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第3話 板橋での邂逅

「また宇都宮藩からの使者だと?」

 報告を受けた伊知地は顔をしかめた。ほんの半月前、煮え切らない宇都宮藩の使者を追い返したところだった。しかも、家老ではなく肩書を持たない一藩士。再び追い返えそうと言葉を発しようとした刹那、応対した兵士が伊知地に告げた。

「あの者、見覚えがあります。確か、京の正親町三条家にいた者であったかと……」

 その言葉に伊地知の記憶がよみがえる。

「正親町三条家に関東出の切れ者が仕えているという、あれか! 通せ!」

 伊地知が告げると、兵士は外で待つ勇記たちの元に向かった。


 3月30日、前日板橋に入った勇記らは、総督府を置く本陣の中に通された。

「面を上げられよ」

 言葉に促され、平伏する勇記は顔をあげた。

 勇記の目に映る小柄な男――薩摩藩士、参謀・伊地知正治。勇記は見た目以上の凄みを感じた。小柄な体躯に反して、伊地知の眼差しは鋭く、隙がなかった。

 伊地知は幼少期に大病を患い、左目と右足が不自由になった。それにもかかわらず、剣術と兵法を極めた。当代随一の軍略家であり、西郷隆盛の右腕として活躍。薩摩軍の作戦のほとんどは伊地知が立案していた。片眼、片脚が不自由な軍師――まさに戦国時代の山本勘助を彷彿とさせた。

(できる……)

 互いに感じる勇記と伊地知。

「つい先日も貴藩の使者が訪ねて参った。何とも要領を得ないゆえ、早々にお引き取り願ったが、時を置かずに再び訪ねてくるとは、いかなる用向きか?」

 伊地知の口調はとても穏やかだった。しかし、この穏やかさが逆に背筋を寒くする余韻を有していた。

「会津征討の策を言上しに参上いたしました」

 勇記は、気圧されることなく言葉を口にした。勇記の背後に控える宇都宮藩の重臣たちは言葉を失った。伊地知に同席する者たちも同様である。宇都宮藩への援助を求めに来たものと思っていたところに、逆に策を授けようというのである。

「面白い……。その策とやらをお聞かせいただこう」

 口元に笑みを浮かべながら、伊地知は勇記に促した。勇記の口元にも笑みが浮かぶ。勇記は背筋を伸ばすと端的に答えた。

「宇都宮を確保することでございます」

 その場が静まり返った。

 伊地知の口元がさらに緩む一方で、その眼光は鋭さを増した。隣に控える補佐役の長州藩士が呆れたように口を開く。

「そのようなこと、ここにいる誰もが知っておるわ!」

 間髪入れずに伊地知の鋭い視線が長州藩士を刺した。長州藩士は次の言葉を呑み込んだ。

「宇都宮の者は学ぶということを知らぬのか?」

 伊地知の低く落ち着いた声が響く。

 しばらくの沈黙――これを勇記が破った。

「混沌極まる情勢であるからこそ、思考はより簡潔にすべきと存じます」

 伊地知の表情が緩む。

「くだらない話であれば即刻つまみ出すぞ」

 伊地知の言葉に棘はなかった。勇記はゆっくりと話し出した。

「去る15日、天子様の深いご慈悲により江戸城への総攻撃が取りやめとなりました。これによって江戸市中、多くの民の命が救われました。しかし、この天子様の御心を反故にし、いたずらに戦禍を広げ、万民を塗炭の苦しみに陥れようとする不届き者がいるのも事実であります。そして、かような者共が、宇都宮を虎視眈々と狙っております。宇都宮は10万石にも満たない小藩。されど、宇都宮は北の備えとなるべき要地であり、諸街道が集まる要衝。野州の中心でもある我が藩の動向は、周辺諸藩の動向をも左右します」

 伊地知に真っ直ぐな視線を向ける勇記。伊地知がわずかに頷く。勇記が続けた。

「野州をはじめとする坂東の北には佐幕派が多い。現に多くの藩で尊王派と佐幕派との争いが勃発しております。我が藩も例外ではございません。今は落ち着いておりますが、いつ佐幕派が暴発するやもしれません。。そうなると周辺諸藩は徳川になびき、坂東は一気に佐幕に塗り替えられることとなりましょう」

