番外編 終わりと始まりの夜
アストライア歴1206年、終わりの夜。
街道沿いの森。
雪は静かに、絶え間なく降り続けていた。
アイオンは、簡易テントを組み立て終えたところだった。
「……これでよし」
小さく呟き、次は焚き火の準備に取りかかる。
薪を集め、組み上げ、手のひらをかざす。
「火よ」
火の対外魔法。
バザーム砦での戦いを経て、ようやく扱えるようになった力。
ぱち、と火が生まれ、
薪へと移り、やがて安定した炎になる。
「やっぱり便利だな」
火種がなくとも火を起こせる。
冬の野営では、それだけで生死を分ける。
自分の腹を焼いて、ようやく覚えた適切な魔力の込め方だが、結果的には確かな糧となった。
雪の降る森の中。
焚き火の熱が、じわりと体を包む。
寒さには慣れている。
オルババ村の冬は、これよりも厳しかった。
森へ出る事を許されてからは、一人森にこもっていた事もある。
寒さに負ける様な事はない。
……さすがに、雪の中で入水するのは堪えるが。
「……」
焚き火の前の石に腰を下ろす。
魔物の気配はない。
賊の気配も。
王都を出る前に買った保存食を取り出す。
メリッサに教えられた、冒険者向けの不用品を取り扱う店で手に入れた物だが、味は悪くなかった。
簡素な夕食を終え、揺れる炎を見つめる。
炎の向こうに、様々な人の顔が浮かんでは消える。
この二ヶ月で、思い知らされた事がある。
どの世界でも、どんな場所であろうとも――
善い人間もいれば、どうしようもなく醜い人間もいる、という当たり前の事。
「……お前はどう思った?今の……女神教を」
静かな森に問いを落とす。
「選択の結果を見たくなかった、って言ってたよな?」
雪に吸われ、言葉は消える。
当然、返事はない。
それでも、続ける。
ここにはいない。
だが――確実に、どこかで聞いているはずの存在へ。
「俺は……正直、嫌だったよ」
炎が揺れる。
「あんな場所だと知ってたら、お前に見せたくなかった」
大教会の光景を思い出す。
人の欲と打算が渦巻く場所。
歪んだ信仰。
教皇ベゼブの神格化。
……女神に成り代わっていたのが、よくわかった。
「なにがあって、お前が世界から離れたのかはまだわからない。でも……あのドラゴンの骨の記憶が関係してるのは確かなんだろ?」
視線を落とす。
赤き竜を殺したであろう刀。
命のない世界で手に入れた、異質な刃。
「それに、お前を信じて生きてる人が、思ったより多い事も知った。……本物を見せたら幻滅するかもしれないけどな」
くすりと、自嘲気味に笑う。
女神の実像を知っているのは、おそらく自分だけ。
だからこそ、神聖視される程遠い存在だとは思えなかった。
「……多分だけど」
炎を見つめたまま、呟く。
「お前は、人に近い存在だったんだろ。この世界で……人と共に、生きてた」
しかし、何かがあり――
神託は失われ、女神を崇めてた旧国は影も形もない存在になり、女神の使いたる御使は途絶えた。
点と点が、ゆっくりと線になる。
朧気で曖昧な輪郭だが。
返事はない。
元々期待してはいないが。
「……明日見る世界は、どんな世界だろうな?」
目的地は決まっていない。
それでも、前へ進む。
雪は降り続ける。
焚き火は燃え続ける。
答えを期待しない問いかけは夜に混じり、やがて静寂が満ちた。
#
アストライア歴1206年、終わりの夜。
ローズレッド王国王都パルキノンの大教会。
その大聖堂は人で埋め尽くされていた。
年明けを祝う、女神教最大の集会。
最前列にはローズレッド王が鎮座している。
その隣に、次期国王最有力のアルゼン第一王子。
一列後ろには、ベジール第二王子とヘリル第一王女。
