第17話 粥
突然、落ち着いた声音が室内に響いた。同時に、衣擦れの音が二人の耳に届く。
ホン尚宮と共に衝立の向こうから現れたその姿に、ヒャンははっと身を強張らせた。
「―――王后様」
急いで席を立ち、頭を下げる。それに倣い、ユンファも半歩引いた場所で頭を下げた。
深く一礼するヒャンの前で足を止め、チョンミョンがゆっくりと向き直る。
「ヒャン妃。外から何度か声をかけたのだが、返事が無かったので、勝手に入らせてもらった」
「……申し訳ありません」
「何度声をかけても聞こえないとは、余程取り込み中だったようだな」
ついと辺りを見回したチョンミョンは、ふいに眉根を寄せた。ヒャンの首筋に滲む血と、床に転がった髪飾りにさっと目を走らせ、剣を帯びた瞳でヒャンを見据える。
「まさかそなた……、またこうしているのか」
「………」
まっすぐな眉を不機嫌そうに歪め、睨むように冷たい視線を投げかけてくるチョンミョンに、ヒャンは思わず両手を握りしめた。力の入り過ぎた指先が白くなり、細かく震える。
「この後宮を血で汚すなどあってはならないこと。自らの命であろうと好き勝手は許さない、と何度言えば分かる」
気遣うでもなく、攻めるようなその厳しい口調に、ヒャンはただ黙って頭を下げることしかできない。
相手は後宮の主、紫微国の王后だ。当然の言葉である。
「それほどまでに苦痛なのであれば、なぜこのような場所までのこのこ参ったのか」
舌打ちするように小さく呟かれたチョンミョンの言葉に、ヒャンは俯いたままぐっと唇を噛みしめた。
好きで、ここにいるわけではない。己が命でさえもままならないことは、誰よりもヒャン自身が一番よく分かっている。
小さく口を開き、短く息をついたヒャンは、気力を奮い立たせて喉に力を込めた。
「お心を煩わせてしまい、また、後宮の風紀を乱してしまい、申し訳ありません」
「それが分かっていながら―――……、まぁ、よい」
ここに来た頃よりも痩せ細った肩を小さく縮めるヒャンを見下ろし、ふんと短く息をつく。そのままそばの卓に目をやったチョンミョンは、そこに冷え切った膳が置かれているのを見て、目を細めた。
「紫微国の味は、そなたには合わないか」
「いえ、滅相もございません。ただ、食欲がなく……」
弱く答えるヒャンの前を通り、チョンミョンが卓に近づく。足を引いて道を空けたヒャンの鼻腔を、群青の衣に焚き染められた香りが掠めた。チョンミョンの歩みに合わせて広がるその香りになぜか胸が詰まり、ヒャンはむせかけるのを必死に堪える。
「ホン尚宮」
「はい、王后様」
そばに控えていたホン尚宮が静かに頭を下げる。
「膳を片付けよ。それから、あれを」
「かしこまりました」
頷いたホン尚宮が、冷えた膳を手に静かに下がって行く。ホン尚宮から目を戻したチョンミョンは、ヒャンを振り返った。
「かけよ」
卓に腰かけるようヒャンを促し、自身も反対側の上座の席にゆっくりと腰を下ろす。
「ヒャン妃、大王様がそなたの子を心待ちにしていること、まさか知らないわけではないだろう?」
「それは―――……」
「紫微国の大王が、一介の側室に過ぎない、それも、元は敵国の首長妃であったそなたの子を心待ちにされているのだ。これがいかに光栄なことか、そなたに分かるか」
その言葉に、ヒャンは押し黙ったまま視線を落とした。
ソンドがヒャンの子を望んでいる、それはそうだろう。自分の野望を叶えるために、天命を持つヒャンを手に入れたのだから。ユノを殺してまで―――。
俯いて押し黙るヒャンの様子を肯定と取ったのか、チョンミョンはふんと短く息をつき、言葉を続けた。
「それが分かっていながら、今も自害を図ろうとしていたというのか。そなたは我らが……いや、私のことがさぞや滑稽だろうな」
真っ赤な唇を薄く広げ、チョンミョンが自嘲の笑みを浮かべる。
「そなたがしていることは、私に対する侮辱以外のなにものでもない。望んでも手に入らない大王様のご寵愛に幾度となく背を向けるそなたに、私がどれほどやるせない思いを抱えているか、そなたには想像もできないだろう」
「私は―――……」
ヒャンは俯いたまま両手を握りしめた。力が入り過ぎた指先が白くなり、細かく震える。首筋の擦れた傷がちり、と痛んだ。
「私は……大王様のお子を産むつもりはありません」
小さくはあったが、強い決意が込められたようなその声音に、チョンミョンの眉が跳ね上がる。
「……何だと?」
「ですので、どうか……私に構わないでください」
