第24話 蛸
フェリョンと話した翌日から、ヒャンの担当医官はフェリョンになった。
「本日も、問題ございません」
卓上で布越しに診脈をしていた手を離し、フェリョンが頷く。それを受けて、ヒャンもほっと息をついた。
日に一度、フェリョンはヒャンの元を訪れ、問診と診脈をし、時には食べ物や行動についての助言もしてくれる。そうでなくても不安の多い妊娠、それに助けられている部分が大きい。
日増しにお腹が大きくなっていく中で、自分と、お腹の子の命を預けられる存在がいるというのは、それまで考えていたものよりずっと心強いものなのだと日々実感している。
フェリョンは道具を片付け、席を立つ前に「ヒャン妃様、」とこちらを向いた。
「そろそろつわりも落ち着いてくる頃かと思います。食欲が戻りますと、これまで思うように食べられなかった分、いろんなものがおいしく感じられるかと思いますが、食事の摂り過ぎには十分ご注意ください。よく勘違いされるのですが、お子様と二人分と考えて必要以上に食されますと、出産の際に難儀することになります」
「そうなのですか」
お腹の子が誰の子であるかなど関係なく、ヒャン自身と、子のことだけを考えて助言してくれる言葉に、我知らず口元がほころぶ。ヒャンの手は、自然とお腹に触れた。
「何を口にしても砂を食べているようだったので、おいしいと感じられることは幸せなことだと感じていたところだったのですが、気をつけねばなりませんね」
「ええ、さようにございます。また、体調も安定して参りますので、少しずつ外を歩かれるのもよろしいかと。適度な散歩は気分転換にもよいですし、安全なご出産のためには体力をつけておくことも重要ですので」
「分かりました。そのように心がけましょう」
フェリョンの助言に、ヒャンが頷いて応える。
いつもならそのままフェリョンは席を立ち退室していくのだが、この日はなぜか、話が終わったあとも何やら俯き、考え込むようにしていた。
「チョン医官、どうかしましたか?」
「ああ、いえ―――」
ヒャンの問いかけにフェリョンは言い淀むように呟いたあと、だが覚悟を決めたように顔を上げる。
「恐れながら、まことに私がヒャン妃様のお付きでよろしかったのでしょうか……」
その言葉に、ヒャンは思わず瞳を瞬いた。そのまま首を傾げるヒャンに、フェリョンは言葉を重ねていく。
「今さらこのようなことを申すのは無礼であることは、重々承知しております。ですが、私は、しがない下っ端の医官です。上官や高官の方々に覚えがめでたいわけでもなく、大した功績をあげているわけでもありません。内医院には他に優秀な医官がたくさんおりますし、いくら考えても、私よりこの場所に相応しい者が他にいるのではないかと」
「それは―――」
フェリョンがヒャンの担当になってから、もうしばらく経っている。純粋に、なぜ今頃そんなことを言うのだろうかと思った。
「他の方がどのように考えているかは私には分かりませんが、功績とひと口に言っても、何に価値を見出すかは人それぞれだと思います。高官の方々には覚えがめでたくなかったとしても、民の間ではそうではないでしょう。チョン医官は、民間の医療機関である医房や薬房にも頻繁に顔を出し、率先して民の健康な暮らしを守っていると聞きました」
「民の暮らしを守るなど、そのような大層な話ではございません。私はただ、それが医官の務めだと考えているだけです。それに、たいていの場合が、医房や薬房の注文や我らに対する文句を聞くばかりで。医官の手で守れるものなど、限られているのです。私など、大した役には立っておりません」
「いいえ、そのようなことはありません。現に、私は大いに助けられています」
言って、ヒャンは以前より大きくなってきたお腹を優しく撫でた。
抱えている秘密の大きさを思えば、これほど穏やかに過ごせている今がどれだけ恵まれたものなのか、よく分かる。この子とともに、敵ばかりのこの場所で無事でいられるのも、フェリョンのおかげであるところは大きい。
「チョン医官だからこそ、私は任せることにしたのです」
