喪ったもの
夢のように美しい景色の……ぞっとするほど淀んだ匂いのする離宮。
膝をつき、眼を開けたまま脱力しているフレイアの肩を抱いたまま、ルフェウスはその身体から徐々に体温が失われていくのを、無力感を持て余したまま、ただ見つめていた。
何度も見つめた、穏やかな海のような虹彩は無機質に澄んでいて。開ききった瞳孔は空に空いた穴のようにうつくしいけれど……彼女の命が失われたことを何よりもわかりやすく突き付けてくる。
間もなく頬の赤みも失われ、柔らかな身体からも体温とぬくもりが失われる。
息ができなくなっていたことを。肩で息をしてから気づく。
一呼吸ごとに現実を受け止める。
投げ出された耳飾り。豪奢な寝台の上で侍女たちから声を掛けられている母。
そしてまるで美しい人形のように四肢を弛緩させて、フレイアは……死んでいる。
涙は出ない。
飽きるほどに喪失を繰り返してきた。
王を殺したことも、王妃を殺したことも、弟を殺したことも……母を、配下を、婚約者を、友人を……殺したことも、ある。
今更、涙なんて出ない。
涙なんて枯れて久しい。
けれど『いままで』と違って、知らず、呼吸は浅くなる。
目を見開いて、今までにないほどに強い、胸の痛みを感じる。
できるならこのまま死にたいと思った。
それほどまでにフレイアから目を離したくない、と思った。
フレイアは、死ぬ瞬間、痛みも絶望も恐怖も感じなかったのだろう。
その眼は優しく凪いでいて、唇には特別な相手に向けるような微笑みが浮かんでいる。
それは記憶の中に確かにある、好意を向けた時に微笑みを返してくれた時のフレイアの微笑みそのままだ。
ああ、フレイアは死してなおうつくしい。
未練はあっただろう、苦しみもあっただろう。
けれどそのすべてを飲み込んで、皆を護って……ルフェウスを護って、逝ってしまった。
ああ。そうか……
これまでの自分は何かを護ろうとして親しい人を幾度もあやめてきた。
けれどフレイアは……何もかもからルフェウスを護ろうとして死んだ。
いま……正しく、自分は絶望している。
メアンに声を掛けられても、外で控えていたヴァシルに肩を揺すられても……ギルド長官として城に居たスカーレットがフレイアを見てその隻眼から涙を零しても……なにひとつ、言葉も発せず、行動もできなかった。
感情は荒れ狂って底に沈んだまま、動かない。
どうして……どうして、こうなったんだ。
フレイアは……確かに自分との将来を考えてくれていたはずなのに。
いつからフレイアはこの方法でメナーディアを殺すと決心したのだろう。
思い返せば、小さな違和感は……あった。
けれど不安なのだろう、と。恐怖を感じているのだろう、と。まさかこんなにも大きな意思を隠しているなんて思いもしなかった。
言霊の力を持つフレイアは……賢かった。
思い返せば一度も、生きたいとは言ってくれなかったし。
婚約者になるとは言ったけれど、結婚するとは言ってくれなかった。
『私はメナーディアを滅ぼすまで死にませんから』
あの……幸せを確かめ合った、夕暮れの帰り道で、もうフレイアは決意を固めた後だったのだ。
けれど同時にフレイアはこうも言った。
『私も何があろうと忘れません。こんなにも幸せだった日を忘れたりなんてしません』
フレイアは言霊の力以上に約束を守る人だ。
ルフェウスは深く息を吸った。
こちらに凭れるフレイアの艶やかな髪をそっと梳く。
愛おしい香りに、体の奥に沈みこんだままの感情が頭をもたげる。
そう。フレイアは忘れないと言った。
何があろうと忘れないと言ってくれた。
ならば時を戻してもきっと、忘れないだろう。
今度は……逃がさない。
今度は……何者にも邪魔させない。
