雪に消える足跡
飛空艇がゆっくりと降下を始める。
窓の外には、王都パルキノンの夜景がどこまでも広がっていた。
無数の灯火が闇の中で瞬き、雪を被って白く染まった屋根が、冷たい月明かりを静かに跳ね返している。
「……着いたわね」
ジーナの小さな呟きが、船室の空気に溶けた。
アイオンは答えず、ただ流れていく景色をじっと見つめていた。
やがて、微かな振動と共に飛空艇が発着場へと着陸した。
重厚な扉が開くと、冷たい夜気が一気に流れ込んでくる。
「降りるぞ」
グレイスの低い声に促され、生徒たちが一人、また一人と立ち上がる。
彼らはそれぞれの想いを胸に、住み慣れた王都の土を踏みしめていった。
#
発着場は、既に迎えの人々で溢れていた。
家族を待つ者、主を待つ使用人たち。
揺れる松明の炎が、降り積もる雪を赤く照らし出している。
「ハルク様!」
執事らしき老人が、雪を蹴立てて駆け寄ってきた。
「今戻った」
ハルクは短く応じると、ジーナへと向き直り、完璧な所作で一礼した。
「では、王女殿下。また学園で」
「ええ。お疲れ様、ハルク」
ハルクは深く頭を下げ、執事と共に闇へと消えていった。
「マルティン様! ご無事で……!」
涙声で駆け寄る侍女に、マルティンが柔らかく微笑む。
「ただいま。心配をかけましたわね」
彼女はジーナに視線を向け、万感の思いを込めて告げた。
「ジーナ様。私もこれで」
「ええ。気をつけて」
二人は一瞬だけ手を取り合い、それぞれの家路へと分かれた。
エルネストは、気弱そうな父親に迎えられていた。
「……父様」
「今はいい。帰ってからだ」
言葉こそ短いが、交わされる視線には確かな安堵が滲んでいる。
ヘリムもまた、控えめな侍女に伴われ、ジーナに小さく頭を下げて静かに去っていった。
護衛たちも、それぞれの「日常」へと戻り始める。
「――ではこちらも。予定ではもう一日あったが、必要ないだろうしな」
リベラが肩をすくめて立ち去る。
「面倒な依頼だったわ。……縁があれば、また会いましょう」
ティアナの明るい別れ、そしてカイルの無言の肯定。
カイルとアイオンの視線が、一瞬だけ交差する。
その眼差しには、静かな決意の色があった。
軽く手を挙げたカイルの背中が闇に消えると、雪を踏む音だけが遠ざかっていった。
#
喧騒が去り、静まり返った発着場に一人の女性が駆け込んできた。
「ジーナ様!」
「メリア!」
メリアがジーナの手を握りしめる。
「どれだけ心配したか……! 連絡が途絶えたと聞いた時は、生きた心地がしませんでしたよ!」
「ごめんなさい、メリア。でも、こうして帰ってきたでしょう?」
ジーナが優しく頭を撫でると、メリアはようやく涙を拭い、傍らに立つ少年に気づいた。
「アイオンさんも、お疲れ様でした。……ジーナ様が、迷惑をおかけしてはいませんか?」
従者が主人に対して発する言葉ではない。ジーナは顔を朱に染めた。
「ちょっとメリア! なにを言っているの、何もしてないわよ!」
「……アイオンさんに聞いてるんです」
主人の抗議を涼しく流し、メリアがアイオンを見据える。
「な、なにも!」
「……本当ですか?」
「そんなに疑わないでよ!」
必死に否定するジーナを見て、メリアは溜息を一つ吐き出した。
「……わかりました。とにかく、お世話になりました」
頭を下げるメリアに、アイオンは「仕事ですから」と淡々と答えた。
ジーナはその横顔を、少しだけ寂しそうに見つめた。
「では、帰りましょうか。……リアラ様も心配されていましたわ。安心させてあげましょう」
メリアはジーナ用の馬車へと一人歩き出した。
その場には、ジーナとアイオンの二人だけが残された。
シンと冷え切った空気の中に、沈黙が落ちる。
「……これで、依頼は終わりね」
ジーナの言葉に、アイオンが微かに微笑んだ。
「そうですね。ようやくゆっくり休めそうです」
「……すぐに発つつもりなの?」
「用事が済めば。長居して面倒に巻き込まれるのは嫌ですから」
面倒の原因は、紛れもなくジーナ自身。
それを自覚しているからこそ、彼女は強く引き留めることができなかった。
「……それでも、一緒にいてほしいわ」
小さく漏れた本音にアイオンが首を傾げると、ジーナは慌てて顔を背けた。
白く吐き出された息が、夜気に溶けて消えていく。
「……ねえ、アイオン。また、会えるかしら?」
その問いに、アイオンは答えに窮した。
