未来
翌朝。
冷たい朝靄が、砦を包んでいた。
ジーナは早くに目を覚ました。
というより、ほとんど眠る事ができなかった。
(……考えても仕方ないのに)
簡易ベッドから起き上がり、外套を羽織る。
昨夜の会話が、何度も執拗に頭の中を巡る。
アイオンの冷たい態度。
ハルクの突きつけた正論。
(全部、正しい)
頭では理解している。
だが、胸の痛みは容易には消えてくれない。
テントの外に出ると、既に兵士たちが動き始めていた。
護衛たちも起きている。
その中に――アイオンの姿があった。
目が合う。ほんの一瞬だけ。
アイオンは事務的な所作で軽く会釈し、すぐに視線を逸らした。
昨日までなら、駆け寄ってきてくれた。
笑顔で「おはようございます」と言ってくれたはずだった。
だが、もうそれはない。
(……これが、正しいのよ)
自分に言い聞かせる。
王を目指すと決めた以上、耐えねばならない孤独だった。
深く息を吸い、ジーナは作業の指示を出し始めた。
#
同じ頃。
砦の外れで、ヘミングが戻ってきた。
一晩中ティガル族と対話していたのだろう。
顔には隠しようのない疲労の色が濃い。
だが――その表情は、どこか晴れやかでもあった。
「ギルバート」
「おう、どうだった?」
待ち構えていたギルバートが、すぐに駆け寄る。
「……なんとかなったと思う」
ヘミングは小さく笑った。
「ラガ――族長や皆が、受け入れてくれた」
「で?」
「話を聞いてくれると言ってくれた」
その言葉に、ギルバートの目が見開かれる。
「マジか!?」
「ただし――」
ヘミングは言葉を切った。
「条件がある。それが駄目なら無理だと」
「……条件?」
「ジーナ王女に、直接会いたいと」
その瞬間、周囲の空気が一変した。
「……ヤバくね?」「関わってないとはいえ、虐げてきた王国の王女に……」「いずれそうするべきだろうが、今は何の対策もできていない」
兵士達のざわめきを遮るように、ギルバートが呟く。
彼ですら、驚きを隠せないようだった。
「……報復か? それをする権利はあるが……しかし――」
だが、ヘミングの答えは違っていた。
語られたのは、よっぽど現実的な内容だった。
「族長が言うには――『国を変えようとする者の目を、直接見たい』と」
「……」
「拒絶じゃない。チャンスだと、オレは思う。ラガは理性的だ。一族を存続させるために、過去の罪を忘れてもいいと言っている。兵士達に虐げられたわけではないから、共存も可能だろう」
ギルバートの表情が、険しくなる。
「護衛なしでか?それならさすがに無理だぞ」
「いや、護衛は構わない。だが――」
ヘミングは言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「『余計な力を見せびらかさない者』という条件がついてる。つまり、大人数で来るな、という事だ」
「……警戒してるのか、それとも試してるのか」
「両方だと思う。……王国に家族を殺された者達の中に、来る覚悟はあるのか? という問いだろうな」
二人は沈黙する。
数秒考え――顔を見合わせた。
「……王女殿下に伝えるか。俺にはどうする事もできないし」
「そうだな……」
「しかし、良かったな。仲間とちゃんと話せて!」
「……詫びを入れろ! なんて怒鳴ったくせに」
言葉とは裏腹に、ヘミングは照れ臭そうに笑う。
「……ありがとな、ギルバート」
「いいんだよ! お前にはまだまだ働いてもらわなきゃならない。報酬の前払いみたいなもんだ!」
笑いながら、傭兵達は砦へと歩き出した。
#
ジーナに報告が届いたのは、朝の作業が一段落した頃だった。
「……ティガル族が、私に直接会いたい?」
ギルバートの言葉を反復する。
展開の早さに、驚きを隠せない。
「ああ。族長の意向らしい」
「……なぜ?」
「あんたが本物かどうか、確かめたいんだろうよ」
ギルバートは率直に言う。
「口先だけの王族か、信用できるやつなのかを見極めたいんだろ。でなきゃ、領土の自治権が認められても、すぐに取り上げられるリスクがあるだろ?――あんた次第でさ」
ジーナは少し考え込む。
これは間違いなく、望んでもいない好機だった。
早い段階で組む事ができれば――領土開拓に現実味が出る。
そうなれば、フォスター公爵に本気だと伝えられる。
彼からの支持を得られるかもしれない。
だが――
「護衛は?」
「少人数なら構わないらしい。ただし、『力を見せびらかすな』だとさ」
(……つまり、信頼を示せという事ね)
意図は理解した。
武装した大軍で行けば威圧になり、少人数で行けば信頼の証になる。
「――わかったわ。行く」
即答だった。
「おいおい、そんな簡単に決めて良いのか? 仲間と話せば――」
ギルバートが慌てて言うが、ジーナは首を横に振る。
「これは、私にしかできない事。そうでしょう?」
「……まぁ、そうだが」
「なら、行くわ。ただし――」
ジーナは視線を、遠くの護衛たちへ向けた。
その中に、アイオンの姿がある。
一瞬、言葉が詰まる。
だが、すぐに続けた。