その為になら、何を失ってもいい。
もう二度と、時を戻せなくても構うものか。
もう一度、邪魔の入らない状態で、フレイアに会って……
言葉を交わして……彼女と共に生きられるなら……
『ギフト』を代償に、今度は『正史』を守る必要のない、メナーディアの居ない世界で。
自分はフレイアも国も護ってみせる。
瞬くと、体に満ちている魔力が溢れて白銀の砂時計が現われる。
『待って! 私の魔力も使って、時を戻すなら三十年前に!』
気づけば膨大な魔力が満ちているけれど。
そんなことすら、どうでもよかった。
けれど意識を向けたのは半分透けている姿でこちらに声なき声で叫ぶ女性が……フレイアによく似ていたせいだ。
フレイアの死をきっかけに封印が解け、首飾りから現れたのだろう。
彼女が『旅人』であり、九年前に死んだフレイアの母、ルミル。
非道な方法を『保険』としてでもフレイアを護ろうとした存在。
ならば耳を貸してもいいと思った。
そう思った途端、膨大な魔力が流れ込んでくる。
「フレイア……」
メナーディアの時だけは、巻き戻さず。
世界だけを巻き戻す。
数えきれないほど見てきた光の渦。
命を代償に砂時計が輝いて……自分の願いが届いたのだろう。
粉々に割れて光となって飛び散り……
「今度こそ……」
ルフェウスは最期の吐息を歪んだ口元から零して幾度目かの死を遂げた。
朝。目を覚ます。
まるで泳いだ後、気を失って目を覚ました後のような気分のまま身を起こすと重い夢の名残のように頭が揺れた。
幼いころからずっと、幾度も見ている夢があるのだが……その夢の内容を、いつも自分は思い出せない。
瞼を開く寸前まで。煮えたぎるような想いがあるのに……目を開けて朝の光を感じるとなにひとつ憶えていないのだ。
ルフェウスは豪華なベッドから降りた。
本当は、侍女が来るまでベッドから降りるものではないけれど。喉が渇いていた。
裸足で毛足の長い絨毯を踏み、テーブルの上の水差しをとってグラスに水を注いで飲む。
姿見の中には朝の柔らかな光の中で佇む自分が居て。
一瞬、自分の眼がひどく落ちくぼんでいるように見えて思わず歩み寄って、まじまじと自分の眼を見る。
大陸一と名高い、母譲りの造作に白銀の髪、星空を思わせる眼の色だけが父に似ている。
姫ならばどんなにか、と家臣に嘆かれ、少々気に病んだこともあったけれど。元々王位に興味はなく、それは母も同じだった。
故に、後々の為に既に継承権は放棄しているので気楽なものだ。
母は異例の側妃だが不思議なほど正妃との仲が良く。
その美貌を笠に着ることなく、派手なことも誰かとの争いも好まなかったので公の場に出ることもなかったし。正妃ロセルフィナは実子であるユリシスと区別することなく、自分に接してくれた。
自分には同い年で侯爵家の婚約者が居て、学園を卒業したら領地を与えられ、公爵として生きることになる。
何の不満も不足もない人生であるはずなのに……ずっと心は乾いて、餓えて、何かが足りないという違和感が付きまとって、消えない。
外の空気を吸おうとテラスに向かって歩いていると机にぶつかった。
テーブルの上に広げていた便箋と羽ペンが絨毯の上を転がるのを、なんとなく見下ろす。
それは婚約者への手紙で。
何の不足もない相手だというのに、典型的な時候の挨拶にすら詰まってそのまま放って眠ってしまったことを思い出す。
婚約者を持つのは王族、貴族としての義務のようなものだという。
だがそれにしても自分はどんなに美しい、あるいは可憐な、あるいは可愛らしい令嬢に声を掛けられても、心が動かないのだ。
恋をする感情はおろか、誰かひとりを特別に感じる感情が欠落してしまっているかのように。