「……どうでしょうね。もう二度と来たくないと思うような王都ですが……きっと会えますよ。なんだかんだ、縁のある関係のようですから」
「……縁。そうよね」
ジーナの声が、微かに震える。
「――私は必ずこの王都を、国を変えるわ。あなたがずっとここにいたいと思えるほどの場所に」
潤んだ瞳を隠すように、彼女は満開の笑顔を作った。
「時間はかかる。でも、必ずやり遂げる。私の望みのためにも。だから……元気でいてよね!」
「……ええ。ジーナも」
それ以上、言葉は必要なかった。
だが、別れたくないという熱のような感情が、雪の夜に漂っている。
「ジーナ様!」
メリアの声が静寂を破った。
「――ええ、今行くわ!」
ジーナはアイオンに向き直り、最後にもう一度だけ告げた。
「……私は、いつでもあなたを想っているわ。それだけは決して、忘れないで」
彼女は振り返ることなく、馬車へと走り去った。
舞い上がる雪が、彼女の姿を白くぼかしていく。
アイオンはその背中を見送った。
冷たい雪が、彼の肩にも静かに降り積もっていった。
#
「――アイオンさん」
不意に背後から声がした。
振り返ると、そこにはメリッサが立っていた。
眼鏡の奥の眼差しは、一見すれば親しげな笑顔に見えるが――。
「お帰りなさい。無事で何よりだわ、本当に」
「……」
「……? 早々に悪いのだけど、報告を聞かせてくれないかしら。今から時間を――」
「今日は疲れています。明日にしてください」
アイオンの拒絶は冷徹だった。
その姿に、メリッサは微かな焦燥を覚える。
その拒絶の仕方は――敵意の向け方は、冒険者から賊へと堕ちた女、ヒィルに向けたものと酷似していたからだ。
「あ、アイオンさん……!?」
「明日、必ずギルドへ行きます。失礼します」
アイオンは振り返ることなく、その場を去った。
雪の上に残されたのは、孤独な一筋の足跡。
メリッサは、その後ろ姿を立ち尽くして見つめていた。
表情が般若のように凍りつき、握りしめた拳に雪が積もっていく。
(……そう。そういうことね)
彼女の鋭い視線が、ジーナの馬車を射抜いた。
メリッサは確実な足取りで、まだ止まったままの馬車へと歩み寄る。
その前にメリアが立ち塞がった。
「失礼します、ジーナ王女殿下とお話を」
「あいにく、ジーナ様はお疲れです。またの機会にしてください」
メリアもまた、明確な敵意を隠さない。
だが、内側からジーナがドアを開いた。
「いいのよ、メリア。――どうぞ、メリッサ。こちらも話があるから」
「……助かります、王女殿下」
メリッサが馬車に乗り込む。
メリアは不快さを隠さず、その後を追った。
#
閉ざされた馬車の室内。
向かい合う二人の間には、火花が散るほどの緊張が張り詰めていた。
「――単刀直入に伺います。失敗した、ということでよろしいのですね?」
メリッサの冷え切った問いに、ジーナは迷わず言い放った。
「彼を王都に縛り付けるのはやめた。それだけよ」
堂々とした返答。だがメリッサは鼻で笑った。
「……その程度の思いだったのですか、残念ですね。あの子――カーラさんは対等に彼の隣に立つために、自ら別離を選びました。思いの重さが違ったのかしら?」
ジーナの顔が険しく歪む。
メリアが抗議しようとするのを、彼女は手で制した。
メリッサの言葉は止まらない。
一歩間違えなくても不敬罪に問われるほどの毒を吐き続ける。
「不在の隙を突くことでしか、あなたが彼女に勝てることはない。村で共に育ったカーラさんと、ぽっと出のあなたでは、積んできた月日が違いますもの。……こちらの期待外れだったというだけですね。第三王女殿下には、初めから荷が重い話でした」
嘲笑するメリッサ。ジーナは顔を伏せ、黙ってそれを聞いていた。
時折、肩を震わせるジーナを見て、メリッサはこの王女に期待した自身の浅はかさを呪った。
(役立たず……! 態度ばかり立派で何も成せない、張りぼての王族!)
計画の立て直しを考えながら、馬車を出ようとするメリッサ。
その背中に、予想外の声が届いた。
「……ふふっ」
笑い声。
メリッサが振り返り、冷たく睨みつける。
「……なんですか?」
「あら、ごめんなさい。なんだか可笑しくて……ふふっ」
「自分の至らなさを笑っているのですか? なら、次の機会を――」
「違うわ。……あなたの口車に乗っていた自分があまりに滑稽で、ね」
カーラとの連絡を遮断する。
ただそれだけの誘いに、なぜ自分は応じてしまったのか?
