幕章最終話 雪解けて
雪が、ゆっくりと解け始めていた。
軒先から落ちる雫が、朝のゲールの街へ静かに響き、冬の終わりを告げている。
まだ空気は冷たい。
だが、その冷たさの奥には、確かな変化があった。
春が近づいている。
山に近いこの街では、雪解けを素直に喜べない者もいる。
増水や土砂崩れ、魔物被害の増加に警戒しなければならないからだ。
それでも、長い冬を越えた街並みは、どこか明るかった。
#
乗合馬車の乗り場では、テオルが大量の荷物を積み込んでいた。
工具。書物。
魔道具の部品が詰め込まれた木箱。
どう見ても、普通の旅人の荷物量ではない。
御者が困ったような顔で見つめていた。
「……多すぎませんか、それ」
アイオンが呆れたように言う。
すると、テオルは胸を張った。
「全部必要なものっすよ! 魔道具師の移動なんて、大体こんなもんっす!!」
「追加料金、取られますよ」
「もう払ったっす!」
勝ち誇るテオル。
隣では、ヴィラが腕を組んで呆れていた。
「……馬と御者が気の毒だな」
「大丈夫っす! 三頭引きの大型馬車っすから!」
確かに、乗客はテオルを含めても数人程度。
それに対して馬車は大きく、まだ余裕すらある。
だが御者は、三頭の馬をなだめるだけで手一杯そうだった。
二頭引きでも扱いは難しい。
三頭ともなれば、尚更だ。
二人とも危うさは察していたが、誰も口にはしなかった。
護衛として同行するBランク冒険者パーティも、苦笑いを浮かべている。
彼らは自前の馬車を持っており、追随する形での護衛となるそうだ。
当然、馬が暴れればその分危険は増える。
テオルが払った追加料金が、どこまで安全を保証しているのかは分からなかった。
出発までは、まだ少し時間がある。
三人は乗り場の前へ並んで立った。
特に会話をするわけでもない。
ただ、雫の落ちる音だけが静かに続いていた。
「……デルキオラ、でしたっけ。どれくらいかかるんですか?」
アイオンが尋ねる。
「乗合馬車を乗り継いで、一月くらいっすね。直通がないんで、かなり遠回りになるっす」
「遠回り?」
「戦争中の小国を避けるんすよ。だから途中で何回も乗り換えるしかないっす」
「戦争ですか……」
「小競り合い程度っすけどね。でも、巻き込まれるのは御免っす」
アストライアでは、国や地域によって情勢が大きく違う。
バルガ帝国は昔から領土拡大を続け、多くの小国や集落がその被害を受けていた。
ククルス自由経済国家は商業で成り立つ国だ。
武器や傭兵を商品として扱う者も多く、“死を売る国”と呼ばれることもあるらしい。
一方で、経済圏では大きな戦争は起きていない。
商人同士の争いや、裏組織の抗争は絶えないようだが。
カイバル海上国家は侵略戦争には関わらないと言われている。
だが、日照りや海賊被害など、別の問題を抱えている地域も多い。
そう考えると、問題を抱えながらも大規模な戦乱から離れているローズレッド王国は、安全な国なのかもしれない。
だからこそ、アイオンにとって戦争というものは、どこか現実味の薄いものだった。
(前世もそうだったな)
戦争を知らない国で生まれた。
危険も人の命を奪う暴力も、情報としてしか知らなかった。
だが、この世界へ来てからは違う。
武器を持ち、人を殺した。
それは自身の自衛のためだったが。
それでも――戦争という言葉には、まだ他人事のような感覚が残っていた。
「でも――魔導都市デルキオラは、昔から行きたかった場所なんすよ」
テオルの声が、少しだけ明るくなる。
「危険はあるっす。でも、それでも楽しみなんすよ」
その目は、少年のように輝いていた。
「魔法使いの聖地って呼ばれてるっす。中立都市で、世界中の優秀な魔法使いや魔道具師が集まって、研究して、競い合ってる。……自分の理論が実現可能だってわかった以上、次に必要なのは“もっと上”の意見っすからね」
小さく息を吐く。
「……怖くもあるっす。笑われるかもしれない。全否定されるかもしれない。昔、同じ理論を考えた人がいて、しがらみで潰された可能性だってあるっすから」
「でも、行くんですよね」
アイオンが静かに言う。
テオルは笑った。
「当然っすよ! 流通できなくたって、困ってる村に置いていくだけっすから!」
