第73話 翌
そうは言っても、既に今日の舟は終わっている。
それでなくても、隣街に行って帰ってきたところで、またあちらにとんぼ帰りするのはさすがに避けたい。
ということで、テホンを隣街に案内するのは翌日ということになった。
案内すると言っても、スハにできるのは、リランを所持している良家を訪ね、そこの主人に事情を説明してテホンを紹介することだけである。
どう入手したものか、実際にリランは試してみたか、もし試したのであれば噂の効能は本当なのか―――など、リランについて細かく話を聞くのは、都城の医官であるテホンの仕事だ。
しかし、スハも当然、その場には同席するつもりでいた。
これまでは、ただの薬売りという立場上、あまり深く入り込んでの話を聞くことはできなかったが、これはいい機会だ。せっかくなので、リランについてしっかり話を聞かせてもらおうと思っている。
「……それで、なんであんたがここにいるんだ」
約束の時間にはまだなっていない。
にも関わらず、翌朝庭先にふらりと現れたテホンに、スハは思わず顔をしかめた。
隣街の良家を訪問するにも、約束もないのに早い時間に行くのは、いくら都城の医官がいたところで非常識だ。よって、昼過ぎの舟で隣街に向かい、話を聞けそうな屋敷を訪ねてみるという話になっていたはずである。
が、朝の早い時間であるにも関わらず、まるで図ったようにテホンは今から出かけようとするスハの前に颯爽と現れた。
「宿屋にいてもやることがないんでな。せっかく辺境まで来たんだ。いろいろ見て回るのも悪くないだろう?」
「俺は用があるから出かけるわけで、案内して回る余裕なんてありませんよ?」
顔をしかめたままそう返すが、テホンは「いやいや、そういうのは結構」といい笑顔で首を振った。
「出かけるのであれば、少し同行させてもらおうと思っただけだ。私のことは気にするな」
そう言われても、気になるんだが……。
基本的に、裸足でさっと履ける形の草履は子どもたちの履物である。大人は仕事もあるため、靴下の形に縫った麻の下履きの上に、足の甲まで覆うように編んだ草鞋を履く、というのがこの辺りの普通だ。
子ども用の草履と違い、大人用の草履は下履きがある分、履くのに少し時間がかかる。
縁に腰かけ、スハがその草鞋を履いている間も、テホンは庭先をゆったりと歩きながら、乾燥中の薬材などを見て回っていた。
……本当についてくる気か?
草鞋を履きながら、ちらと見上げると、ゆったりと歩くテホンと目が合った。
こっちは気にするな、というようにいい笑顔のまま身振りで促してくるテホンに、スハはやはり微妙な心持ちになる。
スハがこれから向かおうとしているのは無名街だ。
昔よりかなり改善されたとはいえ、無名街は未だ、他から追い出され、住む場所を失った者たちが暮らす、「無法地帯」と呼ばれるような場所である。
医官とはいえ仮にも都城の官吏だという人間が、安々と足を向けるような場所ではない。
しかし、無名街に行くとすれば今しかないのも事実で。
以前より少なめとはいえ、昨日隣街で売り上げた分が、まだスハの手元にある。
無名街には基本的にその日のうちに向こうの取り分を渡しに行くことにしているが、昨日はこのテホンを助けたこともあり、なんだかんだでその余裕がなくなってしまった。
さらに、今日の午後もまたテホンのせいで……もとい、テホンの手伝いのために再び隣街に行く必要があるため、渡しに行くのなら今しかないのだ。
だが、無名街に余所者を連れて行って大丈夫だろうか。
決してテホンがそういう人間だと考えているわけではないが、それでも、あそこは物見遊山気分で向かうような場所ではないのだ。何より、今行っているいろんなことに、余計な茶々が入ることだけは避けたい。
「いやあ、都城で生まれ育った私には、辺境など他国にも近いような場所であったが、こうして来てみると思いのほかよい場所だな。空気もおいしく、朝から実によい気分だ」
いろいろと思考を巡らせているスハのことはそっちのけで、テホンは大きく深呼吸しながら呑気にそんなことを言っている。
昨日と違って多少すっきりしたように見えるのは、街の方で借りた宿屋でゆっくり休めたからだろう。
