26.疑問
過去は変えられない。なかったことにはならない。
振り切ったつもりでも、捨てることができたわけじゃない。
私が私でいる限り、記憶ごとなくならない限り、心の奥底に残ったまま。
「──ヴ。…イヴ?」
気遣わし気な母の声で、エヴリーヌは我に返った。
何度か呼ばれていたらしい。
演奏会が終わり、帰宅する馬車の中のこと。母の前とはいえ気を抜きすぎた。
「申し訳ありません、お母様。何か?」
「大丈夫なの? 楽屋に来たときから様子がおかしいけれど…」
やはり気付かれていたかと苦笑する。
隣の席だったという男性の申し出は謝辞を述べ断り、身嗜みを整えてから楽屋に行ったのだが。
ジャネットがキャロラインを絶賛していた。賛美の嵐だった。いや何があろうとなかろうと、いつものことではある。見慣れた光景が広がっていたというべきか。
そんな叔母の様子を、ヴィクターがどこか遠い目で見ているのも、やはりいつもの光景だった。
キャロラインは楽屋に来た私を視界に捉え、一瞬だけ柳眉を潜めた。母の僅かな表情の変化に気付くとしたら、血縁者くらいだろう。そのときは、何も言われなかった。
他に人の目があったせいも、きっとある。
室内には他に何名かのスタッフと、ホールのオーナーである、シェンデル侯爵と令息がいたから。…本当に母の交友関係はどうなっているのか。この国に来てまだ日が浅いというのに。
シェンデル侯爵令息は、私にハンカチを差し出してくれた男性だった。
キャロラインを介して侯爵から紹介され、ロイドと名乗ったその人は、客席でのことは何も触れず、ただ初めましてと穏やかに微笑んだ。
私とあまり年齢は変わらないように見えるのに、落ち着いた物腰で。
「──まさかとは思うけれど…シェンデル侯爵令息と何かあったわけでは」
きらりと母の目が光る。さすがというべきか、私も彼もまったく態度に出していなかったのに。
しかし、誤解は解いておかねばなるまい。含みも裏もない親切心を、仇で返すわけにはいかないので。
「令息は関係ありませんわ。大丈夫です」
「そう? …そうよね。そんな人間には見えなかったものね」
「はい。ご心配をおかけしまして」
「それはいいの。イヴに何もないなら、それでいいのよ」
「…ありがとうございます」
何も聞かないでくれて。いつも気にかけてくれて。
すべて語れないことを心苦しく思うこともあるけれど、それはこれからもエヴリーヌが背負っていかなければならない業だ。
そして数日後。
いくつかの手紙がエヴリーヌの元に届いた。
ミランダとリゼラからは、正式な香水の作成依頼。他の令嬢からは控えめなお願いとして。
リゼラからは具体的な報酬の提示と、ミランダからは。
「あの子、金銭感覚大丈夫かしら…」
何年分の依頼になるのよ。
届いた小包の中身を見て何とも形容しがたい顔をしていると、メアリがお茶のワゴンと共に戻ってきた。
「あら、お嬢様。そちらは先日届いたものですよね。差出人は、オールドリッジ公爵令嬢からでしたか」
「メアリ。どうしたものかしら、これ」
ビロード地の小箱を開け、メアリに見せてみる。
「…わたしは、お嬢様のような鑑定眼は持っていませんが…」
「ええ」
「大変上質な、サファイアに見えますね。それも大ぶりの」
「正解よ」
内包物がなく、透明度も高い、色も淡すぎず濃すぎずの、かなり高品質のサファイア。カットも美しい。
…時価いくらになると思ってるの。
ミランダのことだから、家のものに手を付けたという可能性はないだろう。自分の手持ちからか、報酬代わりに購入したか。
オールドリッジ家もサファイア鉱山を所持してるから、市場よりは入手しやすいのかもしれないけれど、限度がある。
「私が作った香水に正式な依頼を、まではいいのだけれど」
「でもお嬢様、送り返したりすると、おそらく悲しまれますよ」
「そうなのよねえ…」
落ち込ませたり、悲しませたりするのは本意ではないし。
まあいいわ。深く考える必要はない。
だが、香水を送るついでに、今後はこういったものを送らないように言い含めておかないと。
ミランダには、しっかり彼女を見てくれる、誠実な人がお相手として見つかれば、公爵家としても懸念事項は減るだろうななどと思いつつ。
「むしろ問題というか」
疑問と悩みがあるのはこちらの方。エヴリーヌ宛のうちのひとつ。
「そちらは…見慣れない封蝋ですね。どなたからです?」
「シェンデル侯爵令息からよ」
「というと、先日、奥様の演奏会のあったホールの」
「そう」
何故か、観劇のお誘いが来たのだ。彼の令息から。
時節の挨拶から始まり、2週間後に公演を、もし予定が合えばご一緒にという。
押しつけがましくなく、シンプルで好感の持てる文章でそう綴ってあった。
「1度会っただけなのに、何故かしら」
「お嬢様に一目惚れしたとかでは?」
「そういう熱や欲は感じられなかったわね」
「奥様に伺ってみます?」
「……それは最終手段にしておくわ」
まずは相手の出方を窺ってみましょうか。
誰も彼もが裏があるわけでも、人を利用とする悪意があるわけでもないのだから。
可能性として排除するわけでも、ないけれど。