「なら、誰が笑っても関係ないですよ。自分がやりたいことなら」
「もちろんっす!」
ヴィラが小さく鼻を鳴らした。
「二度と会うことはないだろう。気をつけてな」
「ヴィラさん!? もっと他に言い方ないんすか!?」
「……何を期待している?」
「もうちょっと惜しんでくれてもいいじゃないっすか!」
「惜しんではいるよ。もう少し金を使わせて、色々買わせるべきだったと思ってる」
ヴィラは山狩りが落ち着いてから、いつの間にか冒険者登録を済ませたようで、宿に居着いてもいた。
Dランクスタートなのを誇ってきたが、アイオンがCランクスタートだった上に既にBランクになっていることを知ると、ランクなどどうでもいいと態度を変えた。
そして露店や道具屋、武器屋を巡り、テオルに金を出させながら好き勝手に買い物をしていたのだ。
付き合わされるテオルは、減っていく財布に怯えていた。
彼の早期出発に関係ないとは思えなかった。
ちなみにアイオンは何度か誘われたが、ほとんど逃げ回っていた。
テオルはしばらくヴィラを見つめる。
それから、少しだけ目を細めた。
「ヴィラさん。次は奢ってもらうっすよ」
「はっ。……次があればな」
鼻で笑うヴィラ。
それを見て、テオルも笑った。
アイオンも、つられて小さく笑う。
この出会いは最悪な始まりだった。
だが――悪くない時間だった。
やがて、出発の時間が来る。
テオルは馬車へ乗り込み、窓から顔を出した。
「アイオンさんは、次どこ行くんすか?」
「予定通り、ククルスのヘルケイル山へ向かいます」
「ククルスなら、逆方向っすね」
テオルは窓枠に両手を掛ける。
「じゃあ――また会う日までっすね!」
アイオンは少しだけ考え、小さく頷いた。
「ええ。また会いましょう」
「ヴィラさんも!」
「……うるさい。さっさと行け」
テオルは声を上げて笑った。
そのまま馬車がゆっくり動き出す。
少し進んだところで、身を乗り出して大きく手を振った。
アイオンは軽く手を上げる。
ヴィラは腕を組んだまま、小さく頷いた。
馬車は、そのまま街道の向こうへ消えていった。
二人は並んだまま、その後ろ姿を見送る。
雫の音だけが、静かに響いていた。
「……うるさい奴だったな」
ヴィラがぽつりと呟く。
「そうですね」
「だが、悪くなかった」
「そうですね」
ヴィラは横目でアイオンを見る。
「お前も、そのうち旅に出るんだろ?」
「ええ」
「……そうか」
それだけだった。
二人はしばらく、消えていった馬車を眺め続けていた。
#
乗合馬車は、ゲールの街道をゆっくり進んでいた。
テオルは窓際の席に座り、流れていく景色をぼんやり眺めている。
乗客同士は互いに知らない者ばかりだった。
皆、自分のことで精一杯で、他人になど興味がない。
――ちょうどよかった。
今は、一人で考えたかった。
もう、ゲールの街は見えない。
テオルは窓の外を見ながら、一人で笑っていた。
傍から見れば少し怪しい。
だが、笑わずにはいられなかった。
(……ありがとうございました)
まず思い浮かぶのは、アイオンだった。
あの人がいなければ、自分は間違いなく死んでいた。
嘘をついて依頼に巻き込み、それでも最後まで付き合ってくれた。
怒りもせず、責めもせず。
ただ、自分にできることを淡々とやっていた。
そんな人間を、初めて見た。
(ヴィラさんもっすね)
信用していないと言いながら、誰より前に立ち、誰より傷を負っていた。
甘い物を食べた時の反応も、忘れられない。
どちらも言葉数は少ない人だった。
でも、不思議と安心できた。
(……照れ臭い人達っすね)
テオルは頬杖をつく。
デルキオラまでは、まだ遠い。
だが、不思議と焦りはなかった。
道中で、もう一度理論を整理できる。
頭の中に積み上がっているものを、ゆっくり形にできる。
雨を降らせる魔道具。
笑われた。馬鹿にされた。
それでも、捨てられなかった――夢。
だが、あの遺跡で証明された。
理論そのものは、間違っていなかった。
後は――高純度の属性魔石を、人為的に作り出す方法。
デルキオラなら、答えが見つかる。
そう信じている。
(……見てろっすよ)
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
それでも、テオルは笑っていた。
