ここにいる意味
広い礼拝堂。
教会の灯りが、静かに揺れていた。
宝石で飾られた女神像が、冷たく光を反射している。
そして、その上に掲げられた教皇ベゼブの肖像。
すべてを見下ろす冷たい視線が、そこには在った。
その下で二人は、黙って見つめ合っていた。
――確かに、ここに居る。
そう、確かめ合っているかのようだった。
やがて、アイオンが口を開く。
「……なぜ、俺がここに来ると?」
自分でも、わからなかった。
なぜフォスター公爵邸ではなく、この大教会に足が向いたのか。
アルテアは、少し首を傾げる。
「わからない。でも――」
そして、静かに告げた。
「そんな予感がしたの」
「……予感?」
「そう。……なぜかしらね?」
不思議そうに。
けれど、どこか確かな響きを持って、彼女は言った。
アイオンは、周囲を見回す。
広い礼拝堂には、誰の姿もない。
見張りの兵士も、他の教会の人間も。
気配すら、感じられなかった。
「見習いシスターが、深夜に一人で?」
アルテアが、小さく笑う。
「仕事よ。教会の灯りは絶やしてはならないから」
「……灯り?」
「誰がいつ、寄進しにくるかわからないでしょう? だから灯りを消さずに、誰かがここで待っていなきゃいけないの」
淡々と。
彼女は、言葉を紡ぐ。
呆れたような声色で。
「……それが、見習いの一番大事な仕事なんですって」
理由はわかった。
だが、それにしたって――
「……静かすぎないか?」
「……そうね」
アルテアも、広い空間をゆっくりと見渡した。
「いつもなら、他の見習いもいるし、数人は来るんだけど……」
「今日は?」
「見ての通りよ」
不思議そうに、彼女は手を広げる。
「もしかしたら……女神様の計らい、かもしれないわね」
その言葉に、アイオンは僅かに眉をひそめた。
脳裏に、あの女神の顔が浮かぶ。
(……お前が、何か仕組んだのか?)
答えは、返ってこない。
アルテアは静かに、ベンチを指した。
「座ったら?」
短く、彼女が言った。
アイオンは頷き、ベンチへと歩く。
二人は並んで、腰を下ろした。
礼拝堂の灯りが、二人の影を静かに揺らしていた。
#
沈黙が、落ちる。
二人は、ただ黙って座っていた。
祭壇の火だけが、静かに揺れている。
アイオンは何を話せばいいのか、わからなかった。
首飾りを渡すべきか?
それとも、別の話を切り出すべきか?
考えは、まとまらない。
アルテアも、祭壇を見つめたまま黙っている。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて――アルテアが、静かに口を開いた。
「……前に聞いた質問の答えを、教えてくれる?」
「質問?」
アイオンが聞き返す。
アルテアは、まっすぐ前を見たまま――
「あなたには、どう見えますか?」
その問いに、アイオンは息を呑んだ。
前に――あの朝、大教会で。
アルテアが、最初に投げかけた言葉。
『あなたには、どう見えますか?』
あの時は、答えられなかった。
いや、答える前に、あの白い光に包まれた。
「……」
アイオンは、ゆっくりと祭壇を見上げる。
宝石で飾られた女神像。
その上に掲げられた、教皇ベゼブの肖像。
金と権力の象徴。
信仰ではなく、支配の場所。
「……腐ってる」
小さく、呟く。
アルテアが、わずかに目を細めた。
「腐ってる?」
アイオンは頷き、言葉を続ける。
「少なくとも、クソ女神を祀る場所じゃない。金と権力を崇める場所だ」
「……」
「あの朝、見た。布施を払えない老人が追い出されるのを」
拳を、ぎゅっと握り締める。
「貴族たちは祈ってなんかいない。ただ見栄を張り合ってるだけだ」
声に、自然と怒りが滲む。
アルテアは、それを黙って聞いていた。
やがて、アイオンが吐き捨てるように告げる。
「ここは――俗物達の巣窟だ」
沈黙。
アルテアは、ゆっくりとアイオンを見た。
その瞳には、はっきりとした悲しみが滲んでいる。
「……そう」
小さく、呟く。
「やっぱり、そう見えるのね」
「……アルテア?」
「私にも――」
彼女は、視線を再び祭壇へ戻した。
「同じに見えるわ」
その声は、静かだった。
だが――深い痛みを、確かに帯びていた。
「アルテア」
「なに?」
彼女が、こちらを向く。
「渡したいものがある」
そう言って、アイオンは首飾りを取り出した。
蝋燭の光を受けて、それは鈍く光る。
アルテアの目が――大きく見開かれた。
「これは……」
震える手で、首飾りを受け取る。
そして、じっと見つめた。
「……懐かしいわ」
小さく、呟く。
その声は――遠い記憶を辿るように、柔らかい。
「――そう。あなた、あそこに行ったのね」
指先で、優しく撫でる。
まるで、故郷の思い出を確かめるように。
アイオンが告げる。
「渡してほしいと、ラガに頼まれた」
アルテアは何も言わず、首飾りを胸に抱いた。
そっと目を閉じる。
「……ラガ」
その名を、愛おしそうに呟く。
「あの子、元気だった?」
「ああ」
アイオンが頷く。
アルテアは、小さく笑った。
「泣き虫な子だった」
「……想像はできる」
「……もう、何年も経ったわ」
彼女は、首飾りをそっと握りしめる。
アイオンは、バザーム砦での出来事を語った。
どうやってラガに出会ったか。
そして、オルグやシャルが命を落とした事を。
アルテアは目を閉じ、黙って聞いていた。
