番外編 古い友に会う②
団欒の熱が冷める頃には、外はすっかり夜になっていた。
ナリアはゼアスに寄り添ったまま眠りにつき、セアラも自室へ戻った。
ジェダは村の宿泊所へ向かっている。
居間に残ったのは、ラクトとバルトスだけだった。
暖炉の火が落ち着いた頃、ラクトが戸棚から酒瓶を取り出す。
「安物だが、いいか?」
「構わんさ」
二つの杯へ酒が注がれる。
向かい合い、短く杯を合わせた。
「乾杯」
「ああ。乾杯」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
しばらく二人は黙ったまま酒を飲む。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かな居間に響いていた。
やがて、ラクトがぽつりと口を開く。
「ゼアスに、余計なことは言ってないだろうな?」
「余計なこと?」
バルトスは首を傾げる。
「俺の話だ」
その言葉に、バルトスは小さく笑った。
「なにが余計かはわからないが――一目惚れした女のために、憧れだった兵士を辞めたってことくらいか」
「……それは、十分余計なことだろ」
ラクトは呆れたように酒を飲む。
「そうか?息子に父親の話をするのは、悪いことじゃないと思うがな」
「恥ずかしいだろ!全く……」
ぶっきらぼうに返し、再び杯を傾ける。
バルトスは苦笑した。
「――二十年、か」
「そうだな。もう、遠い昔だよ」
「確かに。互いに年を取った。昔の友人の子どもが、俺の部下になるくらいの年をな」
「迷惑はかけてないか?」
「お前と同じで、寝坊が多い。まぁ、ジェダがフォローしてるがな」
「畑仕事も手伝わず、のんびり寝過ごしてたからなぁ。アイオン――もう一人の息子が、手伝ってくれてたが」
「その子の事は聞いてる。だから、ちょっと調べた。15歳で冒険者ランクBだ。……驚異的といっていい」
「B!?……あいつ、そんなことは少しも言ってこなかったぞ?」
「そうなのか?若ければ自慢してもおかしくないが……お前に似なかったんだな」
「どういう意味だ?」
二人は小さく笑う。
昔と変わらないやり取りだった。
「あの時は大変だったな。バルガ帝国が攻めてきて、国中が対策に追われてて。いくつも戦端が開かれてた」
「ああ。……あの時は、まだマシな国だったからな。兵力もあったし、騎士団も機能してた。だから、俺達みたいな入りたての平民兵士は、最前線じゃなく、戦火の届いていない土地の守りに回された」
「若い力は失わせないってな。それでこのフィギル領地に来て――各村の、念のための避難誘導をすることになった」
「最初はビビったよな。なんせ、禁断の森があるんだ。あの森から魔物は出てこないが、戦争の拍子に出てくるかもしれないって」
「ガキの頃から聞かされてた森だからな。恐怖が体に染み込んでる。で、この村に来て――」
「面食らったよなー。誰も動きたがらないんだから」
ラクトは笑う。
バルトスも懐かしそうに天井を見上げた。
「誰一人動かない。説得しても、“ここを離れるくらいなら死んだ方がマシだ”って顔で睨まれたな」
「……正直、そっちに吃驚したよ。ただの田舎の、更に田舎の村の、なにを惜しむんだって」
「その中に、セアラさんもいた」
ラクトは黙ったまま酒を飲む。
「あの時のお前、わかりやすかったな。顔真っ赤にして、全然喋れなくてな」
「……うるさい」
「一目惚れって、本当にああなるんだなって、皆で笑ったな。あの時、気は休んだよ」
「人のことを酒のつまみにしてな!」
バルトスは楽しそうに笑った。
「でも、本当に驚いたのはその後だ。……まさか、お前が兵士を辞めるとはな」
「……若かったんだよ」
ラクトは静かに答える。
「若かったから、勢いで決めた。でも――後悔はしてない。この村の一員になって、セアラを娶って……。俺は、そのために生まれたんだとすら思ってる」
バルトスは杯を置いた。
「――お前の幸せは、ここに全部ある。それなら、いいじゃないか」
「……お前、家族は?」
「いるよ。妻は三人。子どもは七人いる」
「なんだそれ!貴族みたいじゃねーか!」
「はははっ!そりゃあ、俺はモテるからな!昔っから!」
「あぁそうだな!ったく……」
ラクトは酒を飲んだ。
羨ましいわけではない。
ただ――
「俺は、貴族にはならないよ」
バルトスは、ラクトのわだかまりを悟り、呟く。
「どれだけ功績を積んでも、俺は平民のままだ。それでいい。……貴族になりたいと思ったこともないしな」
「……わかってるよ」
