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【3万PV突破!】白い鴉の翔ぶところ ~辺境からてっぺん目指す!底辺からの下剋上~  作者: TEN
第一部 天命の子

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第16話 罪

時が止まったまま、動かない。


どれほどそうしていたのか、ヒャンはふと思い出したようにゆっくりと視線を巡らせた。


既に日は傾きかけており、窓辺に長い影を作り出している。いつの間に灯されたのか、室内には小さな明かりがちろちろと揺れていた。目の前の卓には膳が設(しつら)えられており、微かな湯気の気配も無いほどに冷えているのが見て取れる。


紫微国(しびこく)の王宮、その最奥(さいおう)に位置する後宮の一角。王族に連なる者たちが住む場所に、今のヒャンの居所はある。


かつて腰に垂らされていた長い髪は頭の上にまとめられ、編み込んだその髪を一巡するように髪飾りが挿されている。幼い頃から慣れ親しんだ様式とはまるで違う、首元の開けた一重の上に胸から下に流れる裳を纏い、肩から流しているのは艶やかな刺繍が施された重厚な羽織。

夕暮れ時の重い風が頬を撫で、豪奢な耳飾りをゆらりと揺らした。


自分のために用意された部屋の椅子に座していたヒャンは、両手で握り込んだ手の中に再び視線を落とした。感情の欠落した瞳が、手の中のものを見つめたまま動きを止める。


勇壮な鴉(からす)が力強く羽ばたく白銀の首飾り。


そこに込められた想いに触れるように、痩せ細った指先が、ゆっくりと鴉の姿をなぞる。かさかさに乾いてひび割れた唇が僅かに開き、虚ろな瞳が微かに揺れる。


止まったまま、動かない。時が。心が。

どこにも進めず、戻ることもできず、ただそこにい続けることしか許されない。


息をするたびに喉の奥が引き攣り、刺すような痛みが胸を襲う。色を失った白い肌には、いつのものかも分からない涙のあとが、既に幾筋も走っている。


見下ろす首飾りの上に、ぱたり、とまた滴が落ちた。

ヒャンは流れては消える涙を止めようともせず、手の中の首飾りを見つめた。


繰り返し浮かぶ情景がある。

格子の向こう側から伸ばされた手。最後まで強く握りしめてくれていた手を離し、背を向けた自分。そして、硬く瞼を閉じたまま動かない姿と、染み込んだ大量の血が洗い流され、雨に濡れそぼっていく紙のように白い肌。


何度も何度も繰り返されるその情景に、癒えることのない傷がじくじくと膿むように痛む。


ヒャンは首飾りから片手を離し、結われた髪にのろのろと腕を伸ばした。肉の落ちた白い腕が、羽織の袖から覗く。


一巡するように挿された髪飾りの一つに触れ、その存在を確かめるように這わせた細い指でゆっくりと引き抜いた。髪に挿しやすいよう細く尖った先端に小さな明かりが反射し、きらりと光る。


髪飾りの柄(え)の部分を握りしめ、ヒャンは静かに息を整えた。

もはや、手に取れるものはこんなものしかない。繰り返し命を絶とうとするヒャンの元から、ソンドはすべてのものを取り払った。


天命を果たすまでは命を絶つことなどできぬ―――――。


そう言って嗤(わら)った言葉を、骨の髄までヒャンに思い知らせるかのように。だが、それでも。


痩せ細った白い肌に、灯された橙の火が揺れる。深く息を吐き出したヒャンは、握りしめた髪飾りの先を自らの喉笛目がけて突き立てた。

その時。


「ヒャン妃(ひ)様!」


突如、悲鳴にも似た声が響き渡った。

幼い頃から実の姉妹のように育ち、今はソンドの側室であるヒャン付きの女官として紫微国の後宮に仕えるユンファが、ヒャンの元に駆け寄る。


「ヒャン妃様、おやめください! ヒャン妃様!」

「……っ、放して……! 放して!」


掴んだものを離そうとしないヒャンの首筋を切っ先が引っ掻き、白い肌に血が滲んだ。


「お命を絶とうなど、もうおやめください!!」


叫ぶように声を上げたユンファが、ヒャンの手から鋭く尖った髪飾りを奪い取る。頼りのよすがが手から離れ、虚しく空を掻いた指先に、ヒャンの瞳が苦痛に染まる。


引き絞った眦(まなじり)から涙が零れ、ヒャンは縋(すが)るようにユンファの裾を掴むと、溢れそうになる嗚咽を堪えて声を絞り出した。


「……ユンファ、お願い。どうか、あなただけでも……私の好きなようにさせて」

「ヒャン妃様……」


裾を握りしめ、必死に懇願するヒャンの姿に、ユンファが言葉を失くす。


ここには、ソンドの命(めい)を受けた者しかいない。その者達は皆、ヒャンの行動に常に目を光らせている。ユンファでさえ、幾度となく命を絶とうするヒャンを封じるために、ソンドが光海国(こうかいこく)から連れて来た一人だ。


