第72話 述
見ず知らずの男に、急に居住まいを正して一礼されても、それを向けられた当人は戸惑う以外にない。
「は……?」
いきなり本題に入ったテホンに対し、状況が呑み込めない様子のソンジェは訝し気に眉根を寄せた。
普段から、小さな子どもであればその顔を見ただけで泣き出してしまうような仏頂面だ。眉根を寄せているせいで、軽く怒っているようにも見えるその顔に、それでもテホンは最初の姿勢を崩すことなく、丁寧な笑顔を浮かべたまま同じ調子で続けた。
「ああ、失礼。私は都城で医官をしております、カン・テホンと申します。本来は身を清め、整えた上でお邪魔すべきところ、このように、こちらに到着したばかりの薄汚れた格好で訪ねてしまい申し訳ありません。しかし、善は急げと申しますし、ことも幾ばくかは急を要するものですので、多少のご無礼はご理解いただければと」
「はあ……」
幾ばくか、しか急を要しないのか……。
命じられた任務よりも、明らかに善は急げの方に重きを置いたような物言いに、スハはそれを聞きながら思わず微妙な顔を浮かべてしまった。が、ソンジェの方はというと、そうして加えられた説明にもただ首を捻るばかりだ。
しかし、唯一それだけは聞き取れたようで、「……都城?」と一つ呟き、違う形に眉を寄せてスハの方を見た。
ソンジェが何を思っているのか、同じようにそれを連想してしまったスハには、手に取るように分かる。同時に、そこに滲むありがたい程の心配も。
だが、それにスハが何かを言う前に、テホンの方が再び先に口を開く。
「実は、近頃この国を賑わせている『リラン』という薬がありまして、その薬について調べるよう命じられ、私はこの地にやって来たのです。聞けば、ソンジェ殿の薬房はこの辺りで一番なのだとか。そんな方であれば、リランについても何かご存じではないかと思い、こちらに参った次第なのですが……」
「はあ、そうですか……」
一応はそう返しているが、ソンジェの頭の中はまだ疑問符だらけのようだ。その不可解さをぶつけるように、じろり、となぜかこちらを睨むように横目で見られ、「いやいや俺は関係ないって!」と思いながら、スハはテホンの肝心なところをすっ飛ばした説明に慌てて言葉を加えた。
「父さん、リランってのは、どんな痛みも、どんな病も、それさえ飲めば立ちどころによくなるって噂の万能薬だよ。形状は丸薬らしいんだが、一粒でも飲めば、長年苦しんだ痛みも病もあっという間に消えるらしい。その噂自体は隣街でも少し前から聞くようになったんだが、父さんはリランについて何か知らないか?」
言うと、ソンジェはまた訝し気に一つ瞬いたあと、なぜかいつものように渋い顔になってスハを見た。
「お前……、隣街って、しょっちゅう行ってるわりに、そんな噂が出回ってるなんて話、俺は聞いてないぞ」
「……ああ、いや、まあそれは、余計なことを話してこれ以上父さんに心配かけるのも―――と、俺なりに気を遣ってだな」
「余計なことだと? 最近、持っていった半分も売らずに帰ってくることを不審に思っていたが、そこにその件が関わってくるなら余計なことじゃないだろう!」
たくさん売れても何かしら言ってくるくせに、売れなくても言ってくるのか。だから話さずにいたというのに。
リランについての話などそっちのけで急に始まった親子の応酬に、テホンが瞳を瞬いている。ドハンは慣れたもので、放っておけばそのうち静まることを知っているため、何もせずただやり取りが落ち着くのを待つことにしたようだ。
「だあっ、もう俺のことはいいんだよ! 今はこっちだろ! それで、どうなんだ? リランについて、父さんは何か知ってることはないのか?」
戻ってきた話に、咳ばらいをしてテホンもソンジェを見た。
「どんな些細なことでも構いません。もしソンジェ殿が何かご存じのことがあれば教えていただきたい」
しかし、そこで再び、ソンジェは非常に居心地の悪そうな顔をテホンに向けた。
「すみませんが、そのソンジェ殿というのは、やめてもらえませんか。俺は別に、そんな風に呼ばれるような人間じゃありません。それに、あなたは都城で医官をされているのでしょう。であれば、良家のお方のはず。そんな方が我々のような人間に対して、「殿」などとつけて呼ぶものではありませんよ」
「ああ、そうか。あんた、良家の人間か。―――でっ! 何すんだよ!」
「お前は、いくつになっても……! 口の利き方がなっていない奴で申し訳ありません」
呟いたスハの後ろ頭を、ソンジェが強い力で払う。痛む頭を押さえながら抗議の声を上げるが、ソンジェの方はまったく聞いていない。
「どうぞ、気安く接してください」
どころか、テホンに対し、謝罪とともに頭を下げている。
都城で官吏を務められるような家柄は、良家の者と決まっている。つまり、このテホンも良家の出だということだ。
今の今まで思い至らなかったが、本来は肩を並べて話せるような相手ではないということである。
しかし、このおっさんが良家の人間とは……。
なんせ、テホンの口調や雰囲気は、スハが知る良家の常識からは大きく外れているのだ。今に至るまでそれを意識しなかったとしても無理はない。
だが、当のテホンは「ふっ、何を」と、ソンジェの言葉を軽く流すように笑った。
「身分など関係ありませんよ。その道を極めた方に敬意を表するのは当然のことです。ですが、そうですね……、ソンジェ殿が嫌だとおっしゃるのであれば、では、ソンジェさんと呼ぶことにします」
変わらない調子で言うテホンに、ソンジェは聞き分けのない子を見るように口をへの字に曲げた。
「あの、その口調もやめてもらえませんか」
「口調?」
「良家の方にそのように丁寧な言葉遣いで声をかけられては、こちらとしても少々調子が狂います」
「ああ、なるほど。では、そちらもお望みの通りにしましよう。これでよいかな?」
両手を軽く広げるようにして言うテホンに、ソンジェは呆れたように一つ息をついて頷く。
おお……!
