞳を閉じた。整った眉が大きく震え、眦から溢れた涙が頬を伝っていく。
どうして、ユノがここに。
そんな問いは、わざわざ口にするまでもなく消えていく。そんなことはどうでもよい。
今ここにユノがいる。いてくれる。それがすべてだ。
ゆっくりと腕を解き、ユノはヒャンから体を離した。ヒャンの顔を確かめるように頬に手を添えて見つめ、優しく諭すような眼差しを向ける。
「ヒャン、ここで一体何をしている。約束しただろう、何があっても必ず生き延びると」
その言葉に、堪らずヒャンの眉が歪む。
忘れたのではない。ユノの言葉は、今もしっかりとこの胸に残っている。けれど。
ヒャンは涙で震える喉を必死に抑え、振り絞るように答えた。
「ユノ様がいない世界で……どのように生きていけばいいのか、分からないのです」
「ヒャン……」
穏やかなユノの瞳が僅かに陰るのを認め、引き攣れた傷が痛み、ヒャンは掌を強く握りしめた。
「ユノ様がいなくては、生きていく意味など……」
「それでも、生きていかなければならない」
「……できません!」
ヒャンは問うようなユノの視線から顔を背け、悲痛に歪む瞳を伏せた。
「私には、できないのです……!」
言ってはいけない。これ以上、ユノの顔が悲しみに染まるのを見たくない。
そう思っているのに、迸るように口をついて出る言葉が止められない。
「今、このお腹には、ユノ様を死に追いやった男の……子どもが……いるのです」
伏せた瞳から、ぽとり、ぽとり、と涙が落ちる。
言葉を発するごとに、心が深く抉れていく。
「仇の子を宿して生きることなど、私には耐えられません」
見えない傷口からどんどん血が溢れ、ぎりぎりと痛む心をまっ赤に染めていく。それでも、止められない。
絞り出すように言葉を続けるヒャンを、ユノは言葉もなくただ見つめた。
「子に罪が無いことは分かっています。ですが、だからこそ、産むわけにはいきません。生まれてもきっと不幸になるだけ。それならいっそ―――、」
生まれる前に、この穢れた身と共に―――。
「ヒャン、それは違う」
静かな声に、ヒャンははっと顔を上げた。見上げた瞳に、揺るぎのないまっすぐな双眸が映る。
ヒャンの言葉を否定するように強い瞳を向けたユノは、握りしめて強張るヒャンの手に視線を落とした。それをゆっくりと解き、重ねるように取ったヒャンの手を、自らの手ごと、ヒャンのお腹に当てる。ユノの温もりがヒャンの手を温め、じんわりとお腹に広がっていく。
「この子を……、天命を持った私たちの子を、守ってくれ―――」
耳ではなく心に語りかけるように、ユノが言う。
その言葉に、まるで時が動きを止めたかのように、ヒャンは息を詰めた。耳に入った言葉が、なかなか頭の中で意味を成さない。
ヒャンは、見開いた瞳で呆然とユノを見返した。
「……私たちの……子?」
はりつく喉に何度も唾を呑み込み、やっとの思いでそれだけを呟く。
お腹にいるのはソンドの子どものはず。だが、その言い方ではまるで―――……。
その問いに頷くように目を細め、ヒャンを見つめたユノがふわりと微笑んだ。そして、はっきりとした口調で言い切る。
「私と、そなたの子だ」
瞬間、一陣の強い風がヒャンの体を突き抜けた。