他の王族は参列していない。
女神教であっても旧教寄りのジーナや旧教の教えを守っているリアラは当然。
その他の王子達は立場を明らかにするのを拒み、参加していない。
さらに後方には、この国の経済を動かす者達が並んでいた。
冒険者ギルド、銀行ギルド、馬車組合、道具屋連合のトップ達。
王国の富と流通を握る者たちだ。
大聖堂に入りきれない貴族たちは、外にまで列を作っていた。
寒空の下、身を凍らせながらも列を作っている。
それでも彼らは満足だった。
今年も、なんとか生き残った。
落ちぶれ、貧民となり王都のゴミと化した元貴族が溢れる中で、確かに彼らは席を守り切ったのだから。
そして女神像の前には、枢機卿ルドバと女神教の幹部達が並ぶ。
ルドバは現教皇を廃し、自らが教皇になるために様々な手を尽くしていた。
だが今はまだ第二席。
役割を果たさねばならない。
大聖堂は、人数の多さに反して異様なほど静まり返っていた。
すべての視線が、ただ一つの扉へ向けられている。
やがて――
重厚な扉が、ゆっくりと開いた。
白と金の光が溢れ出る。
女神教の支配者――教皇ベゼブが姿を現した。
九十六歳。
だが、その姿は若々しい。
僅かに流れるエルフの血が、老いを拒んでいた。
白と金の法衣。
頭には女神の冠。
ゆったりとした歩み。
しかし、その一歩一歩には絶対的な権威が宿っている。
大聖堂の全員が頭を下げた。
王ですら、跪く。
ベゼブは装飾に溢れた女神像の前に立つ。
そして振り返り、参列者を見渡した。
高く飾られた肖像画は慈愛に満ちた表情。
だが目の前の女の視線は、氷のように冷たい。
「皆のもの」
低く、よく通る声が聖堂を満たす。
「新たな年を迎えるにあたり、祝福を」
人々が一斉に頭を下げた。
ベゼブは静かに頷く。
「二百年――」
間を置く。
「二百年もの長き時、女神の神託は途絶えている」
小さなざわめきが走る。
だがベゼブは穏やかに続けた。
「だが、それを嘆く必要はない」
参列者を見渡す。
「神託が途絶えているということは、女神が我らの道を認めているということ。もし誤っているならば神託は下される。……だが下されていない。ゆえに我らの道は正しいのだ」
頷く者たち。
それが茶番だと理解しながらも。
「この国は百五十年、我ら女神教と共に歩んできた。十二代の王たちも歴代の教皇の導きに従ってきた」
視線が王へ向く。
王は静かに頭を下げる。
「そして現国王陛下は在位六十年。王国史上、最も長く治められている」
わずかな笑み。
「それもまた祝福の証である」
そして、笑みが歪む。
「――そして私こそが、女神の真の意志を体現している証でもある!」
聖堂が静まり返る。
「神託が下されぬということは、女神が私が擁立した十二代王の統治に、なんの異論を唱えていないということだ!」
酷く傲慢な声。
「――ゆえに私は正しい」
突然の飛躍。
しかし、誰も異を唱えない。
「ゆえに――これからも私に従いなさい」
参列者たちは深く頭を下げた。
王すらも――
ベゼブは高らかに告げる。
「この国を今日まで導いてきたのは――」
ゆっくりと言い放つ。
「女神ではない。この私、ベゼブである!」
全員の表情が変わる。
だがベゼブは止まらない。
「いつまでも存在しない女神に縋る必要はない!今日まで導いてきた者こそ、諸君らが崇めるべき存在ではないか!?」
そして宣言する。
「この年をもって――我らは『女神教』という名を捨てる!」
ルドバの顔が強張る。
「新たな名は――」
その瞬間。
世界が止まった。
#
音が消える。
動きが消える。
完全な静寂。