街道の両側では、雪解け水が朝日に照らされて光っている。
#
数日後。
ゲールの街は、少しずつ春の色を取り戻し始めている。
人が戻り、活気を見せる冒険者ギルドへ入ると、受付にはメルが立っていた。
「アイオンさん。今日はどうされましたか?」
柔らかな笑みを向けられ、アイオンはそのまま用件を口にする。
「近々ここを出る予定なんですが、ククルス方面への護衛依頼はありますか? どうせなら受けて行こうかと」
メルは掲示板へ目を向け、数枚の依頼書を確認する。
だが、すぐに首を横へ振った。
「今は出ていませんね。この時期は、まだククルス方面へ向かう商隊自体が少ないので……。逆に、ククルス側からこちらへ向かう依頼なら増え始める頃なんですが」
「そうですか」
アイオンは小さく頷き、少し考える。
急ぐ旅ではない。
だが、無意味に足止めされるのも避けたい。
最悪、走って向かえばいい。
それでも、せっかくの旅だ。
景色を見ながら、ゆっくり進みたい気持ちもあった。
「他の冒険者は、こういう時はどうしているんですか?」
「人によりますけど。でも、自前の馬車を持っている方は多いですよ」
メルは慣れた様子で答えた。
「護衛依頼を待つより、自分で動けた方が効率も良いですし。パーティなら荷物も積めますから」
「馬車ですか……。確かに、テオルさんの護衛をしていたパーティも、自前の馬車でしたね」
「はい。小型なら、馬とセットでもBランク割引でかなり安く手に入ります。御者役は必要ですけど」
「それなら問題ないですね。馬は扱えます」
オルババ村で一通り教わっている。
田舎では、馬は生活の一部だった。
「どこで買えますか?」
「南側の馬商ですね。馬車も扱っていますよ」
「ありがとうございます。少し見てきます」
軽く礼を言い、アイオンはギルドを後にした。
#
馬商は街の南端にあった。
主人は気さくな老人で、事情を話すと、いくつかの馬車を見せてくれた。
荷台の広いもの。
二頭引きの大型。
旅商人向けの頑丈な型。
その中から、アイオンは一頭引きの小型馬車を選ぶ。
馬も同時に見繕った。
落ち着いた気性の栗毛馬。
派手さはないが、長距離移動向きだと主人は言っていた。
値段を聞き、簡単な交渉を済ませ、その日のうちに購入する。
馬の名前は、決められなかった。
#
再びギルドへ戻ると、メルが少し驚いた顔をした。
「もう買われたんですか?」
「はい。ちょうど良い物がありました」
「早いですね……」
「悩む理由もなかったので」
アイオンはそう答える。
「明日にでも出ようと思っています。メルさんは、別行動でいいんですよね?」
「い、いえ!」
メルは慌てたように声を上げた。
「アメルダ支部長からは、なるべく離れず同行するよう言われていますので、私も一緒に移動します!」
「同行ですか?」
アイオンは少しだけ目を細める。
「ギルド側の窓口として、スムーズに依頼調整や情報収集を行う必要がありますから! 別行動は、あまり望ましくないと言いますか……!」
説明そのものは自然だった。
だが、アイオンはメルを見る。
嘘をついているわけではない。
しかし、全てを話している顔でもなかった。
とはいえ、悪意も感じない。
しかし、問題がある。
「同行する以上、俺がメルさんの安全も考えることになります」
「……はい」
「俺では対処できない状況になった時、後悔はしませんか?」
確認だった。
アイオンは、自分を過信していない。
守れない状況は、必ず存在すると仮定している。
一人旅なら気楽だ。
だが、誰かを同行させる以上、その命にも責任が生まれる。
命の保証はできない。
他人の命を背負いたくない。
メルは一瞬言葉に詰まり、それでも真っ直ぐ答えた。
「……後悔は、すると思います。でも、アイオンさんを責めたりはしません」
「そうですか」
アイオンは小さく頷く。
「最低限のフォローはします。ただ、指示に従ったりはしませんよ。あくまで同行者です」
「はい。それで構いません」
メルは背筋を伸ばして答えた。
その目には、緊張と覚悟が混ざっていた。
「では、明日の朝。門の前で」
「はい!」
アイオンは喧騒を背に、ギルドを後にする。
メルは額の汗を拭った。
(急いでメリッサさんに報告しないと……!)
