16.旅出
「海だわ…!」
途中休憩を挟みながら馬車で揺られること2時間。目の前に広がる景色にエヴリーヌは声を上げた。
国内最大の港バーデは、他国との流通の要である。
公務で王都付近や領地を視察することはあっても、海岸付近まで来ることはなかった。当時、予定として組み込むには時間の余裕がなさすぎたのだ。
前世も含めて初めての海に、気分が高揚している。つい辺りを落ち着きのない子供のように見回してしまい、キャロラインから笑われてしまう。
物心ついた頃から、感情の制御を学び、表に出すことを自ら戒めてきた。表情に出すことも、言葉にすることも。感情だけでなく、指先まで美しく見えるよう、所作のひとつひとつにも気を配ってきた。無意識にいつも。
誰に見咎められることもなく、心のままに振舞うことができるというのが、これほど解放感あるものだとは知らなかった。
どこまでも続いていそうな空と海の広大さだけでなく、大小様々な船、人で賑わい、活気ある様子もエヴリーヌにとっては新鮮に映る。
「イヴ、護衛から離れないように」
「はい、お父様」
残った使用人が最低限だったとはいえ、その数は20名に及ぶ。故に、人の出入りが激しい港町で宿をとるのは困難ということで、出航前日は近隣の町で休んだ。
多数の人と物資が忙しなく行き交う中で、貴族然とした家族を取り巻くような固まりがあれば、やはり目立つ。
人の善悪は可視化できるものではないから、警戒するに越したことはない。
「私たちの乗る船は…あれかしら?」
ヒース語で『パルテンツァ号』とある、大型の旅客船。
重量5万t、全長約260m、乗員は800名ほど、乗客は定数1500人以上にも上るという。船内設備も整っている、人気のある船だとか。
今回は、帝国領の大陸に渡るのにおおよそ8日を要するため、航行経験、安全な航行ルートなどを考慮して選ばれた。大型船はその船体で波を吸収し、滑らかな帆走で安定した航行が可能とのことだ。
そんな人気の船だが、本来なら数か月前の予約が必要である。
仕事で利用するには高額なこと、観光の時期でも、学院の長期休暇中でもなかったこと。そして表向きの資産はともかく、人脈がなくなったわけではない公爵家の伝手を利用したので、数日前という相当無理な要求でも通ったという経緯があった。
蛇足であるが、出国許可等は爵位返上と同時に申請し、通っているので問題ない。私たちは亡命するわけではないのだから。
執事のモリスに手続きを任せ、これから乗船する列にエヴリーヌたちは並んだ。間もなく、出港である。
準備された客室に案内されると、預けておいた荷物が運ばれていた。
一等客室は船室としては広いので、エヴリーヌたち家族で一室、護衛や侍従、侍女たちは性別で分け、二等客室にそれぞれ五室ほど確保している。船上は陸地と勝手が違うし、行動範囲が限られるためである。
荷物を簡単に片付けると、エヴリーヌはデッキに出た。
──この国からの、最後の景色を見るために。
心地いい潮風に長い髪がさらわれる。視線の先は果てのない、空の青と海の碧。
しばらくは晴天に恵まれるとの気象情報に、無事に出国できそうでよかったと思う。
とうとうこの国を離れるのかと、何とも言えない感情がこみ上げてくる。
「………」
感傷だろうか。らしくもない。
この国に生まれ、この国で育ち、この国に尽くそうと努力してきた日々。貴族の義務として、何の疑問も持たず。
自分が、真に何を望んでいるかなど考えたこともなく。
やはり、らしくない。そう思い、笑みが浮かぶ。
これからは、何にも縛られることない。自分にできること、したいこと、ゆっくり探せばいい。
そんな傷心めいた気分を、場違いともいえる明るい声が断ち切った。
「そこの、銀髪の綺麗なお嬢さん、俺とお茶でもどう?」
この場に銀髪は私しかいないのもあるが、聞き覚えのありすぎる軽薄な声だ。
「…そんな誘い文句で付いてくる女の子がいるの?」
エヴリーヌの隣に来た男を横目で見る。
「ヴィクター」
呼ぶと、従兄は肩透かしを食らったような顔をした。
「驚かないんだな」
「何が? あなたがここにいること?」
「それもまあ」
「この船、誰が手配したと思ってるの?」
「…そういやそうだった」
公爵家の伝手を使って手配したのは、インフリックだ。当然、乗務員、乗客、すべてに調査が入っている。直前の情報まで。
万が一にも、王家の手の者がいたら厄介だからだ。ブラントに入国するまで気を抜けない。
「聞いてなかったけど、行先は同じかしら」
「ああ。ほら、母上は、アレだから」
「………相変わらずなのね」
多少の呆れがあるものの、人はそう変わるものではないかとも思う。
今後の身の振り方は、分家の各当主にある程度一任していた。内密に、本家の意向を伝えた上で。
この国に、一族はもう残っていないはずだ。他国に渡った者、縁を繋いだ者、行先も様々であるが。
「それで叔母様は?」
「あー…多分、夫人のところだと思う。なかなかこういう機会もないからさ」
ヴィクターの母であるジャネットは、キャロラインの熱狂的信者である。現在進行形。
エドガーの弟である、マイルズとの結婚の決め手がそれだったと聞いたときは、どんな顔をすればいいのかエヴリーヌには分からなかった。
当たり障りのない話をしていると、不意に重低音が辺りに響いた。
それが出港の汽笛だと、エヴリーヌは気付き。
大きな船体が、悠々と、だが力強く動き出す。
まずは帝国領の港町、キルシュに向けて、パルテンツァ号は出航した。
作者は生粋の庶民なので、船やら馬車やらの移動速度だの距離だのがさっぱりでした\(^o^)/
ついでに、船の仕様も迷いましたが、そのままでいいかと。
蛇足ですが、出港と出航につきましては、故意のものなので、誤字ではありません。
数値単位も迷いましたが、アルファベットで誤魔化すことに。




