第18話 報
「それで? ヒャンはどうしている」
低く発された声に頭を下げ、そばに控えていた内官が静かに答える。
「変わらず食も細く、膳にもほとんど手をつけられていないご様子。何をされるでもなく、ただ窓の外を眺めていらっしゃるとか」
その言葉に、弓に矢を番えながら聞いていたソンドの手が一瞬動きを止めた。だが、そのまま何事も無かったように弓を構える。
紫微国の紋章が織り込まれた額当ての下で、切れ長の目がすっと細まる。
普段は頭の高いところから垂らしている髪を髷の形に結い上げ、狩用の身軽な装束に身を包んだソンドは、数間先に置かれた牛の顔が描かれた的に向かって矢を放った。
ドンと音を立てて、牛の額に矢が刺さる。的の横に控えていた兵が大きな旗を回し、的中を知らせる声が響いた。
「ふん、まだ忘れられぬか……」
誰に語りかけるでもなく、小さく呟く。
目を細めるソンドに、頭を下げた内官が両手で次の矢を差し出した。出された矢を片手で掴み、ソンドは再び弓に番える。
ファン・ユノを手にかけ、ヒャンを召し抱えてから、すでにふた月が経とうとしていた。その間、ソンドは数日と空けずにヒャンの元を訪れている。
ヒャンの心に未だにユノがいることは、肌身離さず身につけている首飾りを見れば分かる。
勇壮な鴉が翼を広げた白銀の首飾り。光海国の首長に代々受け継がれてきたというあの首飾りは、今ヒャンの胸にかかっている。
取り上げてもよいその首飾りをそのままにしているのは、ヒャンがかつての夫を忘れずにいることを許容しているからではない。
単に、それ自体にさほどの興味がなくなったからだ。
欲しい、と大いにそそられたのが嘘のように、あの首飾りを見ても何も感じなくなった。
あれはファン・ユノの誇りそのものだ。今となってみれば、単に、その誇りを奪い取りたかっただけなのかもしれない。
ファン・ユノが死に、その首飾りを持つヒャンも手中にある今、わざわざそれを奪うことに労力を費やす必要もない。
それに。
「天命より夫を選ぶと言っていたが、これが現実だ」
くっと口角を吊り上げ、ゆっくりと弓を構える。だが。
的を見据えるソンドの目の奥に、ふいに昨晩のヒャンの姿が浮かび、ソンドの眉がぴくりと動いた。弓を握る手に無意識のうちに力が入り、ぎり……と小さな音を立てる。
紫微国に来てからというもの、ヒャンは何の抵抗もしなくなった。抵抗もしなければ、声もあげない。ユノを殺した憎い仇であるはずなのに、ただソンドのされるがままになっている。
気が付けば自害を図ろうとすることが唯一抵抗といえばそうかもしれないが、結局死ねることなどないのだから、それは無駄な行動以外の何ものでもない。
かつての夫への未練など、正直ソンドにとってはどうでもよい。ヒャンを手中に収めているという事実は変わりようがないからだ。しかし。
ソンドの胸の内に熱く滾るものが宿る。息が乱れ、引き絞った弓が微かに揺れた。力任せに放った矢は軌道を逸れ、何もないところに突き刺さる。
僅かに剣を帯びた目で的を見やり、ソンドはふんと小さく息をついた。
だからこそ、余計に。
つまらぬ―――……。
大人しくされるがままになっているのが気に入らない。
ヒャンは心ここにあらずという様子で、仇であるソンドが触れても何の感情も表さない。
嫌なら泣けばいい。叫べばいい。なのに、それすらもしない。
それがなぜか、ソンドの虫の居所を悪くさせるのだ。
だがソンドは、細めた目を下に落とし、ふっと笑った。莫迦らしいと言うように、小さく首を振って再び目線を上げる。
ヒャンの心の内がどうだろうと、ソンドにとってはどうでもよいこと。三景統一の子さえ産んでくれればそれでいいのだ。
今はまだヒャンに懐妊の兆しはないが、それも時間の問題だろう。
興味をなくしたように弓を台に放り、ソンドは的場をあとにしようと踵を返した。そこに。
「大王様!」
こちらに急ぎ足でやってくる者が目に入る。
紫微国の官吏の装束に、白い羽織を纏っている。王宮の医官をまとめる医官長だ。
息を切らしながらソンドの前まで来ると、医官長は慌てた様子で礼をした。髭を蓄えた初老の医官長の額にはうっすらと汗が滲み出ている。急ぎの用なのか、ここまで駆けて来たのだと思われた。
顔を上げた医官長の顔には、疲労にも勝る嬉々とした表情が浮かんでいた。
「大王様、おめでとうございます!」
その言葉に、訝しげにソンドの眉が動く。
「何事だ」
「先程知らせが参り、確認も取れました。ヒャン妃様ご懐妊の由にございます」