「ですが……」
それでもまだ口ごもるフェリョンに、ヒャンは、ああ、と思い至る。
「―――もしや、どなたかに何か言われましたか」
ヒャンにとっては至極自然な人選だったが、立場上、それをやっかむ人間というのも確かにいるのだろう。
それを言うと、フェリョンは返す言葉に詰まったように、僅かに口を開いたまま固まった。
「い、いえ、そのようなことは……」
そう答えつつ、だが視線はうろうろと辺りを彷徨っている。心なしか、額には脂汗のようなものが浮き出ているようにも見える。
恐らく、図星なのだろう。
その大変分かりやすい様子に、ヒャンは小さく息を吐き出した。
これでよく、十数年もこの王宮でやってこられたものだ。
世渡り上手という言葉があるが、フェリョンはきっとその手のことはからっきしの部類に入る。
実直な性格で、上手く誤魔化す、ということが本当に苦手なのだろう。だが、いい意味で、そこに人が表れているとも思う。
ヒャンはふっと相好を崩しながら、けれど、今も困ったようにおろおろとしているフェリョンをまっすぐに見据え、語りかけた。
「チョン医官。私は自分の直感を信じています。そして、その直感は間違っていなかったと実感しています。他の方が何と言おうと、私は既にチョン医官を信頼しているのです。私の信頼では足りませんか」
ヒャンのまっすぐな瞳に、フェリョンははっと目を瞠り、やがて深く首を垂れた。
「―――いらぬことを申しました。どうぞ、お忘れください」
「分かってくれればよいのです」
そうヒャンも頷き返したところで、「失礼します」とユンファが卓のそばにやって来た。手に、螺鈿の箱を持っている。
「ヒャン妃様、作らせていた菓子ができあがったようです」
ユンファが蓋を開けると、きれいに並べられた色とりどりの菓子が目に入った。フェリョンも、それを物珍しそうに覗いている。
「これは?」
「光海国の菓子です。無性に食べたくなり、無理を言って用意してもらいました。甘味がたくさん使われているので、あまり多く食べるとよくないかもしれませんが」
ふふ、と目を細めながら、ヒャンはお腹を撫でた。フェリョンは変わらず、菓子の一つ一つを興味深そうに見つめている。
「ほう、光海国の菓子ですか。このようなものは初めて見ました」
「あら、ひょっとして、チョン医官は甘いものがお好きなのですか?」
「ええ、まあ、人並みに嗜む程度には。されど、こちらは初めて目にします。光海国には、このように色も形も美しい菓子があるのですね」
先程までの思い悩んでいたような表情が嘘のように、心から感心したようにフェリョンがそう言ったところで。
唐突に、ぐきゅううっというような、空気を絞る切ない音が細く響いた。
ヒャンは思わず、蓋を開けたままそこにいたユンファと顔を見合わせた。そしてそのまま、同じ方向に揃って顔を向ける。
見ると、音を響かせた張本人は、はっと固まったまま身を強張らせた。その顔が、まるで茹で上がるように色を変えていく。
「あの、チョン医官、よければ、こちらをどうぞ」
「ああ、いいえ、そのようなわけでは……。失礼しました」
ごほん、とわざとらしく咳ばらいをし、そして、これまたわざとらしく眉間に力を入れて、しかつめらしいような表情をつくったフェリョンは、立ち上がってヒャンに一礼した。
「それでは、私はこれからまだ次の仕事がありますので。また明日うかがいます」
「ええ、よろしくお願いします」
頭を下げた形のまま後ろに下がり、衝立の向こうに入る辺りでくるっと体の向きを変えると、フェリョンは足早に部屋を出て行った。
それをユンファと言葉もなく見送ったところで、どちらからともなく、ふっと笑みをこぼす。
「チョン医官、まるで茹蛸のようでしたね」
「ふふ、そうね。でも、それを本人に言ってはだめよ」
自分のものも含め、久し振りに、腹の虫が鳴る音というものを聞いた。
あれ程空気を弛緩させる音は他にはないのでは、と少々笑いを堪えながら再びお腹に触れ、心の内で「ねえ?」とヒャンは我が子に語りかけた。