「まぁ、フィギル子爵やフォスター公爵のような貴族が、俺やお前の故郷の領主様だったら違ったんだろうけどな……」
暖炉の火が、ゆらゆらと揺れている。
やがて、バルトスが立ち上がった。
「そろそろ行くよ。明日、帰る前に寄る」
「泊まっていけよ。部屋なら空いてるぞ」
「宿泊所があるんだろ?お前のいびきに悩まされたくないからな」
「っ!そこまででかくない!」
「どうだか!ゼアスもうるさいぞ」
バルトスは外套を羽織り、扉を開ける。
冷たい夜気が流れ込んできた。
「――ラクト」
「なんだ?」
「詳しくは言えないが……覚悟はしておけ」
「覚悟?なんのだ?」
「剣を握ることになるかもしれない」
「……戦争になるのか?」
「ああ。……だが、この村だけは守ってくれと、ある方々に言われている。それでも……覚悟はしておけ」
ラクトは黙ったまま、ゆっくり頷いた。
バルトスは軽く手を振る。
そして、ゆっくりと扉が閉まる。
白い息を残し、バルトスはラクト家を後にした。
#
夜のオルババ村は静かだった。
雪の薄く積もった石畳を、バルトスはゆっくり歩く。
宿泊所は村の入り口近くにある。
だが、バルトスの足は別の方向へ向かっていた。
村の奥。
木々に囲まれた場所。
そこには、ポツリと建物がある。
教会だった。
昔と変わらず、静かにそこに建っている。
バルトスはゆっくりと扉を開けた。
蝋燭の火が、風で静かに揺れる。
女神像の前では、二人のシスターが膝をつき、祈りを捧げていた。
バルトスは何も言わず、その隣へ膝をつく。
そして、目を閉じた。
しばらく、静かな時間が流れる。
やがて、祈りを終えた二人が振り返った。
「……久しぶりね、バルトス」
落ち着いた声だった。
「本当に〜。直接お話するのは、何年ぶりでしょうか〜?」
もう一人が、ゆったりとした口調で続ける。
バルトスは立ち上がり、二人へ頭を下げた。
「伝令魔法ではやり取りしていましたが……お久しぶりです、レア様。ベティ」
蝋燭の火が、三人の顔を静かに照らしていた。
#
先に口を開いたのは、レアだった。
「座って」
バルトスは祭壇前の長椅子へ腰を下ろす。
向かい合うように、レアとベティも腰掛けた。
教会の中は静まり返っていた。
外では風が吹いているはずなのに、その音すらここまでは届かない。
揺れる蝋燭の火だけが、淡く三人を照らしていた。
「――“戒めの炎”については聞いているわ」
レアの言葉に、バルトスは小さく頷く。
「さすが、お耳が早いですね」
そして、ゆっくりと言葉を続けた。
「民が変わり始めています。……今まで黙っていた者達が、声を上げ始めた。新女神教に搾取され続けてきた不満が、あの炎を切っ掛けに噴き出している」
「そう……」
レアは静かに頷いた。
「女神様が動かれた。二百年の沈黙を破って……。それが何を意味するのか、私達にもまだわからない」
バルトスは蝋燭の火へ視線を落とす。
「旧女神教の信徒にとって、本来なら喜ぶべき出来事のはずです。……ですが同時に、不安もある」
「どんな不安かしら?」
レアの問いに、バルトスは少し考えてから答えた。
「女神様が、ただ人の世を混乱させるためだけに動かれたとは思えない。……しかし、歪められた教えによって積み上がった憎しみは深い。復讐の波は、正しき教えだけでは止められないでしょう。私は今、その最中でもがいている」
ベティが柔らかく微笑む。
「なにが正しい教えなのか〜、本当にわかる人はいませんからね〜。それを知っているのは、女神様だけです〜」
「……それは、理解しているつもりです」
「無理に波へ逆らうより〜、流された方が助かる時もありますし〜」
その言葉を受け、レアが静かに続けた。
「新女神教に飲み込まれながらも、心の奥で“旧い教え”を守り続けてきた者達は多いわ。……“戒めの炎”は、その人達の背を押すことになるでしょうね」
しかし、首を振るレア。
「でも――同時に、誰かを傷つけることにもなる」
「……共存の道は、ありませんからね」
バルトスの低い声に、レアは小さく頷いた。
「ええ。でも、知ろうとすることはできる。あなたがそうであったように。私達にできることは少ないけれど……教えを押し付けるつもりはないわ。それだけは、何があっても変わらない」
バルトスは静かに頷く。
「……こちらからも一つ」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
「王国内部が動き始めています。フォスター公爵とジーナ王女が、本格的に旗を揚げる準備を進めている。……その波は、既に兵団内部にも届いています」
