第15話 毒
輿に乗り込んだチョンミョンに一礼し、ホン尚宮が木戸を下ろす。ゆらりと持ち上がった輿は、枠木を軋ませながらゆっくりと進み始めた。
最近、ソンドは光海国から連れ戻った女の元に足繁く通っている。
女を連れ帰ると聞いた時は、またかと思っただけだったが、聞けば、元は光海国の首長の奥方だという話だ。
その女のことを思い浮かべ、輿の中に座したチョンミョンの目が鋭く光る。
ただの女ならまだしも、夫ある身の者に手を出すソンドも、それを甘んじて受けたあの女も、どれだけ紫微国の王后たる自分を辱めれば気が済むのか。
光海国の元首長妃がなぜソンドの側室になったのか、その経緯などどうでもよい。あの女が繰り返し自害を図ろうとする理由にも興味などない。ただ、紫微国の王后である自分を軽んじるソンドと、それをまざまざと感じさせるあの女の存在が許せない。
神経を逆撫でされるのは、それだけではない。
その女、ヒャンは、三景統一の王母になるという天命を持っているのだという。
今やソンドは、自分や、他のどの側室よりも、あの女に子ができることを待ち望んでいる。あの女から男児が生まれれば、ソンドはその子を王太子にする気なのだろう。
天命などという戯言を信じてヒャンの子を待ち望むソンドだが、まったく、心から理解に苦しむ。
王太子、ひいては次の王の母に相応しいのは王后であるこの自分だ。そして、この紫微国は自分の子のものでなければならない。そのすべてを邪魔するヒャンは、視界に入るのも厭うほど虫唾が走る存在でしかない。
―――どうしても男児が欲しければ、他の子種を―――……。
先程の巫女の言葉がふいに蘇り、チョンミョンは輿の中で忌々しげに目を細めた。
占などというまやかしの力に頼ろうなど、愚にもつかぬことをしてしまった。何を言われようと、しょせんはたかが占。この自分が男児を、いや、ソンドの嫡男を産めないなどあり得ない。
揺れていた輿が止まり、がたりと音を立てて地に下ろされる。ホン尚宮が外から木戸を折り上げ、チョンミョンはゆっくりと外に出た。
紫微国の王宮の最奥、王后の居所である中宮殿。
この一際大きな朱塗りの殿閣こそ後宮の主である証、チョンミョンの住まう場所である。
中宮殿の前に止まった輿から降り立ち、中に入ろうと足を伸ばしたチョンミョンに、後ろから声がかけられた。
「王后様」
その低い声に振り返ったチョンミョンは、目を細めた。
「これは、チャン将軍。随分と久しいな」
「なかなかご挨拶に伺えず、申し訳ありません」
チョンミョンに静かに頭を下げたギテは、さっと周りに目を走らせ、意味深な視線を向けた。その目が語るものに気づき、チョンミョンはホン尚宮を横目で見やる。
「将軍を中に通せ。それから、誰も中宮殿に近づかせるな」
「かしこまりました」
しばらくして、ギテが待つ中宮殿の謁見の間に姿を現したチョンミョンは、良家の妻女の身なりを常の王后装束に改め、悠然とした足取りでギテの前に立った。
まっすぐな眉に、黒い瞳。鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは、意思の強さを感じさせる。
きっちりと編んだ黒髪は頭の上にまとめられ、そこに挿された何対もの金の髪飾りが眩く輝いている。床に広がる濃い群青の衣には、金銀の蝶が散りばめられ、歩くたびに胸元の房飾りが小さく揺れる。
静々と下がっていくホン尚宮を見やり、チョンミョンが座すのを待って腰を下ろしたギテは、無表情な瞳をチョンミョンに向けた。
「どこか、行かれていたのですか?」
ギテの問いに、チョンミョンは睨むように目を向ける。
「それをいちいちそなたに報告する義務が?」
「いいえ、そのような意味では―――」
「よい」
ギテを片手で制し、チョンミョンは面倒臭そうに視線を逸らした。そして、厳しい口調で静かに尋ねる。
「それで、命じたものは準備できたのか?」
「はい、ここに―――」
しばしの間を空けて、ギテが懐から出した小さな包みをチョンミョンに差し出した。卓上に置かれた包みに手を伸ばしたチョンミョンの口元に、微かに笑みが広がる。
「無味無臭で、銀の匙にも反応せず、毒見役が口にしても何の害もありません。ただ、この薬を飲むと子は孕めなくなります」
「そうか」
満足そうに頷くチョンミョンに、それまでは静かだったギテの双眸に僅かに気遣うような色が宿る。
「ですが、王后様」
「何だ」
「これが大王様に知れれば、いくら王后様といえども無事では済まされませぬ。まことに実行なさるおつもりですか?」
その言葉に、チョンミョンの眉がぴくりと跳ねた。
「では、あの女が世継ぎを産むのを、指を咥えて見ていろとでも?」
「いいえ、そうではありませんが、王后様自らが危うい橋を渡られずとも……」
「黙れ!」
ギテの言葉を遮り、チョンミョンは強い力で卓を叩きつけた。並べられた茶器が、反動でがちゃりと音を立てる。
「この後宮で屈辱に耐え忍んできた月日がどれほどになると? あの女が世継ぎを産むようなことがあれば、屈辱の日々を終わらせるどころか、私は死んだも同然だ。紫微国の国母たるこの地位を、みすみすあの女に渡せとでも言うのか!」
「いいえ……! 私はただ、王后様の御身を案じて申し上げているまで!」
普段の無表情からは想像もできないほど、珍しく声を荒げて反論するギテを斜めに見やり、チョンミョンは冷たい笑みを浮かべた。
「……案じる? そなたが?」
低く呟き、睨むように眉間に力を入れる。
「一介の将軍に過ぎないそなたが、この国の王后である私を案ずるだと? どうやら、そなたも私も甘く見ているようだな」
「いいえ、私は心から申し上げているのです。確かに私はただの臣に過ぎませぬ。ですが、私は王后様を命に代えてもお守りしたいと心から思っております」
「はっ、ぬかせ!」
微かに眉を寄せて押し黙るギテに、チョンミョンは冷ややかな視線を向けた。
「そなたの心など何の足しにもならない。そなたはただ、命じたことだけをしていればよい。それ以上は望みもしないし、望むことも許さない」
「……出過ぎたことを申し上げました。申し訳ありません」
頭を下げるギテにふんと短く息をつくと、チョンミョンは手の中の包みに目を落とした。
ヒャンはもう何度も自害を図っている。結局は生きているが、生死の境を彷徨うことも幾度かあった。もし子ができなくなったとしても、それは自殺未遂のせいだと誰もが考えて疑わないだろう。
ヒャンが死のうが死ぬまいが、チョンミョンにとってはどうでもいいことだ。だが、子を産むことだけは許さない。誰であろうと、この地位は絶対に渡さない。
チョンミョンは小さな包みを見下ろし、にやりと笑った。




