第71話 察
『リラン』についてスハが知っていることは、その調べに対してあまり多くはない。
まず、この辺りでは主に隣街の良家の間で、どんな痛みにも病にも効く万能薬として少し前から噂になっているということ。
リランの形状は丸薬らしく、一粒でも飲めば、それまで長年苦しんできた痛みも病も立ちどころに消してしまうのだという。
だが、その噂の勢いに対し、実際にリランを所持している者は非常に少ない。
仮に、貴重なその薬を手に入れることができていたとしても、それは知り合いから譲り受けたものである場合がほとんどで、リランの売り手を直接知っている者がいないのだ。
つまり、出処が不明だということである。
よって、どんな苦しみにも万能であるという噂の真偽もさることながら、その流入経路については未だによく分かっていない。
この辺境で生まれたものではなく、かつ、大海の波止場を通して尚景や冲景から入ってきたものでもない上に、都城の方から流れてきたものでもないらしい。
しかし、そうかと思えば、ここから離れたまったく別の辺境の地でも、同じように万能薬の存在が噂になっていると聞く。
リランという薬は、調べれば調べる程に不明なことばかりで、調べた結果言えることは、「正体不明の薬」という一点に限る。
どこの誰だか知らないが、そんな謎の薬を持ち込んでくれたおかげで、スハたちにとっては非常に不本意なことにここしばらく商売あがったりな状況が続いているのである。
「ほう、リランを知っているとは驚きだ。ここに着いてからそれとなく聞いてみたが、そこらの通りにいる者たちは皆知らないようだったのに」
リランの名を出したスハに、驚いたようにテホンが言う。
「だからこそ私は、この辺りで一番薬に詳しいという君の親父さんの薬房へ向かおうとしていたのだ。そこであれば、何かしらの話が聞けると思ってな。―――しかし、そうか。君たちはリランを知っているか。さすが、評判の薬房の息子だな。であればやはり、親父さんも知っているのだろうか」
テホンは納得したように呟いたあと、だがそこで僅かに眉をひそめると、それまでの調子とは打って変わって急に真面目な顔でスハを見つめた。
「……まさか、親父さんの薬房でリランを扱ったりはしていないよな?」
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
急に調子の変わったその様子に、スハは胡乱にテホンを見返した。
が、スハがそこに滲ませた否定の意を読み取ったらしい。テホンは、「いや、違うならいいんだ」とすぐに元の調子に戻って笑った。
「しかし、気をつけた方がいい。リランという薬は、都城の方でもまだその実態をあまり掴めていないものでな。それゆえに、私のような人間が調査に駆り出されているわけで、扱いには慎重になった方がいい薬でもあるのだ」
まあ、そうだろうな。
その正体不明の薬を扱っているのか、と何やらあらぬ疑いをかけられそうになったことに、む、とスハは眉根を寄せてしまったが、付け足された言葉には素直に頷いておく。
リランがただの薬でないことは何となく察しがついている。
そもそもが、痛みにも病にも効く万能薬など、早々簡単につくれるものではないのだ。それが、噂の真偽だけでなく、薬の出処も流通経路も不明なのである。すべてが謎に包まれた薬など、いくら良家の人々が血眼になって求めているとはいえ、自分たちの商売を邪魔していること以上に何か怪しい気配を感じる。警戒しない方がおかしい。
しかし、都城からの人足の話では、あちらではリランの存在は知られていないということだった。にも関わらず、こうして医官が調査のために派遣されてくるということは、民衆には知られていなくても、把握しているところは把握しているということだろうか。
「お、こっちか?」
この道を曲がって少し行けば、スハの家の痩せた生垣が見えてくる。道を右に曲がったスハについて、テホンも軽い足取りのまま後ろをついてきた。
その調子は、相変わらず重要な任務を受けているようには見えない。
だが、かと言って、このカン・テホンという人物は、周りの空気に全く無沈着というわけでもないらしい。その証拠に、テホンは先程スハが言葉の端に込めた否定をしっかり読み取っていた。
いい意味でも悪い意味でも、自分を取り繕うことをしない、裏表のない人なんだろうと最初に思ったが、なんとも掴みきれない不思議な人である。
元々そういう人なのか、そう見えるようにあえてそう振る舞っているのか、分からなくなる。
……いや、都城から来た官吏だということで、俺がただ慎重になっているだけなのかもしれない。
自然と、スハの手が首元に動く。押さえることまではしないが、普段はほとんど意識しない重みが、小さくそこで揺れているのを感じる。
だが、相手はただの医官だ。それに、都城から来たというだけで、別に彼らと繋がりがあるわけではない。むしろ、ただの医官が国の大将軍と関わりなどあるわけがないのに。