 事実、宇都宮藩の周辺諸藩では、佐幕派と尊王派の対立が激化していた。

「加えて、我が藩には会津の脅威が迫っております。我が領内では一揆や打ちこわしが多発し、藩士たちは日夜、東奔西走。会津が軍勢を南に進めた場合、疲弊した藩士たちでは到底会津に太刀打ちできないでしょう。仮に宇都宮が会津に奪われることになれば、関東に大きな戦乱がもたらされることになります。それは、天子様の御心を蔑ろにする、不忠極まりない事態と言えましょう」

 言い終えた勇記は、改めて背筋を正すと、平伏して語気を強めた。

「何卒、宇都宮への援軍の派遣をお願い申し上げます!」

 勇記に続いて宇都宮藩の重臣たちも頭を下げた。伊地知は目を閉じて腕組みをしたまま動かない。その場を静寂が包んだ。しばらくして目を開いた伊地知が、ゆっくりと口を開いた。

「まさに正論。異論ござらん。我らの目的は逆賊を討ち、天子様のために東国を平穏ならしめること。速やかに総督に上奏いたす。総督も、文久の年に山陵修補に尽力した宇都宮の尊王の志についてご存じのはず。必ずや貴殿の望みに答えてくれましょう」

 安堵の気持ちを押さえながら頭を上げる勇記。そんな彼に伊地知が言葉を続けた。

「危急の際は、躊躇なく城を捨てなされ。『退くこと』は恥ではござらぬ。それもまた戦術。まだ先は長い。ここで命を散らしてはなりませぬぞ」

 勇記は改めて一礼し、その場を後にした。その後ろ姿を眺めながら、伊地知は近くに控える部下を呼んだ。

「もう少し、あの者のことを知りたい。あの者の供廻りを呼べ」

 しばらくすると鉄之助が伊地知の面前に現れた。平伏する鉄之助に向かって、伊地知が尋ねた。

「あの男はどのような者か」

 鉄之助は勇記について語った。若い頃に脱藩したこと、北辰一刀流・千葉周作の門下であったこと、諸国をめぐって尊王論や禅、兵法を学んだこと。勇記が伊豆で開いた私塾に入塾して以降、勇記に付き従っていること。そして、三度謹慎したこと……。

「呼び出してすまなかった」

 伊地知は穏やかに言うと、鉄之助は深々と頭をさげて去っていった。


「やけにうれしそうだな、正治どん」

 一人になった伊地知に掛けられる野太い声。伊地知が声の方に振り向くと、そこには小柄な若者とともに大柄の男が立っていた。

「吉之助さんか! いつこちらに?」

 西郷隆盛である。これより約半月前、勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現した西郷は、その旨の報告と承認を得るため京都に行っていたのであった。

「昨日じゃ。江戸城に行く前に、総督へのご挨拶とこちらの様子を見ておこうと思って足を延ばしてみたんだが……」

 伊地知の前に無造作に腰を下ろすと、西郷が続けた。

「正治どんと話していた御仁は、京で正親町三条公のお側用人をしていた御仁か?」

「ご存じでしたか!」

 伊地知は驚いたように言うと、西郷はゆっくりと答えた。

「会ったことはないが、三条公の屋敷に出入りしていた連中から話は聞いていた」

 伊地知は、西郷に鉄之助から聞いたことを伝えた。

「三度も謹慎処分を受けながら藩のかじ取りを任されている。まるで吉之助さんのようだ」

「それは違う。おいは『島流しが二度』じゃ」

 嬉々として話す二人の隣で仏頂面を示す若者。たまらず語気を強めた。

「強い者に尻尾を振るだけの野良犬風情ではありませんか!」

「人を上辺で判断してはなりませんぞ、香川どん」

 穏やかな口調でなだめると、西郷は続けた。

「東国の小藩と侮るなかれ。よくよく目を凝らせば、傑物がいるもの。早く戦を終わらせて、そのような者たちの力を合わせて新たな国を築きたいのう。そのためにも、彼らを死なせるようなことがあってはなるまい」

 伊地知は真剣な眼差しで相槌を打つと、西郷は、ゆっくりと部屋を後にしていった。

 翌4月1日、勇記は、伊地知に語った内容を書面にまとめて提出し、伊地知はこれを東山道軍総督の岩倉に提出した。

 そして、2日、総督府は宇都宮への救援軍派遣を決定。同日、水戸藩士・香川敬三を指揮官とする総勢約250人の部隊が宇都宮に向けて板橋を進発した。

 これを見届けた勇記は、3日、江戸に詰めていた前藩主・戸田忠恕(ただゆき)とともに宇都宮への帰路についた。


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