その中央に光が生まれた。
一匹の蝶。
淡く光る蝶が、空中に現れる。
さらに一匹。また一匹。
無数の光が舞い、渦を作り、形を成す。
人の形。女性の形。
やがて――
そこに現れたのは
白い髪。
透き通る肌。
赤い瞳。
柔らかな光に包まれた、美しい女神だった。
彼女は静かに聖堂を見渡す。
王族。
貴族。
聖職者。
民衆。
すべてが凍りついたように動かない。
やがて視線がベゼブに向く。
口を開いたまま固まっている女。
「……かわいそうだねぇ、きみは」
静かな声。
怒りでも、軽蔑でもない。
ただの事実。
「長く生きて自由に国を操っているのに……まだ満たされない。まだ、なにかを求め続けている」
小さく首を振る。
「権力を得ても、富を得ても、人を支配しても……それでも足りない」
視線がわずかに柔らぐ。
「でも、知ってるよ」
小さく笑う。
「それも人だからね」
赤い瞳がわずかに細まる。
聖堂を見渡す。
「色んな世界を見てた。どこの世界も変わらない……"良い人もいるけど悪い人もいる"。当たり前の真理さ」
寂しそうな目で。
少しの沈黙の後、女神はふっと笑う。
「でも、それは駄目だな」
肩をすくめる。
「"女神教"に未練があるわけじゃないけど、保身のために名前を変えられるのはさすがに許せないし、いらない混乱が誰かを傷つけるかもしれない。それは……アイオンのためにはならない」
女神はふと視線を向けた。
聖堂の片隅にいる少女、アルテア。
憎悪の表情をべゼブに向けたまま、時間に閉じ込められている。
女神は小さく頷いた。
「ティガル族なんて名前を《《つけてまで》》、信仰心を持っててくれたんだ。そんなきみたちに報いたい気持ちが、私にもある」
微笑む。
「特にきみときみの弟は、アイオンの世界を広げてくれたからね。だから、これはその礼さ」
そう呟き、女神の姿が消えていく。
光る蝶が散っていく。
そして跡形もなくなった後――
時間が動き出す。
#
「――『ベゼブ教』とする!」
ベゼブの声が響いた。
そして勝利の笑み。
今回のバザーム砦の一件で、多少なりとも損害が出た。
そしてジーナがその顛末を利用し、力を得た。
アルゼンの報告を聞いて何を思い上がったのかと鼻で笑ったが……。
後日フォスター公爵家に赴き、なんらかの話をした後で、バザーム砦方面にフォスター家の飛空艇が出発した。
たくさんの物資を積んで。
べゼブは察した。
「ジーナ王女はフォスター公爵家の支援を受け、王座を目指す事にしたのだろう」と。
しかし、アルゼンがジーナに負ける事はない。
それどころか、そこで澄ました顔で座っているベジールにさえも。
それだけ長子というメリットはでかい。
どんなに人間性が愚かで傲慢で救いようの無い馬鹿であっても、第一王子という立場で他の王族を引き離せる。
加えて、自身の庇護を得ているのだ、負けるはずがない。
自身の庇護とはすなわち、この国の貴族やギルドのトップの大多数の支持を得るという事なのだから。
しかし、万が一がある。
フォスター公爵家が反旗を翻し国をとるための旗頭としてジーナを選んだのなら……
(あの頭の硬い一族を徹底的に潰しておくべきだった。だが、それをしたら国防が弱まりバルガ帝国の侵攻に耐えきれなかった)
忌々しいフォスター公爵家。
自身に逆らい、風を切って歩く姿に何度殺してやろうと策を練ったことか。
しかしその度にあの一族は跳ね除け存在感を示す。
(娘の奴隷化が上手くいってたとしても、心は折れなかったろうね。……しかし、今更立ち上がっても無駄なのよ)
そう。
フォスター公爵がなにをしても。
枢機卿ルドバが暗躍し自身の力を削ろうとしても。