それを見ていたスハは、心の内で思わずテホンに拍手と称賛を送った。
隙あらば容赦なく拳を振り落とそうとしてくるこのソンジェ相手に、ここまでの優位を保ち、かつ、あそこまでたじたじとした顔をさせるとは、良家だという事実を除いたとしても驚きである。
このカン・テホンという人は、見た目によらずすごい人かもしれない。
そんなどうでもいいところで感心しているスハを尻目に、ソンジェは「それで……、」とようやくテホンに向き直った。
「リラン、でしたかな。たしかに、この街でも最近、時々耳にする名ですが、私も詳しくは存じ上げません。私にその話をしてくれたのは、いずれも隣街と繋がりがある者たちでして、話はやはりそちらの方から聞いたと言っていたように思います。先程スハも申していた通り、どうやらこの街よりも隣街を中心に広がっている薬のようですね」
「なるほど、隣街か……。この辺境でリランが広まっているならば、尚景や冲景にも続く大きな波止場があるというこの街を中心としてのことだろうと考えて、隣街はほぼ素通りしてしまったからな。先を急いだ分、裏目に出たか……」
考え込むように腕を組み、口元に手を当てて呟くテホンに、スハはドハンと顔を見合わせる。
「おっさん、リランは多分、尚景や冲景から入ってきたもんじゃないぜ。そっちから入ってきたものなら、この街を飛ばして隣街で噂になるなんてことはまずあり得ないからな」
「ああ、ドハンの言う通りだ。かと言って、隣街でつくられたもんでもないようだ。それなら都城の方から流れてきたのかと思えば、都城ではリランそのものどころか噂すら出回ってないんだろう? ……あ、ですよね?」
最後は、なんだその口の利き方は、と睨んでくるソンジェに対して言い直したものだ。だが、当のテホンはというと、そんなことはまったく気にしていないようだ。
「ああ、それはそうなんだが―――て、おい、待て。なぜ君たちがそんなことを知っている?」
どころか、頷きかけて途中で眉をひそめ、スハたちに対して大きく首を捻った。
「君たちはソンジェさんの薬房を手伝っているだけだろう? そんなことは、ただの手伝いが知りえる情報ではないと思うが」
「なぜも何も、これくらいは少し調べればすぐに分かることだ……ああ、ですよ」
少しでも気を抜こうものなら、親父殿のありがたい鉄拳が飛んでくる。テホンに対する口調にはもう少し気を付けた方がよさそうだ。
「なるほど、だからさっき話していた時もリランの名がすぐに出てきたんだな……」
納得したように頷くテホンに、スハは口調に注意しつつもう一つ加えた。
「聞いたところによると、都城ではまったく知られていないのに、別の辺境の地ではここと同じように万能薬の噂が広まっているそうですね。それもきっとリランでしょう。線では繋がっていないのに、点と点だけが不自然に別の場所に生じている。噂もリラン自体も、流入経路が不明なんです。これは一体、どういうことなんでしょう?」
「スハ、お前はまたそうやって―――」
現時点で分かっていることをつらつらと述べるスハに対して、黙ってまた勝手なことを―――とソンジェが眉根を寄せる。が、実際にそう続きそうになった言葉を遮り、どうしてかそこで「ふはっ!」とテホンが噴き出した。
「はは、なんと、そこまで知っているか。いやあ、これは驚きだ。君は何か、リランに恨みでもあるのか?」
「え? いや、それは……」
「くく、まあ、いい。ソンジェさん、どうやらスハ君は思っていた以上にリランについて詳しいようだ。薬房やスハ君自身に迷惑はかけないようにするので、すまないが、少しスハ君の手を借りてもいいだろうか」
「―――は?」
瞳を瞬く本人を無視して、だが話はそのまま進んでいく。
「……ああ、ええ、まあ、都城から来られた医官様の務めは重要なものでしょうから。こいつがお役に立てるのであれば、ぜひお遣いください」
「あ、おい! 父さん、何を勝手に―――」
「そうか、それはありがたい。いやあ、これで務めも順調に進められそうだ」
いい笑顔で礼を述べるテホンは、言いながらぽん、とスハの肩に手を置いた。
「さて、そうと決まれば、早速隣街に行こうじゃないか」
……やっぱり、そうなると思ったよ。
既に多大な迷惑をかけられている気がする。
にんまりと笑うテホンに、スハは盛大にため息をついたのだった。
改稿し、少し長くなってしまいました。
あとで再度修整するかもしれません。