レアの目が細められた。
「そこまで……随分と早いのね」
「フォスター公爵に、何かがあったのでしょう。長年水面下で進めていたものが、ジーナ王女という旗頭を得て、一気に表へ出始めた」
「う〜ん……中々の人物だと聞いていましたけど〜、何があったのでしょうね〜?」
「そこまでは。ただ――あの方は、権力欲だけで動く人ではありません。もしそれが目的なら、とっくに国を獲っていたでしょうから」
短い沈黙が流れる。
やがて、レアが静かに問いかけた。
「……ジーナ王女の話は、本当なの? “ティガル族”は?」
「はい。兵団としても噂を追っていました。……虐げられ、数を減らしましたが、生き残っています」
「それは……何よりの吉報ね」
レアの声が、わずかに柔らかくなる。
「《《扉》》がどうなったのかは、わかる?」
「それはまだ。ただ、現在ジーナ王女は旧バザーム砦の再建に動いています。そこへ同志が参加していますので、近いうちに情報は届くかと」
「そう……」
レアは目を伏せた。
「不思議ね。ローズレッド王国の王族と、ティガル族が手を取り合う日が来るなんて」
「私は詳しくは知りませんが〜、“旧国”の末裔なんですよね〜? それがよく〜……」
ベティの言葉に、レアは静かに答えた。
「虐げられ、蔑まれ、殺され……それでも手を取ることを決めるほど、追い詰められていたのか。それとも――許したのか。今はまだ、知りようがないわね」
揺れる蝋燭の火を見つめながら、バルトスがゆっくり口を開く。
「――ジーナ王女が参加された王立学園の実地試験。それに、アイオン少年が関わっていたそうです」
その瞬間。
レアとベティの呼吸が、わずかに止まった。
「直接お伝えすべきだと思い、伝令魔法では話しませんでした。……ジーナ王女の護衛として参加していたそうです」
一度言葉を切る。
「さらに、フォスター公爵とも深い繋がりがある。公爵の妹君の娘を、アイオン少年が救出したそうです。妹夫婦は亡くなられたようですが……その件で、公爵は返しきれない恩があると」
レアもベティも、何も言わない。
だからこそ、バルトスは続けた。
「この領地に、第四兵団の拠点が建設されます。表向きは、フォスター公爵の圧力を王族やベゼブへ向けるためでもありますが……最優先事項ではない」
「……では、何が?」
レアの問いに、バルトスは真っ直ぐ答える。
「ジーナ王女とフォスター公爵から頼まれました。“この村を、あらゆる脅威から守ってほしい”と。命令ではなく――願いとして」
「……そう」
静かな返答だった。
そして、バルトスはレアを見据える。
「率直に伺います」
真っ直ぐな視線だった。
「アイオン少年は……御使様なのですか?」
沈黙が落ちた。
蝋燭の火だけが、ゆらゆらと揺れている。
バルトスは続けた。
「フォスター公爵は、元々は“静観”の人だった。国を変える力を持ちながら、それでも立つことを諦めていた」
民を守るため。
新女神教を嫌悪しながらも、その争いを民へ押し付けたくなかったから。
「ですが今は違う。ジーナ王女を擁立し、王座へ押し上げるために動いている。そして――」
バルトスは言葉を続ける。
「ジーナ王女自身も変わった。この村への遊行以降、人が変わったかのように動き始めた。ナリア王女の貧民支援を助け、フィギル領への移送を進め……実地試験後には管理地まで得た」
さらに。
「長年敵対していたティガル族と友好関係を築き、フォスター公爵の支援まで取り付けた」
人は変わる。
だが……。
「ここまで急激な変化は、普通では考えられない。そして、その傍にはアイオン少年の姿がちらつく」
バルトスの声は、静かだった。
「ティガル族がジーナ王女へ協力するのも、彼が関わっているからではないでしょうか?……旧国の末裔である彼らには、彼らにしかわからない何かがあったのでは?」
仮説だった。
だが、確信に近い。
「……ジーナ王女とフォスター公爵は、腐敗したローズレッド王国を変えるでしょう」
そこで、バルトスは静かに言った。
「そんな変革者達へ変革をもたらした存在――時代を変える革新者と呼ぶに相応しいのでは?」
「そこまでよ、バルトス」
レアが、静かに制した。
その声には、戒めの響きがあった。
「それは、他の人に話した?」
「……いえ。私しかフォスター公爵と話す機会はありませんでしたので」
「なるほど……。バルガ帝国という敵国が近くにあって良かったわね。備えという意味では、都合がいい」
「……そうですね〜。何があるかわかりませんから〜」
