楽しい一日の始まり
楽しいけれどなんか苦しいー
メアンに予想より随分早い時間に起こされた時。
フレイアは日付を勘違いして、今日が謁見の日かと焦った。
「約束の時間はお昼過ぎからですよ?」
思わず太陽の位置を確認しながらフレイアが問いかけるとメアンが満面の笑みを浮かべる。
「存じております。急なお話でしたので衣装のお直しをしなければいけません。昨日のうちに過去の採寸を基に手配しましたが細かい調整をしなければ」
「お忍びなのでそこまで頑張る必要は……」
「あります。私の沽券にかかわる重要なお仕事です」
「そ、そう……」
水を差してはいけないと思ったフレイアは口を噤み。
あれよあれよという間に布団が消え、ネグリジェが巻き上げられ……浴室に連れていかれる。
「今日、マッサージの必要は、ないんじゃないかしら……」
浴槽には多めの湯が湛えられていて。精油を垂らしたのだろう、良い香りがするけれど。メアンの気合の入り方にフレイアは少し怯んだ。
「美というものは日々の積み重ねですよ、フレイア様」
「それは今日でなくても……いいんじゃないかしら……いえ、なんでもありません」
そのまま……長い朝が始まった。
メアンの腕前が間違いないことは身を以て知っていたけれど。
殊更に今日は気合が入っているようで。
『町娘』の肌や髪がつやつやで採寸のあっている服を着ていたらおかしくないかという至極真っ当な指摘をフレイアは結局飲み込んだ。
「メアン……すごいわ……」
鏡の中には紛う事なき町娘が居た。
シルエットが自然な、エプロンドレスは髪の色に映えるワインレッド。
どういった加工なのか硬めの生地だというのに着慣れた柔らかさがあり、身体にひどく馴染んだ。
足元はヒールの控えめな質素な編み上げブーツだが、これもやはり足に馴染んでいて。
街を歩いていたら浮くであろう、整えられすぎた艶やかな黒髪は可愛らしい刺繍があしらわれた、ドレスと同色の頭巾に覆われている。
黒い髪に蒼い眼は変わらないのに。
いつもより健康的に見える肌には赤みが差し、自分に似ているはずなのに全く違う少女のように見えた。
「当然です。セラス様と王都で会う間、色もデザインも追求しましたからね」
「何をやっているの……『メリナ』は」
「いつか三人でお忍びで遊ぶんですよ」
得意満面なメアンの言葉にフレイアは思わず俯いた。
不意に水たまりを踏みぬいたような気持ちを押し隠すと後ろに立ったメアンがそっと肩を撫でてくれる。
「大丈夫ですよ、フレイア様。皆で力を出し合えば、やり遂げられますよ」
本心からの言葉が……刺さる。
けれどフレイアは深く息を吐いて微笑んだ。
堪えきれなくてほんの少し涙が滲んでしまったけれど。
メアンは何も言わずにそっとハンカチで拭ってくれる。
「えぇ……私、やり遂げたいわ」
きっと……すべてが終わった後。
このひとときもメアンを傷つけることになる。
そう思いながらフレイアは涙を堪え。鏡の中の、自分とは違う少女を見てどうにか笑った。
あんなに早い時間から用意をしたのだから時間に余裕があると思っていたのに、ルフェウスとの待ち合わせ場所にたどり着いたのはほぼぴったりの時間だった。
途中で馬車から降りて歩いてきたフレイアは流行り病の噂があるせいだろう、賑わってはいるが思いのほか人の少ない噴水の傍を歩く。
王都は三角州に形成された都市で、城が川の上流の高い丘の上にあるので。街から城を見る時、人々は自然と城を見上げる形になる。
思わず城を見上げたフレイアはいつもと違う景色にふっと息を吐く。
空は晴れ渡り、どこか遠くから鐘楼の音がした。
天気に恵まれ、人がほどほどに多い。
お忍びにはちょうど良い日になりそうだ、と思いながら……そういえばルフェウスはどんな格好で来るのだろうと思った。
広場をぐるりと見渡してみるけれど見覚えのある姿はない。
メアンとイーグも見える場所に居るはずなのだがふたりのことも見つけられない。
こんな街中で、身分を隠してひとりきり。
生まれて初めての経験の解放感よりも軽い不安を感じているとざぁっと強い風が吹いた。
河から吹いてくる、吹き上げるような風。
その行方を追いかけるように見たところで。深緑色の外套が見えた。
使い込まれている頑丈そうな外套を身につけているのは男で。
体格はわかりづらいが武の心得があるのだろう、身のこなしがしなやかでやけに静かに見えた。
騎士か、冒険者か。年若そうだが腕が立つのだろう。
腰に佩いた剣は儀礼用のものではなく確かな実戦用である独特な雰囲気を纏っている。
フードを目深に被っているので顔は伺えないが誰かに声を掛けられることを期待してぶらついている町娘達が目を留めるのがわかった。
「ル……」
その男がこちらに歩み寄ってくることに気づいた時。フレイアは声を上げかけて口を噤んだ。
髪や眼の色どころか顔すらまともにわからないのに何故わかったのだろう。
そう思いながらフレイアは言いようのない、敗北感に似た想いを持て余した。
わかっていたけれど。自分は自分で思っている以上にルフェウスを見ていたのだろう。
そんな気持ちになっているフレイアの気持ちを知る由もなく彼は歩み寄り、そっとフードをずらす。
晴天から降り注ぐ昼下がりの光が彼の星空を思わせる独特な虹彩と瞳孔を煌めかせる。
フードから零れないようにだろう、長めの髪は半ば流され、形の良い額があらわになっていて、そんな変化にどきりとする。
メアン、仕事しすぎよ……そう思いながらフレイアは仄かに微笑んだ。
きっとぎこちないものになった気がするし。不思議な気持ちを持て余したままだから、頬も熱い。
「愛らしいお嬢さん。少し俺に付き合ってもらえますか」
そんな自分を見たルフェウスは笑みを深めてそんなことを言ってくる。
普段よりも柔らかな、悪戯っぽい口調。
年相応だけれど彼らしくはない、そんな雰囲気にフレイアはメアンに注意された通り、口元にあてそうになる手をどうにか制御しながら肩を竦めて深めた笑みを返した。
傍から見れば自分たちは、ただの若い男女に見えるだろう。
未来なんて知らない、明日があることを信じている、普通の。
そう思うとほんの少し気が楽になって。フレイアは深く息を吐いてからそっと半歩、ルフェウスの傍に寄った。
「『愛らしいお嬢さん』はないんじゃないですか? それじゃ結構ご年配に思われてしまいます」
「そうかな、そうかも……なにせこんなことしたことがないからさ」
フレイアはルフェウスの落とす外套の影に隠れるようにして笑った。
なんだか愉快でたまらなかった。
そうだ。
今日が最後と言っていい、きっと、人生で一番楽しい日。
それなら自由に振舞った方が得じゃないか。
そう思ったフレイアは元気な町娘ならどうすべきか考えた。
見れば恋人同士で歩く者達もいる。
横目で彼らを確認したフレイアは。何のためらいもなくルフェウスの腕を取った。
淑女にあるまじき振舞い。
けれど予想外のことに目を見開くルフェウスの顔を見るのが楽しかった。
「お兄さんはどこに行きたいの? 私で良ければご一緒します」
町娘らしいことを言っているかは自信がないけれど。心赴くままに笑うと。頬をひと刷毛染めたルフェウスが浅く頷いて『こっち』と何故かぎこちない口調で呟いた。
そんな些細なことまで面白くてたまらなかった。