スハが気持ちを切り替えるように頭を振ったところで、「ところで―――、」と後ろから声が上がった。振り返ると、テホンが腕を組み、何やら怪訝そうに首を傾げている。
「思ったんだが、薬房で扱っているのでないなら、君たちはなぜリランのことを知っていたんだ?」
「うん?」
「いや、親父さんがこの辺りで評判の薬房の主なのであれば、その名を知っていてもおかしくはないかと先程は思ったんだがな。だがそれにしても、「ある薬について調べにきた」と言った私の言葉に対して、すぐにリランという名が出てくるのは些か妙ではないか? 先程の君の言葉はまるで、リランが調べられるのは当然だと思っているような口振りだったぞ?」
ただリランの存在を知っているだけなのであれば、そういう風に思わないのではないか―――と、テホンは言っているのである。
鈍臭そうに見えて、鋭い。だが逆に、これくらいの洞察力がなければ、都城で医官など務まらないのかもしれない。
テホンの疑問も尤もだ。それはもちろん、スハたちがリランについていろいろ調べ、その結果、謎だらけの怪しい薬であることを知っているからに他ならない。
「それは―――」
公に調査に来た者に対して、自分たちが知り得たささやかな情報をわざわざ隠し立てする必要もない。とはいえ、それを調べようと思った理由までは明かすつもりはなく……。
何をどこまで話そうか、とスハが考えていたところで。
「スハ、帰ったのか」
痩せた生垣から、薬草採りのための籠を背負ったソンジェがひょっこりと顔を出した。
「……おい、もしかして、ドハンも来る気か?」
通りから―――もっと言うと、隣街に行って帰ってきてからずっといたドハンが、当然のように生垣を中に入ってくるのを横目で見て、ひそひそと問う。
「当たり前だろ。リランは俺たちにとっても他人事じゃねえしな。何より、俺はクソみてえなあの薬に憤慨してるんだ」
憤慨、などと固い言葉がドハンから飛び出すとは思わなかった。
思わず見返すスハに「なんだよ」とドハンがじろりとした視線を寄越す。「いや、別に」と返したところで、「ところで、スハ」と声を落としたドハンが、少し離れた先で挨拶を交わしているソンジェとテホンの方を目で示して言った。
「リランについて俺たちが知ってること、あの男にどこまで話す気だ?」
「知ってることも何も、俺たちが掴んでることなんて何も無いだろ。まあ、少し調べたが謎ばかりの薬だ、ってことだけは伝えようと思ってるが」
「おじさんは? リランのこと、知ってんのか?」
「さあ。知ってるかもしれねえけど、それを父さんに確認したりすると面倒なことになりそうだったから、今までリランについて俺から聞いたことはない。だから、もし父さんがリランを知ってて、あのテホンって人と何か話すんであれば、それが聞ければ俺たちにとっては儲けもんだな」
言うと、ドハンは少しだけ眉を上げ、こちらを見た。
「いいのか? おじさんがいるところでリランの話をするってことは、俺たちがリランについていろいろ嗅ぎまわってたことをおじさんにも知られるってことにもなると思うが」
「まあ、この際仕方ない。それに、リランについて調べてたのは、別に好奇心とかじゃないんだ。無名街の薬が売れなくなってるってのに、何もしないでいるわけにはいかないからな。その点は、父さんも分かってくれるさ―――多分」
ひそひそとそんな話をしていたところで、「スハ」とソンジェに呼ばれた。
「こちらが、なんだか困っていたところをお前に助けられたとおっしゃっているが、お前、また何かやらかしたのか?」
その言いように、スハは思わず口をへの字に曲げる。
「何言ってるんだよ、父さん。このお人は俺に助けられたと言ったんだろ? それがなんで俺が何かしたことになるんだ」
「お前がただ人助けだけをして終わるわけがない。本当は何かやらかしたんじゃないか?」
ソンジェが「例えば、人助けと言いつつ、誰かに怪我をさせるような真似をしたとか」と言うと、「ああ、それはたしかに否めないかもな。あの鼻血は実に痛そうだった」とテホンが余計なことを言い始める。
「ちょっと、やめてくださいよ。うちの親父はそういうの真に受けるんですから」
それまでの無遠慮なものではなく、ソンジェの前なので、口調を多少丁寧なものに変えてテホンに抗議する。その変化に気づいているのか、テホンはそれまでと同じように笑いながら「冗談です。スハ君のおかげで助かったのは本当ですよ」と加えた。そして。
「このように、草臥れた旅装束のままで申し訳ありません。ソンジェ殿に少々伺いたいことがあり、スハ君たちに無理を言ってここまで案内してもらいました。ソンジェ殿は、最近この国で噂になっている『リラン』という薬のことをご存じですか?」
居住まいを正して一礼したかと思うと、それまでのどこか不真面目な雰囲気が消え去り、テホンはいきなり本題を切り出した。