やがて話が終わると、静かに目を開く。
「……ありがとう。教えてくれて」
その声は、わずかに震えていた。
ただ、首飾りを見つめている。
しばらくの沈黙。
やがて、アルテアが顔を上げた。
「……お祖母様は、女神様に会えたのね?」
「たぶん。確信はないけど」
アルテアの目が、わずかに潤む。
「ありがとう、アイオン」
心から、そう告げた。
「あなたが降りてきてくれなければ……なにもかもが、終わっていたわ」
アイオンは、言葉を返せなかった。
自分にできた事は、ほんの少しだけだ。
その少しが、誰かの役に立ち、感謝される。
気恥ずかしさの方が、先に立っていた。
沈黙。
祭壇の火だけが、静かに揺れている。
やがて――アルテアが、遠い目をした。
「……山は、どうだった?」
「雪が深かった」
「そうでしょうね。この時期は」
アルテアは、懐かしそうに微笑む。
「あの山の雪は、綺麗なの。真っ白で、静かで」
「……」
「夜になると、星がとても近くに見えるの。いつだって、思い出せる……」
遠い記憶を辿るように、語る。
その声には、温かな記憶が滲んでいた。
目を閉じて、思い出す。
「全部、覚えてる」
「……帰りたい?」
アイオンが、静かに尋ねる。
アルテアは、少しだけ沈黙した。
そして――
「帰りたい」
静かに、告げる。
「毎日そう思ってる」
その声は、切実だった。
「でも……」
言葉が、途切れる。
「今は、帰れない」
「……なぜ?俺が連れて行く事もできる。ラガには、きみが望むなら手を貸してほしいとも頼まれてる」
アイオンが、真剣に問う。
アルテアは、首飾りをぎゅっと握りしめた。
そして――ゆっくりと、口を開く。
「……私を助けてくれた人がいたの」
「助けてくれた?」
アルテアが頷く。
「人拐いにあって、言葉も分からず、どこかもわからず……逃げ場のなかった私を助けて、言葉を教えて、育ててくれた人。本当に良い人だった」
首飾りを、胸に抱く。
「でも、その人は殺された」
アイオンは何も言えなかった。
アルテアは、静かに告げる。
「だから、ここにいるの」
その声には揺るぎない決意があった。
「――べゼブを殺す。復讐のために」
沈黙。
祭壇の火が、二人の影を揺らす。
アイオンは、アルテアを見つめた。
その瞳には深い悲しみと、強い意志が宿っていた。
「……」
言葉が、見つからない。
アルテアは、首飾りを見つめる。
「帰りたい。それは本当なのよ」
その声は、切なかった。
アイオンを、まっすぐ見る。
そして、微笑みながら問う。
「……バカだと思うでしょ?」
アイオンは何を言えばいいのか、わからなかった。
復讐を止めるべきか?
それとも、応援すべきか?
諦めて、ラガのもとに帰ってやれと言うべきか?
答えは、出ない。
ただ――
「俺に、なにかできることはあるか?」
そう、尋ねた。
アルテアは意外そうな顔をする。
そして――
「…ふふっ」
笑った。
「おかしな人ね。こんなの聞いて、そんな言葉を言ってくれるなんて」
「……助けになれるなら、頼むって言われてる」
そんな事はラガには頼まれていない。
アイオンは、ただアルテアを放っておけないだけだ。
理由はわからない。
だが、できる事はしてあげるつもりだった。
それがたとえ――
「……私のかわりに、敵をとってって頼んでも?」
「勿論」
人殺しであっても。
その即答に、アルテアはやはり笑った。
だが――
「……でも、頼まないわ」
笑みが消える。
「これは、私がすると決めたことだから」
その声には凛とした強さと、揺るぎない決意があった。
アイオンは静かに頷いた。
「……わかった」
それ以上、何も言わなかった。
沈黙。
不意にアルテアは、首飾りを見つめる。
そしてゆっくりと、アイオンの方へ身を寄せた。
「……動かないでね」
「?」
アルテアは首飾りをアイオンの首にかけた。
「あなたが持っていて」
「いや、それは――」
「他の神官に見つかったら、取り上げられるから」
アルテアが、静かに告げる。
「それなら、あなたに持っててほしい」
「でも……」
「お願い」
アルテアが、微笑む。
アイオンは首飾りに触れた。
「……わかった」
小さく、頷く。
「……ありがとう、アイオン」
心から、告げる。
アイオンは何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
やがてアルテアが立ち上がった。
「……随分と長くなっちゃったわね」
「ああ」
アイオンも立ち上がる。
二人は、出口へと向かった。
重い扉を開けると冷たい夜気が、流れ込んでくる。
アイオンは、一歩外へ出た。
振り返ると、アルテアが扉の前に立っていた。
「……気をつけてね。あなたの存在は、今の女神教には都合が悪いわ」
「……それは十分にわかった」
ため息。
やがてアルテアが、静かに告げた。
「不思議ね……あなたとは、きっとまた会うことになる」
その声には、確かな確信があった。
アイオンは小さく笑う。
「……そうだな。きっと会うさ」
アルテアが、微笑む。
「じゃあ、また」
「ああ。また」
扉が、静かに閉まる。
#
アイオンは、夜の王都を歩いていた。
先ほどまで気配すらなかった見回りの兵士が、少しずつ視界に入ってくる。
(……さっきは、一人もいなかったのに)
やはり、何かしらの干渉があったのだろうか?
