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氷解

お付き合いいただき、誠にありがとうございます!

まだまだ先が長いですがしっかり完結まで書きます!

「じゃあフレイア、ひと思いにやってくれ」


 スカーレットは客間のソファに座るとフレイアを見上げて微笑んだ。

 すべてを受け止める、というような柔らかな眼差しは自分の知らないもので。

 フレイアはよくわからない胸の奥の痛みを持て余したままスカーレットの前に立った。


「スカーレット様の記憶が……元に戻る」


 躊躇いながらも声に出したけれど、魔力が減った感覚がない。

 そんなにも軽い力で封印されていたのかと思ってスカーレットを見るけれどスカーレットにも何かの変化が起こっているようには見えなかった。


「あぁ……名前が違っているせいか」


 一秒、二秒……何も起こらないまま、柱時計の音を聞いてスカーレットが微苦笑を浮かべる。


「この名前が長くてね、つい忘れていたよ。あと……私の本当の名前を聞いたらもしかすると君の記憶も蘇ってしまうかもしれないけれど……付き合ってくれるかな」


「覚悟のうえです」


 フレイアは気を引き締めた。

 当時というのは母が死んだ九年前のことだろう。

 当時自分は九歳。

 幼い自分はどんな記憶を封じたのだろう。

 そう思いながらスカーレットの言葉を待った。


「私の本当の名前はグリムという。ルミルが付けてくれたんだ」


 間違いなく自分よりも母のことを知るスカーレットの言葉を、フレイアはただ頷くことで受け止めた。

 スカーレットはどういう経緯で母と出会って、共に戦い、そして違う道を歩むことになったのだろう。

 それを自分が知る日は来るのか。

 そう思いながら……フレイアは頭の奥がぐっと重くなるのを感じた。

 きっと今夜は夢を見るのだろう、と思いながら深く息を吸う。


「グリム様の、記憶が……元に戻る」


 吐く息に声を乗せるとふっと体の奥から何かが抜けていく感覚があった。

 『ギフト』が発動したのだろう。

 途端にソファの肘掛けを破らんばかりに握りしめる音がした。

 荒い息遣いに喘鳴のような、声にならない声が混ざる。

 見てはいけない……けれどスカーレットが心配で。

 フレイアはそろそろと顔を上げた。


 スカーレットは同じ体勢のまま、つよく奥歯を噛みしめていた。

 呼吸をするだけで精いっぱいだというように肩を揺らし。その隻眼を覆うのはどろりとした哀しみだ。

 何を思い出したのだろう、何を知ったのだろう。

 普段の威風堂々とした雰囲気は鳴りを潜め、いま目の前にいるスカーレットは悲哀に打ち震えるひとりの女性だった。


「……すまない。少しだけひとりにしてもらえないか」

「はい」


 脆い眼をしたスカーレットに声を掛けられたフレイアは短い返事を返して部屋を後にした。

 きっと自分が部屋を出たらスカーレットは愛しい人を失った女性として泣くだろう。

 邪魔をしてはいけないと思った。

 



部屋を出たのはよいものの、フレイアはどうしたらいいのかわからなかった。

ルフェウスの待つ部屋に戻るのもなんだか気まずいしスカーレットを残して出た部屋の前で待っているのも違う。

そう思いながら、取り敢えずルフェウスの居る部屋に戻ろうと絨毯の敷かれた廊下を歩いていると何故か、絨毯の端が歪んだ気がした。

思わず目を凝らすと現実でも眼でもなく、頭の奥に違和感があることに気づく。

 頭が、重い。

 そう思う間に身体が傾いで。フレイアは窓枠に左腕をぶつけて壁によりかかった。

 まさか、スカーレットの記憶の封印を解いた影響がもう出たのだろうか、と考えているうちに刈り取られるように意識が落ちた。

 明るい日差しが差し込む窓を見上げながら……それだけ、母が封じて欲しいと願ったスカーレットの記憶が大きなもので……自分にとっても蘇ったスカーレットの記憶はおおきなものだったのだと悟った。