「……………何?」
数瞬の間をおいて、医官長に向けられたソンドの目がぎらりと光る。
「お祝い申し上げます、大王様!」
深く一礼する医官長を見下ろす目に、徐々に笑みが広がっていく。
ヒャンが、懐妊―――。
「……くっ、くく……」
動いた唇から、噛みしめるような小さな笑い声が漏れ出る。
初めは小さかったその声は、少しずつ勢いを増し、やがて地響きのように腹の底を震わせる大きな笑い声となって、辺りに響き渡った。
「くく……。ははは! ……はははははっ! 」
これ以上ないほどに口の端を吊り上げ、ソンドはこみ上げる笑いを隠すことなく、大きく肩を震わせ続ける。
ついに―――。
両の拳を力強く握りしめ、ソンドは鷹のように鋭く光る目をかっと見開いた。
「どれほど待ったことか、この時を!」
三景統一の覇者へと導く天命の子が、ついにこの手に―――。
ソンドは、心の奥底から湧き起こる喜びの念に、身の内が打ち震えるのを感じた。
ヒャンが懐妊したという知らせは、風のように紫微国の王宮内に広まった。
なんせ、君主であるソンドの初めての子であり、しかも三景統一の天命を持った子である。その知らせに、王宮内は、一日にして上から下への大騒ぎとなった。
ヒャンは元々、光海国の首長であるユノの妻だ。そのため、お腹の子は本当にソンドの子であるのかと怪しむ声も少なからず上がったと聞く。
何も知らず、よくもそのような話を―――と、ユンファは悔しさを通り越して怒りすら感じる程であったが、ソンドはその話を、文字通り一刀のもとに斬り捨てたらしい。その進言をした臣の首がその場に転がり、ソンドの無言の返答に場は騒然となり、以降異議を申す者はいなくなったという。
たしかに、ソンドの側室として紫微国に来ることが決まってから、ヒャンに一度月のものがあったことはユンファも確認している。そのため、お腹の子がユノの子であるという話はありえない。
そして、ソンドの子を宿したヒャンに対して今まで以上に格別の気を遣い、世話をするよう申し渡されたユンファは今、薬を手に回廊を急いでいた。
日に日にやせ細っていくヒャンに、ユンファはただ気を揉むことしかできなかったが、懐妊によるつわりなら、食が細くなっていたことにも頷ける。そしてそれは、懐妊初期に流れやすいお腹の子が、元気に育っている証だとも聞いたことがある。だが。
生きることに対し否定的になっているヒャンにとって、この紫微国で子ができるということがどういうことか、その悲嘆は想像するにも余りある。ユンファでさえ心に鉛を抱えるようなのに、ヒャンが受けた衝撃は如何ばかりか。
ますます辛く生きにくい世になってしまうのではないか、ユンファはそれを案じていた。
だが、どう足掻いても、それを拒否するという選択肢がヒャンに与えられることはない。であれば、ユンファにできることは、少しでも心安らかにヒャンが過ごせるよう心を尽くすことだけだ。
そのためにもまず、弱った体を整えることが何より先決だ。医官に言われて、懐妊中の気付けに良いという薬を貰いに行っていたユンファは、急ぎ足でヒャンの居室に戻った。
「ヒャン妃様、お薬をお持ちしました」
扉を押し開けて、衝立の脇を通り抜ける。そばの卓に薬を置き、淹れたばかりの茶を注いだ。
「今は何においてもまず、お元気になっていただかなくては―――」
言いながら、部屋の奥に視線を滑らせたユンファは、さっと色を失った。茶器を置き、慌てて奥に入る。ぐるりと目を走らせた顔が、その青さを増した。
先程まで寝台に横になっていたはずのヒャンの姿が無い。紫微国に来てから、何も告げずにヒャンが部屋を空けることは一度も無かった。
「ヒャン妃様!? ヒャン妃様!」
呼びかけるが、当然返答は無い。
窓の外は、もうじき日が暮れようとしている。なぜだか嫌な汗が全身に噴き出した。
ふいに、ユンファの脳裏に、医官の診脈を受け、懐妊を言い渡された時のヒャンの様子が浮かんだ。
凍りついた瞳が、まるで音も無くひび割れていくようではなかったか。
「……………っ!」
ユンファは息をつめた。
完全にひびが入ったあとに待っているのは、崩壊しかない。
考えればすぐに分かることではないか。ヒャンの瞳に浮かんだ昏い色。あれは、これ以上ない程深い、絶望の色だ。
今までとは比べ物にならない。それはきっと、辛うじて踏みとどまっていたものを、とん、と押してしまうには十分過ぎる程の。
気付いた時には、ユンファは部屋を飛び出していた。