考えたところで、答えは出ないが。
これが王都最後の夜景になるだろう。
しかし感傷に浸る程のものではないので、足早に歩いていく。
やがて、フォスター家の屋敷へと辿り着く。
門をくぐると、玄関にカストルが立っていた。
待っていた。
というより――ただ、そこに佇んでいた。
「カストルさん」
「……あぁ、アイオンさん。お疲れ様でした」
「どうしたんです?」
いつもは背筋の伸びた執事だが、今夜は、まるで別人のようだった。
カストルは、何かを誤魔化すように微笑む。
「いえ、なにも。外の空気に浸っておりました」
「……この寒さの中で?」
「ええ」
それ以上、踏み込むな。
そう告げられているような笑みだった。
アイオンは察して、話題を変える。
「リズは元気でしたか?」
「それはもう。アイオンさんの帰りを待ちわびておりましたよ。今はもう、お休みですが」
「もう夜も遅いですからね……。フォスターさんは?」
一瞬、間があった。
「……ご在宅です。案内するよう仰せつかっております。参りましょう」
カストルはそう言って、屋敷の中へと歩き出す。
その背中に、言葉はなかった。
(……いつもなら、世間話くらいはするのに)
やはり、不在の間に何かがあったのだろう。
だが、聞けぬまま廊下を進み、フォスターのいる部屋へと着いてしまった。
カストルがノックし、扉を開ける。
中では、レオ・フォスター公爵が椅子に腰掛けていた。
威厳ある姿は変わらない。
だが――どこか、疲れたような。
沈んだ影が、顔に落ちている。
「……随分と遅かったが、戻ったか」
低い声。
しかし、そこには微かな温かみがあった。
「はい。野暮用を済ませていました」
「そうか」
短い返事。
アイオンが一歩中へ入ると、背後でカストルが静かに扉を閉めた。
公爵は、じっとアイオンを見つめる。
「……事情は概ね聞いている。ここまでの騒ぎになるとはな」
「誰からです? ジーナ王女殿下から?」
「……別口だ。だが――彼女が、あの一帯の管理権を得るとはな。用が済めば不要の地、というわけか」
吐き捨てるように、続ける。
「ベゼブも、アルゼン第一王子も……人の血の尊さを、まるで理解してない。わかっていた事だが……」
椅子を指され、アイオンは頷いて腰を下ろす。
沈黙。
暖炉の火だけが、静かに音を立てていた。
やがて、フォスターが口を開く。
「砦には確かに腐敗があり、そして確かに壊された。結果、利を得たのはジーナ王女だ。彼女の思惑も、理解している……」
視線が、鋭くなる。
「だからこそ、あえて――女神の使いであるきみに問う」
真剣な眼差しで、アイオンを射抜く。
「――仮初の信仰を押し付け、人を人とも思わず踏みつける者達を……女神は、確かに見たはずだ」
その言葉は、確信に満ちていた。
――アイオンを通して、女神は、この世界の闇を見たはずだと。
フォスターに、魂を見る力はない。
ラガやアルテアのような特別な力は。
それでも確信している。
「それでも尚、女神はこの世を流れのままにしている。ならば……今の世を、肯定していると見てもいいのか?なら何故、今更きみを?」
アイオンが、御使であるという前提。
「きみは女神の存在を確かに認識している。それは、今までの御使とは違う。教えてくれないか?なにを望まれてここにいるのかを」
内心で、焦りが走る。
確かに、フォスター公爵は今までも匂わせる発言をしていた。
だが、あくまで匂わせだった。
否定するほどでもない、否定したら逆に怪しい。
しかし今、フォスター公爵は言葉にしてしまった。
反女神教であり、権力と明確な意思を持つこの男に、誤魔化しが通じるとは思えなかった。
(……)
諦めたように、アイオンは一つ息を吐き、天井を仰いで――背もたれに深く沈んだ。