「ルミル」


 花の匂いのする庭園。花の匂いのする庭園はめまいがするほどに明るくて。

おおきな影を翼のように広げる、大きな東屋が青空を切り取っている。

 ああ。いつか見た夢の続きだ、と。この夢が昔に起こった、自分の記憶であることを知る。


 母に声を掛けてきたのは燃えるような赤い髪を陽光に輝かせた在りし日のスカーレット。

 腰に佩いた繊細な細工の剣が、昼下がりの陽光で輝いた。


「頼んだとおりにお願いね」

「……あぁ」


 スカーレットを振り向いた母が曇りない笑顔で告げ。

 対照的にスカーレットは唇を引き結び、重く沈み込むような眼差しで母を見た。


「あなたにそんな顔をさせてしまってごめんね」

 スカーレットに歩み寄った母が慰めるように肩を抱くけれど。スカーレットの表情は晴れない。


「それでも君はやるんだろう」

「うん、ごめんねグリム」


 変わらず微笑む母と嘆息するように深く息を吐くスカーレット。

 精神が肉体に引きずられているのだろうか。

 いいや、これは過去の記憶だ……自分は駆けて行ってルミルのドレスの腰元に縋りつく。

 胸に弾けたのは不安。

 何かが起こる予感だけがあった。

 何が、起こるのだろう。

 いいやいまの自分は知っている。これは母が死んだ日の記憶だ。

 これから母は……元王妃……いいや正史を守る存在を『神』から『亡霊』へ引きずり下ろす。十中八九、自分の『ギフト』を使って。自分の命と引き換えに。


「フレイアちゃん。最後に力を貸してね」

 こちらを見下ろす母の顔は、まるで昼下がりのお茶会に誘っているかのように、明るい。

 伸べられる手を握って、明るい庭園へと踏み出していく。


「ルミル。約束は果たしてもらうからな」

「……それ、果たせるかわからないのだけれど」

「果たしてもらうからな」

「えぇ、じゃあ頑張るしかないじゃん」

 そんなやりとりを二人が交わすのを頭上で聴きながら……

 

 そして。

 

 スカーレットが腰に佩いた剣を一閃させ。

 母がふらつき。ひどく鮮やかに微笑み。

 スカーレットが唇をかみしめて涙を零す。


 そして、そして……


 通されたのは離宮、紗の向こうで座る元王妃。

 黒い髪に挿した金歩揺が目を惹き。

 むっとしたような酒精が鼻を圧す。

 曇りきった眼に映るのは蔑み。

 それが……焦りに変わって……寝椅子に倒れ伏す。


 そして、そして、そして……

 

