第2話 伏龍の飛翔
遡ること約一ヶ月。
慶応4年(1868年)3月半ば、宇都宮城に驚愕の報せが届けられた。
藩主・戸田忠友、大津にて謹慎――。
朝廷に対して徳川慶喜に対する寛大な処分を嘆願するため、藩の精鋭70人ほどを率いて京都へ向かう途中、大津で朝廷から謹慎を命じられたのである。
使者の激しい息遣いのみがその場に響く。
朝廷に付くか、徳川に付くか――。
宇都宮藩内では、3月に入ってから議論が沸騰していた。
この頃の宇都宮藩の政務は、多数を占める佐幕派が握っていた。ここに至るまでの尊王派による数々の“やらかし”。尊王派の指導者の多くが排斥されていた。
「東山道を進む官軍はすでに信州まで来ているという。我が藩も速やかに出向き、尊王の意を伝えるべきである」
尊王派の家老が意見を述べると佐幕派の家老が声を張った。
「鎌倉、承久の戦の際の京の軍を思い起こせ! からっきし弱かったではないか。関八州の兵に敵うものではない。奴らに箱根、碓氷の天険を越えることなどできない!」
別の佐幕派の家老が物腰柔らかく続けた。
「我が藩は会津とは古い付き合い。いざとなれば会津が助けに来てくれる。会津の兵は屈強。官軍など恐れるに足らぬ」
尊王派と佐幕派、延々と繰り返される出口の見えない議論。
そのような折に、矢継ぎ早にもたらされる旧幕府軍敗走の報せ。本気で戦えば負けるわけはないと考えていた佐幕派は動揺した。
慌てた宇都宮藩首脳部は、ひとまず、武州板橋に入った東山道先鋒総督府に使者を立て、その結果を受けて方針を定めることを決し、家老を使者として派遣した。
しかし、そうは問屋が卸さない。
3月13日に板橋に入った使者は、総督府から煮え切らない態度を厳しく叱責された。さらに武器・食料の献納と藩の武器・食料の数の報告を命じられる。こうして使者は、ほうほうの体で宇都宮に戻ることになったのであった。
このような状況で届けられた藩主謹慎の報せであった。
「このままでは、今回の朝廷の仕打ちに対して、佐幕派が強硬な態度に出ることも想定される。やはり、ここは会津と組んで官軍に立ち向かうべきである」
「今や官軍は薩長のみならず諸藩が加わる大軍。最新鋭の装備を多数有しているとのこと。未だ旧式の装備がほとんどの我が藩では、ひとたまりもない」
「江戸からは脱走した徳川の主戦派が続々こちらに向かっているとのことではないか。官軍につくと、それらや会津を敵に回さなければならなくなる」
果たして、再び終わりのない議論が続けられていた。
そして3月23日――。
職を解かれていた元家老・戸田三左衛門とともに、勇記が重臣たちの不毛な議論の場に現れた。重臣たちの表情が変わった。
「謹慎が解けたとはいえ、貴殿らがこの場に足を踏み入れてよいものではない!」
一人が口火を切ると、続けざまに怒号のような言葉が飛んだ。
「貴殿らの政で何度我が藩が危機に陥ったか! それを理解しておろう!」
万策尽きた会議では、関係のない昔話をすることがよくある。明らかに保身の素振りを見せる重臣たちに、勇記は鋭い眼光を向けた。
「この期に及んで、何を申されますか!」
勇記は一喝した。一流の剣客でもある勇記の迫力に気圧された重臣たちは、言葉を失った。眼光の鋭さを保ったまま勇記が続けた。
「どちらが勝つか負けるかの話ではございません。ここで判断を間違えれば、殿の御身も含め、宇都宮藩の命運は失われます。それで皆々様の忠義は果たせますか? それを不忠と言わず何と言うのでありましょうか?」
「謹慎明けの分際で偉そうな……」
重臣の一人が苦し紛れに声を絞り出すと、勇記の隣に控えていた三左衛門がこれに反応した。
「県殿の申すことはごもっとも。今は、これまでの恩讐や嫉妬を捨て、殿の御身の安全と藩の行く末を最優先に、様々な意見を聞き入れながら議論を行うことが肝要と存じます」
切羽詰まって右往左往している状況では、簡単で当たり前の言葉が時としてその場を落ち着かせることがある。三左衛門の言葉がそうであった。家老の一人が勇記に視線を移し、首を縦に振った。
勇記は背筋を正して口を開いた。
「我が藩は、かねてより尊王の大義を唱え、先年の山陵修補により尊王の志厚い藩として天下にその名が知れ渡っております。そして今、慶喜公はご謹慎のうえ、朝廷に対して恭順の意を示されております。我が藩もそのご意思を汲み、関東の諸藩に先駆けて朝廷への恭順を示すことが何よりも先決でございます。その場しのぎの小手先の対応や日和見に終始して、いたずらに時間を浪費している暇はございません」
下を向く重臣たち。勇記が続けた。
「某は、若かりし頃の脱藩をはじめ様々な奇行を繰り返し、今も罪を負って隠居の身。されど、戸田家家臣として、主家の危機に際して座してこれを眺めていることはできませぬ。某に官軍との交渉をお任せいただけるなら、ただちに総督府に出向き、我が藩の意を伝えてまいります。微力を尽くして、殿から受けた御恩の万分の一にでも報いたいと存じます」
言い終えた勇記は深々と頭を下げた。しばらくして頭を上げ、ゆっくりと重臣たちを見渡すと更に続けた。
「仮に官軍がこの意を受け容れぬ場合には、その時こそ会津と組めばよろしいでしょう。某はその場で腹を斬ります。罪深き某一人の命でいずれにつくかの大義が立つのであれば、藩にとって痛くもかゆくもないでしょう」
冷静さの中にも相手を威圧する雰囲気を醸し出しながら語る勇記。意見を言える者は一人もいなかった。重臣たちが耳打ちを始めた。
「あの者は薩長とも面識がある。ここは一つ、申し出通りに進めようではないか」
重臣の一人が勇記に告げた。
「急ぎ総督府の元に向かい、今申した存念を述べて参られよ」
まさに『意思決定のごみ箱』である。「宇都宮藩の選択」という命題の「ゴミ箱」に、「解」を導き出せない重臣たちの不毛な議論が投げ込まれる中、勇記により投げ込まれた意見が「解」を導いたのである。
勇記と三左衛門は、深々と頭を下げてその場を去った。
「今の宇都宮に勇記殿はなくてはならぬお方。徒に命を粗末にすることがあってはなりませぬぞ」
三左衛門は諭すように勇記に語り掛けた。勇記は打って変わって穏やかな表情で返した。
「それは三左衛門殿とて同じこと……」
時を置かず、総州・結城藩で佐幕派と尊王派との間で戦が勃発し、佐幕派が城を奪い取ったとの一報が伝わる。三左衛門を訪ねた勇記は力強く告げた。
「急ぎ出立いたす。三左衛門殿は、某からの文が届くまで佐幕派の動きに目を光らせていただきたい。結城の話を聞いた佐幕派が暴発するおそれがある。それだけは防がなければならぬ」
3月27日夜半、三左衛門に後を託した勇記は、数名の藩の重臣と鉄之助とともに板橋の総督府に向け宇都宮を発った。