はぐらかすような二人の態度に、バルトスは思わず声を荒げた。
「レア様!」
レアは静かにバルトスを見る。
たしなめるような眼差しだった。
「私にも、わからないのよ」
その言葉に、バルトスは息を呑む。
「だから、誰にも言ってはいけないわ」
レアは静かに続けた。
「それがアイオンの重荷になったと判断されれば……また女神様は、この世界から離れてしまうかもしれない」
「……」
「そもそも〜、神託も降りていませんからね〜。私達にも判断はできないんですよ〜。でも、何らかの加護を受けているのは間違いありません〜」
「……確かに。伝承とは違いますが……」
「そう。違うのよ」
レアは立ち上がり、女神像を見上げた。
「だからこそ、今は私達が触れていい時ではない。アイオンは、アイオンとして生きている」
その隣には、小瓶に入った白い花弁。
「もし女神様が何かをされるとしても――それは、きっとアイオンのため」
静かな声だった。
「私達にできるのは、待つこと。……だから、お願いよ、バルトス。その疑問は、あなたの中で収めておいて」
長い沈黙の後。
バルトスはゆっくり顔を上げた。
「……あなたがそう言うなら、そうしましょう」
「ありがとう、バルトス」
「ありがとうございます〜、バルトスさん〜」
バルトスは立ち上がる。
「……長居してしまいましたね。そろそろ失礼します」
「久しぶりに顔を合わせて話せて良かったわ」
「また来てくださいね〜? やっぱり、顔を見て話せると安心しますから〜」
「ええ。次がいつになるかはわかりませんが」
そして、祭壇の女神像を見る。
穏やかな顔だった。
二百年前から変わらないその表情を、蝋燭の火が静かに照らしている。
(……女神様)
バルトスは静かに目を伏せ、小さく頭を下げた。
「……そういえば」
ふと、バルトスが思い出したように口を開いた。
「ここへ来る前、ラクトと二人で酒を飲みましてね。あいつ、妙なことを言っていたんですよ」
「……どんなこと?」
レアが小さく首を傾げる。
「レア様も覚えているでしょう? あいつが、この村へ残るって決めた理由」
その言葉に、レアは少し目を細めた。
「勿論、覚えてるわ。セアラに会って、顔を真っ赤にしていたもの。そのまま居着くとは思わなかったけど」
「へぇ〜。それは初耳ですね〜」
ベティが楽しそうに笑う。
「あなたが乳飲み子の頃だからね」
「それで〜? 何を言っていたんですか〜?」
バルトスは苦笑しながら続けた。
「この村に来て、セアラに惚れて、兵士を辞めて……そのまま娶って。“自分は、そのために生まれてきたんじゃないか”って」
ベティが目を丸くする。
「わぁ〜!素敵じゃないですか〜!」
「……ただの惚気話じゃない」
レアは呆れたようにため息をついた。
「そうなんですがね。あいつ、昔はあんなことを口にする奴じゃなかったんですよ」
バルトスは小さく笑う。
「まぁ……二十年も経てば、人も変わるってことですかね」
そう言って立ち上がり、軽く頭を下げた。
「では、また」
そのまま、教会を後にする。
夜のオルババ村は静かだった。
雪を踏む音だけが、白い道へ響いている。
やがて、宿泊所の明かりが見えてきた。
バルトスは白い息を吐き、ゆっくり空を見上げる。
冬空の向こうで、星が小さく瞬いていた。
王国は、動き始めている。
それは、長い停滞が終わる前触れなのかもしれなかった。
バルトスは小さく笑い、そのまま宿泊所の扉を押し開けた。
#
バルトスが去った後の教会は、再び静寂へ包まれていた。
扉が開いた時に入り込んだ冷気が、わずかに空気を冷やしている。
「……あの子、何をしたんでしょうね?」
「う〜ん……気になりますね〜」
二人は蝋燭を消しながら、アイオンのことを思い浮かべる。
ベティが最後の一本を手にしたまま、柔らかく笑った。
「でも〜、きっと“そうしたかったからした”だけなんでしょうね〜。深い意味なんて考えてないと思います〜」
「そうね。自分にできることをしただけ。その結果、人の信頼を得た」
レアも小さく笑う。
「……あの子らしいわ」
教会の入口へ向かい、鍵を掛ける。
以前は必要なかった。
だが、村に人が増えた今は、念のために閉めるようにしている。
神聖術で守られているとはいえ、安心のためには必要なことだった。
「……良くも悪くも、時の針は進んだわ」
「はい〜。停滞していたこの国は、アイオンさんと一緒に動き始めました〜」
「……私達も、できることをしましょう」
「はい〜」
静かな返事が、夜の教会へ溶けていく。
こうして、オルババ村の夜は更けていった。