 満足げに微笑む母は目を閉じる。

 雨滴のように降ってくるもの。

 見上げると悲哀に目を染めた、スカーレット。

 母を掻き抱いて、顔をゆがめることすら忘れて。


 そして、そして、そして……


 首にかけられる、蒼い宝石の首飾りが煌めいて。

 一度だけ、強く抱きしめてくれたスカーレットの押し殺したような、静かな声。


「フレイア。今日のことを私と君は憶えていない。そして……君は『ギフト』を持っていない。そう言いなさい。いまあるだけの、ありったけの魔力を使って」




「はっ……!」

 まるで夢から弾きだされたように目を開けると目の前にルフェウスの顔があった。

 悩みぬいたような、真剣な顔に胸の奥がまた、言いようのない痛みを訴えるけれど捻じ伏せる。


「スカーレット様は……?」


 どうやら自分は廊下で倒れてベッドに運ばれたらしい。

 気づかわしげなメアンと目覚めたことでほんの少しだけ安堵した様子のルフェウスに問いかける。


「倒れたのに真っ先にひとの心配をするんじゃない」


 ルフェウスの声は掠れきっていた。

 心労をかけ続けてしまっている、と思いながらも心が落ち着いているのは……夢の中で、いいや記憶の底の母を見ていたせいかもしれない。

 良くも悪くも自分と母は似ているのだろう。


「ごめんなさい、母との記憶を見たもので……つい」


 フレイアは微苦笑を浮かべた。

 母の死からもう九年。

 何度も何度も泣いてきた。

 断片的に見た記憶の中で。母は穏やかだが決然と、誇りやかに笑っていて。

 不思議と悲しい気持ちにはならなかった。

 むしろこれまで、死ぬときに母が笑っているわけがないと思い込んでいたから、むしろ今の方が心が落ち着いているほどだ。


 ルフェウスには、母が元王妃だった『正史』を守る存在を『神』の座から引きずり下ろしたことを伝えたので。その一言で様々なことを察したのだろう。

 肩を抱く腕に力が籠ったのを感じた。


「あの、でも……知ることができて良かったと思います」


 その力の強さから心配を感じ取ったフレイアは弁解するように声を上げ。


「大丈夫なわけがない」


 ルフェウスの静かな声に気圧された。


 本当に、ルフェウスは優しい人だと心底思った。

 ルフェウスこそ何度も時を遡る度、多くの人の死に触れてきたし。ずっと『亡霊』に母を人質にされているような状態だ。


「そう……ですね」


 ルフェウスは、母の死をずっと恐れて、生きている。

 自分とは別の苦しみをずっと抱えている。

 だからこそ自分はルフェウスに幸せになって欲しいと心底願う。

 王子である以上、自由にとはいかないだろうが。

 それでもいまほどの理不尽を強いられることのない、未来で。


 唐突に。フレイアはその未来を見られないことを突き付けられたような気分になった。

 そして母のことを思い出した。

 ああ。そうだった、母もずっと自分の幸せを願っていた。

 良くも悪くも、自分と母は似ている。

 自分とグリム……スカーレットを残して死ぬことを決めた母も、きっとこんな気持ちだったのだろうか。

 不思議と悲しい気持ちにはならなかった。


 だって自分にも幸せを託せる相手が見つかったのだから。

 

 


「殿下、私は大丈夫ですよ。本当に。母のことを知ることができて良かったと思います」


 心底、そう思って笑いかけたのに。

 ルフェウスは唇をかみしめる。

 その顔を見てあぁ、と思う。

 やはり自分と母は、良くも悪くも似ているのだ。


「君が僕を『殿下』としか呼ばなくなったのは……僕の気持ちに気づいてしまったのもあったけれど、いまは母君の記憶を見たせいだよね」

 

 ルフェウスの腕は、緩まない。

 優しいのに抗えない力がほんの少し前の自分は怖かったかもしれないけれど。いまの自分は平気だ。


「ねぇフレイア。君、死のうとしているだろう」


 だから。事実を指摘されて。ひやりとしたけれど、心は揺れなかった。

 今更死ぬことなど怖くないと思った。

 粗末なベッドの上で病魔に侵されて無力に死ぬよりは、ずっといい。

 本気でそう思っていた。

 

「君は僕の何を知っているの。もう『正史』じゃないんだ。君が死んだら、いまの僕は……壊れるよ。ありったけの力を使って時を戻して……『あの存在』が神に戻ってもきっと、後悔しない」


 だから。

 ルフェウスの言葉に弾かれたように目を上げた。

 何を言われたのかすぐには理解できなかったのは。その声があまりにも静かだったからだ。


「わかってくれ。もう君は僕の、何があっても失いたくない相手なんだ」


 伝わってくる鼓動が愛おしいと思った。

 けれど。受け入れられなかった。

 何か考える前にルフェウスの胸を押して離れようとしたけれど。体に回された腕がぐっと背に食い込んだだけに終わった。


「わかっていますよ」


 胸の奥が蝕まれるように痛くなった。

 ああ、惜しまれるのが嬉しくて、なにより悲しいんだ、と察した。


「わかっていますよ!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


「それでも私はやり遂げたい! あなたが理不尽な目に遭うことなく、幸せになってほしい。母が繋いでくれた今があって、その先をやり遂げる力が、私にはある! だから……止めないでください、ルフェウス様」


 体が熱かった。

 燃えているような決意がそう、させるのだと思った。

 けれど声は冷静さを失っていて。強まるルフェウスの腕のぬくもりを、確かに喜んでいる。

 そして胸の奥には悲しみが、確かにある。

 

 望まれて妻になれなくても、こうも望んだルフェウスの幸せをこの眼で見ることができないとわかっても……それでもいいと、思っていたのに。


「私は……自分が死ぬ運命だけは、乗り越えられないんです。だから私は……せめて、為すべきことをすべて為して、満足して死にたい!」


 胸の奥に残った最後の哀しみを吐き出した声は、音程を失って震えていた。

 まるで無力な子供に戻ったように。堰を切ったように涙が溢れる。


「君が僕の幸せを望んでくれているのと同じように、僕も君の幸せを心底願っている」


 ルフェウスはフレイアを抱く腕から力を抜かないまま、静かな声で囁く。

 雨のように降ってくる声は優しいけれど揺るがなくて。

 フレイアは縋ってはいけないと思いながらもその腕から逃れることができないまま、ただ嗚咽を噛み殺して涙を零した。


「君が、自分の運命を乗り越えられないというなら……僕が君の運命を変えると約束するよ。君は僕が、何があっても死なせない、フレイア」

 

 気づかないうちに冷え固まった手が、包み込むように握られる。

 伝わってくる手のぬくもりは確かなもので。

 胸の奥を蝕んでいた不安と恐怖と悲しみが……これまでずっと、見て見ぬふりをしてきたものが……そっと埋まっていく気がした。


「君には責任を取ってもらわないといけないからね」

 吐息に混ざった微笑みに。張りつめていた心が緩む。

 応えるように微笑んだつもりなのに。唇から漏れたのは嗚咽だった。


 結局……『似ている』ということは『違う』のだと理解するしかなかった。

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