無駄になる策を思いついたのだ。
それがすなわち、べゼブ教である。
(万が一アルゼンが敗れたとしても、新王が誰になろうと、今となってはどうでもいい……ただのイベント。べゼブ教のトップとして君臨し続けるだけよ)
国が滅びても女神教は滅びない。
ローズレッド王国など所詮ただの一国。
アストライア全土の六割以上が女神教徒なのだ。
どこの国に行ったとしても、変わらず支配者の座に座れる。
他の国の信者達に対する刷り込みも終わっている。
べゼブこそが女神の代弁者だと。
各国の有力者も飴と鞭で懐柔している。
逆らえるとしたら……亜人の国や魔族の国くらいだろう。
(これが、あなたが欲しがっていた女神教教皇の力よ。生まれる時代が早ければ、あなたも存分に使えたろうけどね)
後ろで唖然としてるだろうルドバを想像し、笑みが止まらない。
影で暗躍したところで、今のルドバには力がない。
大衆を動かす力が。
圧倒的な優越感が体を駆け巡る。
だが――大聖堂のざわめきに違和感を感じた。
誰もベゼブを見ていない。
その後ろを見ている。
「……?」
ベゼブが振り向く。
その瞬間――目を見開いた。
女神像の後ろ。
高く掲げられた、自分の巨大な肖像画。
それが燃えていた。
炎が肖像を包む。
さらに、女神像を飾る金と宝石の装飾も。
豪華な飾りが――すべて燃えている。
「なっ……!」
ベゼブが叫ぶ。
「ルドバ!なにをした!?」
ルドバも後ろを振り返る。
「なっ!わ、私はなにも!!火を!水を早く!」
協会の人間が動く。
水の体外魔法を使い、火を止めようとする。
だが燃え続けている。
轟々と。
しかし、微かな違和感を感じた者が火に恐る恐る手を伸ばした。
熱はない。触れられもしない。
手が炎をすり抜ける。
炎はただ燃え続ける。
ベゼブの肖像を、女神像の装飾を。
それだけを。
やがて――炎は消えた。
肖像画も装飾品も、後すら残らず灰すらない。
装飾品を無くした女神像だけが静かに立っていた。
あれだけ飾り立てられていた時よりも、存在感を示して。
完全な静寂。
誰も言葉を話せなかった。
べゼブでさえも、唖然とその景色を見ているだけだった。
そして大聖堂の後方。
一人の貴族が震える声で呟いた。
「……め、女神様が……」
静寂が破れる。
声が、か細い声がはっきりとべゼブの耳にまで届いた。
「お、お怒りだ……!」
ざわめきが広がる。
ベゼブは振り返る。
「静まれ!案ずることはない!」
叫ぶ。
だがその声は震えていた。
そして誰も信じはしない。
ただの火なら、何故水で消えなかったのか?
何故肖像と装飾品だけ燃やしたのか?
止めようと、黙らせようとするべゼブの声はかき消される。
「べゼブ様はやり方に問題がないから神託はないんだって、ずっと仰ってたじゃないか。なのにこれは……」
「〜っ!誰だ!?今言ったのはどこの誰だ!?」
べゼブは声を張り上げる。
先程までの傲慢さなど感じさせない程に。
それ故により広まる。
《《存在を否定された女神がなにかをした》》と。
喧騒で溢れた大聖堂の片隅で、アルテアだけが震えていた。
胸の奥が熱い。
涙が止まらない。
理由は分からない。
だが――確かに感じた。
ここで、アイオンと共に招かれた白の世界で感じた時の神聖さを。
今――確かに。
女神が、ここにいた。
#
アストライア歴1207年、始まりの日。
ローズレッド王国王都パルキノン。
女神教大教会で起こった事件。
あるものは女神の怒りを見た。
あるものは女神の降臨を信じた。
あるものは女神の実在に恐怖した。
長らく止まっていた世界が、静かに、確かに動き出した。