そして受付を別のギルド員へ任せると、足早に奥へ向かっていった。
#
ギルドを出ると、見慣れた姿が入口にあった。
ヴィラだ。
外套が少し汚れている。
依頼帰りなのだろう。
「お疲れ様です」
「ああ、お前か」
ヴィラは短く返した。
「明日、ここを出ます。上位ランクの冒険者も戻ってきましたし、後は任せられそうなので」
「……そうか」
ヴィラは少しだけ目を細める。
「危惧していた事態にもなりませんでしたし、取り越し苦労でしたね」
二ヶ月近く続いた山狩り。
発見されたのは、数体の異形種の尖兵だけだった。
おそらく、繁殖能力を持っていたのは異形の主のみ。
アイオン達は必要以上に魔物を狩らず、生態系の維持を優先して動いた。
できる限りのことはやった。
だからこそ、後腐れなく街を離れられる。
「族長さんにもよろしくお伝えください。皆さんが、安全に暮らせることを願っています」
「ああ」
それだけだった。
ヴィラはそのままギルドへ入り、アイオンはしばらくその背を見送る。
それから、明日からの旅に備えて保存食や道具を買うため、街へ歩き出した。
(……メルさんの分は、どうするか)
そこまでは話していなかった。
だが、ただの同行者だ。
そこまで気を遣う必要もないだろう。
そう割り切ることにした。
#
翌朝。
アイオンは馬車を引き、門前へ到着した。
空気はまだ冷たい。
だが、冬の刺すような寒さは薄れている。
メルは既に待っていた。
旅支度を整え、小さな荷物と布包みを抱えている。
「おはようございます。これ、道中のお菓子です。簡単なものですけど」
「ありがとうございます」
アイオンは受け取り、軽く頭を下げた。
その時だった。
街道の向こうから、一人の人物が歩いてくる。
ヴィラだった。
背に荷物を背負い、完全な旅支度を整えている。
アイオンは目を瞬かせた。
「……ヴィラさんも出るんですか?」
「ああ」
「どこへ?」
「……私も、世界を見たくなった」
静かな声だった。
照れ隠しも、誤魔化しもない。
ただ、そのまま本音を口にした響きだった。
アイオンは少しだけヴィラを見る。
後ろでは、メルも黙って二人を見守っていた。
やがて、アイオンは小さく笑う。
「旅は道連れ、世は情け……ですかね」
「なんだそれは?」
「なんでしょうね?」
自分でもよく分からなかった。
だが、悪い言葉ではない気がした。
「あ、でも先に言っておきます」
アイオンは急に真顔になる。
「――財布は別ですよ」
「……は?」
「自分の物は自分で買ってください。奢りませんよ」
「はっ! 器の小さい男だな」
「それで結構です」
アイオンは即答した。
「あと、今は離れてますが、俺はパーティを組んでて、依頼報酬は折半にしてます。ヴィラさんが入るなら三等分になりますけど、いいですか?」
「構わん。さっさと行くぞ」
ヴィラは当然のように荷物を荷台へ積み込み、そのまま隣へ腰を下ろした。
メルは少し呆けていたが、慌てて後ろへ乗り込む。
「よ、よろしくお願いします、ヴィラさん」
「ああ」
短い返事。
馬車の主の様な態度だった。
(……まぁ、悪くないか)
戦える人間が増えるのは、単純に助かる。
野営も、メルの守りにも。
アイオンは手綱を握った。
栗毛馬が鼻を鳴らし、ゆっくり歩き始める。
門番へ軽く会釈し、そのまま街道へ出た。
雪解け水が道端を流れている。
空は、どこまでも青かった。
「ヴィラさん」
「なんだ?」
「この子の名前、まだ決めてないんですよ」
ヴィラは馬を見た。
「良い名前、ありますかね?」
「牝馬だな」
「はい。旅の仲間ですし、ちゃんと付けたいんですが……そういうセンスがなくて」
「……お前は、私にはあると思ってるのか?」
ヴィラは露骨に顔をしかめる。
それでも少し考え込み――
「オーラ……いや、アウラ。アウラはどうだ?」
「アウラ」
アイオンは小さく繰り返す。
「良いですね」
「はい! とても素敵です!」
後ろからメルも声を弾ませた。
ヴィラは興味なさげに鼻を鳴らす。
「なら決まりだ」
「よろしくな、アウラ」
アイオンがそう声をかけると、栗毛馬は耳を立て、小さく鳴いた。
馬車はゆっくりと街道を進んでいく。
ゲールの街が、少しずつ遠ざかっていった。
春が、始まろうとしていた。