「あなたの誘いに乗った理由……今ならはっきりとわかるわ」
「……恋敵の情報を入れたくないという、ありがちな嫉妬心でしょう?」
「私もそう思っていた。そして、私が彼を繋ぎ止められなければ、あなたが何をしてもそうするために動くと思ったの。……それこそ、自らの体を使ってでもね」
メリッサはその選択もできる。
ギルド職員と冒険者の色恋沙汰など珍しくもない。
それで彼を縛れるのなら、彼女は躊躇わない。
しかし、肉欲を満たせば済むような相手ではないというのもわかっていた。
だからこそ、アイオンに情のあるジーナを使ったのだが。
「……ですから、嫉妬心でしょう? 可愛らしい理由だわ。私は気にしませんよ」
メリッサは余裕を崩さない。
だが、ジーナもまた同じだった。
「いいえ、違った。もっと単純な理由よ」
「……?」
「……彼を信じられなかった。私の心の弱さが、あなたの毒を含んだ言葉に飛びついた。それだけの理由よ」
メリッサは目を見開き、やがて呆れたように笑った。
「――はははっ! 呆れた。あなたのような世間知らずは、簡単に口にするのよね……信じるなんて言葉を。騙される人間の典型」
「……彼が騙すような人だと?」
「あなた自身の『甘さ』の話をしているんですよ、王女殿下」
尚も嘲笑を重ねるメリッサ。
「何よりも……あなたは何もわかっていない。彼がどれほど稀有な存在か」
「稀有?」
「ええ」
メリッサの瞳が、昏い熱を帯びて怪しく光る。
「彼は《《本物》》になれるの。作られた最強でも、方便のための偶像でもない。世界に変革をもたらす一握りの存在――逸材なのよ」
ジーナは、静かにメリッサを見つめた。
「だから何だというの?」
「――守らなければならないのよ!」
メリッサの声に、狂気じみた情熱が籠もる。
「彼ほどの才能を野放しにすれば、必ず誰かに潰される。貴族、王族、女神教、ギルド、冒険者……彼を放っておくはずがない。力ある者は、必ず消費される宿命なの。誰かが守らなくてはならない」
「……」
その目に宿るのは、保護という名の支配欲。
「いつか彼が羽ばたく時、彼は私に感謝するわ。自分はこれほど慎重に、丁寧に私に磨き上げられていたという事実に……」
「……やっぱりズレているわね、あなた」
ジーナが、はっきりと否定する。
「それは、あなた自身のためでしょう?」
「……何ですって?」
「『自分が見出した才能』として、自分が評価されたいだけ。彼の力だけを見て、彼自身を最初から見てなかったのね」
「……それの何が悪いんですか!?」
メリッサが声を荒らげる。
「結果として彼が守られる事実は変わらない!第一、 この国の歪みは、王族であるあなたこそ知っているはずでしょう!」
「――それでも!」
ジーナが強く、凛とした声で遮った。
「それでも……彼を縛る権利なんて、私たちにはないのよ。あなたは、アイオンを少しも理解していない」
ジーナの深い溜息に、メリッサが冷たく鼻を鳴らす。
「力ある者は、その責任を果たすべきなの。それは宿命よ。王族に生まれたあなたも同じでしょう?」
「……もう、結構よ」
ジーナが対話を断ち切った。
「結局、アイオンがどうするかを決めるだけなんだから」
「……彼に決める権利などないわ。ギルドが定めれば、彼はそこに従うしかない」
「……だから、わかってないと言っているのよ」
ジーナの呆れ声に合わせ、メリアが馬車のドアを開いた。
メリッサは最後に念を押す。
「契約は破棄。カーラさんとの連絡も妨害しない。……よろしいのですね?」
「結構よ。――ただし、あなたと一度でも契約を交わしたことをアイオンに漏らせば、必ず報いを受けさせるわ。……不敬罪には目を瞑ってあげる」
「――寛大なお言葉、痛み入ります」
メリッサは馬車を降り、芝居がかった一礼をした。
ドアが静かに閉まり、馬車が進み出す。
一人残された発着場で、メリッサは深く息を吐いた。
(感情的になりすぎた。気をつけないと)
ジーナの言葉はすべて図星だった。
だがそれだけ。
彼女は考えを改める事はない。
(……何が悪いのか、私には理解できない。結果的に彼のためになるのなら――感謝されるはずよ)
彼女は深呼吸をし、冷気で頭を冷やす。
次の計画を練りながら、夜の闇へと消えていった。
#
ジーナの馬車の中。
メリアが心配そうに主人を見つめていた。
「……ジーナ様」
「なに?」
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
ジーナは窓の外に流れる雪を見つめた。
「……ねえ、メリア。人と理解し合うって、本当に難しいわね」
メリアは答えず、ジーナの冷えた手をそっと握った。
馬車は、雪の夜を静かに進んでいく。
#
アイオンは、夜の王都を独り歩いていた。
向かう先はフォスター公爵邸――ではなく、別の場所。
(……今日じゃなくてもいいはずなんだけどな)
自問自答しながらも、行かなければならないという奇妙な感覚があった。
白一色の世界。
どこか既視感のある景色を歩く。
やがて、目的地が見えた。
女神教の大教会。
窓から漏れる微かな光が、雪の上に落ちていた。
アイオンはゆっくりと石段を上る。
見張りも、人の気配もない。
彼は扉に手をかけ、深く息を吸った。
そして、重厚な扉を静かに押し開いた。
#
広大な礼拝堂。
祭壇を照らす灯火の中に、一人の少女が立っていた。
銀灰色の髪。潔いほどに白い服。
少女は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……来ると思っていたわ」
アルテアは無機質な表情でアイオンを迎えた。
背後で扉がゆっくりと、重い音を立てて閉ざされていった。