どうせ目的地は同じなのだし、翌日改めて待ち合わせなどしなくても、と言い張り、そのままスハの家に居座りそうだったテホンを半ば無理やり押し込めた宿屋は、この街でも比較的上等な場所だ。
縁でもいいからと言うテホンに、「さすがに良家の方にそんなことはさせられませんし、我が家にはゆっくり休んでもらえる部屋もありませんから」と、これにはソンジェも一緒になって説き伏せ連れて行ったが、どうやら満足いただけたようである。
草鞋を履き終えたスハは、一つ息をついて縁から立ち上がった。
……まあ、考えても仕方がないか。何を言ったところで、この人の気が変わるとも思えないしな。
まだ知り合って二日目だが、このカン・テホンという人には「抵抗するだけ無駄」というような空気を感じる。
それに、無名街の人々を多少驚かせることにはなってしまうかもしれないが、考えようによっては、これは彼らにとってもいい経験になるかもしれない。
外へ出ていき、自分たち以外の人間とやり取りをするということも、これからはどんどん必要になってくる。
その最初の人間がこの人でいいのか、ってのはあるが……。
今も薬材を眺めているテホンを横目で見やったところで、家の裏から道具を持ったソンジェが出てきた。
今日は一日、採ってきた薬材の処理のために家で作業する予定のようだ。そのための道具を持って裏から出てきたところで庭にいるテホンの姿を認め、ソンジェは一瞬ぎょっとしたように足を止めた。
「ああ、ソンジェさん。いい朝だな。精が出る」
「……、おはようございます」
それでも、しっかり挨拶を返すのがソンジェらしい。
ここで何を、と思っているのが僅かに寄った眉から伝わってくるが、「これは当帰だな。さすがにいいものを使っている」などと、並んだ薬材について笑顔で言い始めるテホンに対し、律儀に対応している。
「お、なんだ? 行くのか?」
とはいえ、いないのであれば、その方が楽なのは間違いない。
ソンジェと話している間にそっと後ろを通り過ぎてしまおうと思ったのだが、それは通用しなかったようだ。目ざとく気づいたテホンの声を後ろに聞きながら、スハはため息いっぱいに生け垣を越える。
「よお、スハ」
「……なんだ、ドハンか」
出かける前から既に疲れてしまっているスハを若干怪訝そうに見つつ、ちょうどやって来たドハンは手を上げた。
「これから無名街か? それなら俺も―――て、なんでこのおっさんがいるんだ」
「やあ、少年。君はドハン君だったかな? もしかして、君も一緒に出かけるところか?」
後ろから気さくに笑いかけてくるテホンに、ドハンはその言葉を軽く無視してこちらを見た。
「おい、まさか、このおっさんも一緒に行くつもりなのか? なんで」
「俺が知るかよ。それより、父さんの前でその口調は気を付けたほうがいいぜ。お前のところにも容赦なく鉄拳が飛んでくるぞ」
それが聞こえていたのか不明だが、折よくソンジェが作業に入ろうとしていた手を止めてこちらを見る。
その鉄拳の威力はドハンもよく知っている。ひくっ、と喉を鳴らすと、ドハンは慌てたようにソンジェから目を逸らした。
「それよか、行くなら早く行こうぜ。じゃないと、午後の舟に間に合わなくなるぞ」
「なんだよ、まさかお前も隣街まで来るつもりか?」
「ああ、当然だろ。前にも言ったが、リランのことは他人事じゃねえんだ。さっさと正体を明かしてやりてえ」
「おおっ、それはいい考えだ」
そこでなぜか喜ばしげに声を上げたのは、横から入ってきたテホンだ。
「仲間は多い方がいろいろと早く済むというものだ。ドハン君も協力してくれるというなら、心強いことはない。君たちは実によき友だな」
ははは、と何やら明るく笑いながらスハとドハンの肩をばしばしと叩いてくるテホンは、変わらないその調子のまま続ける。
「それで、これからどこに行くんだ?」
こちらを見比べるように興味津々げに尋ねてくる様子に、スハとドハンが思わずため息をついてしまったのは言うまでもない。
テホン、ここまで自由人のつもりはなかったのですが、なんだかどんどん暴走していきます(;´∀`)
自分の心に忠実なお人ということで、ご理解いただければ幸いです。