だが、真実、ユンファがヒャンのことを心から案じていることは承知している。ソンドの命が無くとも、ユンファはきっとそばにいてくれただろう。だからこそ、ユンファが今動いているのはソンドのためでも誰のためでもなく、ただ一人、自分のためであることも理解している。けれど。


「全部、私のせいなのに―――……!」


抱えきれない痛みを爆発させるように、ヒャンは叫ぶ。


「光海国を失ってしまったのも、ユノ様がもういないのも、すべて私のせいなのに! 私だけがのうのうと生き続けているなんて……」

「あなた様のせいなどと、そのようなことをおっしゃらないでください!」


即座に膝を追ったユンファが、ヒャンに視線を合わせる。


「ヒャン妃様のせいだなんて、あるはずがありません。それに、首長(しゅちょう)様を想われればこそ、ここでお命を絶たれてはなりません!」

「……すべて、失ってしまった。国も、愛する人も。私のせいで。私に課せられた、望みもしない天命のせいで、何もかも―――……」


ヒャンはユンファから顔を逸らし、悲痛に染まる瞳を苦しそうに歪めて呟いた。


「……ユノ様を想えばこそ? ユノ様は、きっと分かってくださるわ。誰よりも、優しいお方だったから……」


そう、自分自身の命さえも顧みないほどに―――。


逸らしたヒャンの瞳に涙が溜まっていく。ずきりと胸が痛み、息をするのにも喉が震える。


「あの時もそうだった。ご自分のことなど顧みず、ただ私を逃がすことだけを考えて……」

「それ故にございます! ヒャン妃様のご無事を誰よりも願っておられたのは首長様です。そのお心を無駄にされてはなりません!」

「いいえ!」


ヒャンの肩を掴んで止めようとするユンファを涙で濡れる瞳で睨み、ヒャンが鋭い声を上げる。


「だからこそ私は、死んで当然なの」

「……っ! 何を……」

「あの時、ユノ様が死の淵に立たされていた時、私が何をしていたか……分かる?」


息を詰めるユンファに、振り絞るような声でヒャンが続ける。


「あの人が一人、冷たくなっていく間、私は……仇の……腕の中にいたのよ。ユノ様は私のために犠牲になったというのに、私はあの人を守るどころか、裏切ってしまった……!」


溢れ出る悲痛な叫びが室内に響き渡る。


「ですが、相手は大王(だいおう)様……、この紫微国の君主です。どんなに強い女人でも、きっと防ぐことなどできなかったはず……」

「誰にも防げなければ、罪が消えると言うの? ……事実は変えられない。それに……一度だけでは、ないじゃない―――……」


呟いたヒャンの表情が激しい痛苦の色に歪んだ。引き絞った両の瞳から、一筋、二筋、と涙が落ちる。


ソンドがヒャンを組み伏したのは、あの一夜だけではなかった。ユノのあとを追って死のうとするヒャンを捕え、無理やり側室に据えただけに留まらず、三景(さんけい)統一の天命の子を望むソンドの手は何度もヒャンに伸び続けた。


仇の腕に抱かれる苦しみから逃れようと何度自害を試みても、生死の境を彷徨うことはあっても、なぜか死にきれない。図ったようにいつも失敗に終わってしまう。


天命を果たすまでは命を絶つことはできない。その言葉が、呪いのようにヒャンに絡みつく。


自らの意志を貫くこともままならない天命など、ただの足枷(あしかせ)でしかない。死にたくても死にきれない。なのに、穢れに穢れていく体に心がすり減っていく。


ヒャンの手が、再びユンファに伸びた。力なく握りしめた手を、何度もユンファにぶつける。


「これ以上は耐えられない。ユノ様を……、あの人の心を守るためにも、この方法しかないの。だから、お願い……。私を死なせて―――……」


ヒャンの頬を、幾筋も幾筋も涙が伝った。胸の奥に深く穿(うが)たれた傷口が、醜く引き攣れていく。


愛する人を裏切った。それも、何度も。何度も。自分の意志など関係ない。ただその事実が、今にも崩れそうな心に重く圧(の)し掛(か)かり、もはや限界に達している。


「―――何の騒ぎだ」


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