震えそうになる喉を抑え、声が掠れないようゆっくりと言葉を続ける。
瞼の裏に、ユノの笑顔が浮かぶ。耳の奥に、ユノの笑い声が響く。そのすべてをはっきりと覚えている。
ユノの姿を思い描く度に刺すように胸が痛むのに、仇の子を産むことなどできるわけがない。したくもない。
目頭がじわりと熱くなり、俯いた視界に涙が滲んだ。
「そなた、何か勘違いをしていないか?」
笑みを孕んだような声に、ヒャンはのろのろと顔を上げた。冴え冴えとした視線を向けるチョンミョンを、言葉も無く見つめる。
「たかが側室ごときが、畏れ多くも大王様のお子を産むつもりはないだと? そなたに、選ぶ権利などあるわけがなかろう」
「―――……」
「決めるのは大王様だ。そなたの心がどうであろうと関係ない。大王様がお気持ちを変えられない限り、そなたに拒む権利はない」
吐き捨てるように呟いたチョンミョンは、ヒャンから顔を背けた。
そこに、一瞬だけ、それまでは見えなかった本音のようなものが混ざったような気がした。
だが、そこに「失礼いたします」と響いた声に、そう感じたものもきれいに霧散してしまう。代わりに、再び笑みを浮かべたチョンミョンの赤い唇が、戻ったホン尚宮の方を向く。
ホン尚宮は、湯気を上げる器が乗った盆を手に、チョンミョンとヒャンが腰かける卓に近づいた。
「王后様、お持ちいたしました」
「ああ」
真っ赤な口を笑みの形に曲げ、頷いたチョンミョンがヒャンに目を向ける。
「最近、めっきり食が細くなっていると聞いてな。そなたのために特別に粥をつくらせたのだ。これでも、私は王后ではないか。この後宮の主として、側室の健康に気を配る義務がある」
チョンミョンがそう話す間に、ホン尚宮がヒャンのそばに控えていたユンファに盆を渡した。受け取ったユンファがヒャンの前にその粥を置く。ヒャンは目の前に立ち昇る湯気になぜか再び胸がつかえるのを感じ、思わず胸元を押さえた。
「食べやすいように、滋養のある食材を細かく刻んで粥にさせた。これならば、食が細くなっていても体に負担をかけずに食べられるだろう」
「お心遣い、感謝いたします。ですが―――、」
「私が用意した粥が―――」
ヒャンの言葉を遮り、チョンミョンが静かに口を開く。すう――…と細めた目をヒャンに据え、ひどく冷たい声で言葉を続ける。
「まさか食べられない、とでも言うつもりではないだろう?」
ふっと表情を緩め、笑みを湛えた瞳でヒャンを見据える。
「……いいえ。ありがたく、いただきます」
ヒャンは断りかけた言葉を止め、匙に手を伸ばした。
ずいぶん前から食欲を感じなくなった。今となっては食べ物を見るだけで吐き気が出ることもある。
食が、生きるために必要なものであればこそ、それを摂ることでさえもユノを裏切っているように感じてしまうからかもしれない。だが。
伸ばした手にきらりと目を光らせ、チョンミョンがちらりとホン尚宮に視線を送った。その視線を受けて、ホン尚宮が小さく頷く。それを確かめ、チョンミョンの真っ赤な口端が微かに上がったのが、視界の端に見えた気がした。
体が受け付けずとも、ここで口にしないという選択肢はない。ヒャンは息を吐き出し、匙に粥を掬った。
ゆっくりと口に近づく粥から立ち昇る湯気が、ゆらゆらと揺れる。
息を詰めて、それを口に入れようとしたところで、唐突に、その手が止まった。
口にしようとした瞬間広がった粥の匂いに、ぎゅっと喉の奥が詰まり、胸を衝き上げて何かがせり上がる。
突然吐き気に襲われ、ヒャンは咄嗟に口元を押さえた。苦しそうに眉が歪む。
その様子に、チョンミョンが訝し気に眉根を寄せた。
「ヒャン妃、どうした」
「……いいえ、なんでも」
突然のことに訳も分からず、ヒャンは胸を押さえた。息を整えて、再び粥を口にしようと、震える手で匙を持ち直す。だが。
「………っ!」
立ち昇る湯気に、再び強い吐き気を催し、ヒャンは思わず匙を取り落とした。ざっと音を立てて顔から血の気が引いていく。
粥を口に入れようとして途中でやめるヒャンに、チョンミョンは焦れたような表情を浮かべた。苛立ちを表すように眉間に力が入るが、ヒャンの視界にそれは映らない。
険しい表情で粥とヒャンを見比べていたチョンミョンは、ふいにはっと大きく瞳を見開いた。みるみるうちに眉間の皺が深くなっていく。
「そなた……、まさか―――……」
「……………?」
口元を押さえ、肩で息をしながらチョンミョンを見上げたヒャンは、厳しいその眼差しに、嫌に大きく鼓動が跳ねるのを感じた。