「アイオンを連れて行く。……彼はティガル族の言葉がわかる。互いに必要な存在よね?」
その名を口にした瞬間、胸が痛んだ。
もっともらしい理由を並べながら、本当は――彼と一緒にいたいだけなのだと、自分でもわかっている。
それでも、今の自分にとって一番信頼できるのは彼だった。
「俺がアイオンに頼む予定だったんだがな。本当にいいんだな? 《《あんたが連れてくと選んで?》》」
それは確認だった。
族長が望むのは、首脳同士の会談に等しい。
立派な政治の場だ。
そこに、ジーナ自身の意思でアイオンを連れていく。
それでいいのか?という問いに、ジーナは凛として答えた。
「ええ。彼は――」
小さく息を吐く。
「唯一信頼できる、私の護衛だから」
その言葉に、嘘はない。
#
ギルバートがアイオンの元へ歩いていく。
「おい、アイオン。ちょっといいか?」
「なんですか?」
こちらを冷静に見つめていたアイオンが応じる。
「ティガル族の族長が、王女殿下に会いたいと言ってきた」
その言葉に、アイオンの表情が変わった。
「……話が早いですね、ラガは」
「ああ、良い兆候だ。……で、お前にも同行してもらいたいんだ」
「俺を?」
「その場には俺も行く。ティガル族の言葉がわかる奴が、二人は必要だろ? それに――」
ギルバートは少し声を落とす。
「王女殿下が、お前を指名した」
「……」
「断るのも自由だぜ? だが――」
ギルバートはニヤける。
「あの嬢ちゃん、お前がいないと不安そうだったぜ? 護衛はお前だし、当然来るよな?」
アイオンは何も答えず、ジーナの姿を見た。
彼女は兵士たちに指示を出している。
でも――その横顔は、どこか寂しげだった。
「……元々の仕事ですし。断られたって同行しますよ」
「そうこなくっちゃな!」
ギルバートは満足そうに肩を叩き、去っていった。
残されたアイオン。
彼は再び、ジーナの方を見る。
(……焦りすぎてないか? 王を目指すのは確かに大変だろうけど、心配だな)
ジーナの事を思いやる。
護衛としてではなく、彼女を知る一人の人間として。
アイオンは冷たく接しているのではない。
ジーナがこれ以上、周囲から小言を言われる事を防ぎたかっただけだ。
自分に口酸っぱく小言をいう存在――レアやベティの事を思い出す。
ああいった存在は必要だとは思うが、なるべくなら言われたくはないだろう。
その思いやりは、まだ彼女には伝わってはいないが――。
#
出発は昼過ぎと決まった。
準備の間、ジーナとアイオンは顔を合わせる事はなかった。
意図的に避けたわけではない。
だが、自然と距離が生まれていた。
ハルクが心配そうにジーナを見ている。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「少人数での訪問です。万が一、何かあれば――」
「そんな卑怯な真似はしないわよ」
ジーナは断言する。
視線を、準備をしているアイオンへ向ける。
「彼がいれば、大丈夫」
その言葉に、ハルクは何も言えなくなった。
(……やはり、危険だ)
王を目指す者が、一人の護衛に依存している。
それも、感情的な意味で。
だが、今それを指摘すれば――
昨夜と同じ事になる。
(……時間をかけるしかない。彼は結局は冒険者。いずれ王都から去るのだから)
ハルクは黙って頷いた。
#
太陽が昇る。
ジーナ、アイオン、ギルバート、そしてヘミングの四人が、砦を出た。
「じゃあ任せた。なにかあればすぐに知らせてくれ!」
ギルバートが振り返り、砦に残る者達に告げる。
ジーナは雪原へと足を踏み出した。
アイオンはその少し後ろを歩く。
ヘミングが先導し、ギルバートがその隣を進む。
しばらくは、沈黙が続いた。
雪を踏みしめる音だけが、静かに響いている。
やがて、ヘミングとギルバートが小声で話し始めた。
二人は意図的に距離を取り、先を歩いている。
残されたのは、ジーナとアイオンだった。
気まずい沈黙。
ジーナは何か話さなければと思いながらも、言葉を見つけられずにいた。
アイオンもまた、黙って歩いている。
意を決したジーナが口を開いた。
「……ねえ、アイオン」
「はい? どうしました?」
返ってきたのは、いつもの声だった。
その変わらなさに、ジーナはわずかに安堵する。
「ティガル族って、どんな人たちなの?」
「どんな――そうですね……」
少し考え、アイオンは答える。
「誇り高くて、一族を大切にする人たちです」
「そう……」
「それと――」
言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「新女神教と王国には、良い感情を持っていません」
「……それは、そうよね」
ジーナは小さく息を吐いた。
「私は王族。彼らを苦しめてきた側の人間よ。悪感情があって当然……」
「ええ。そうですね」
遠慮のない返答。
だが、それがアイオンらしかった。
だからこそ、今の彼女には信用できる。
「……信じてもらえるかしら?」
声が、わずかに震える。
「私が本気で、国を変えようとしているって」
「それは――」
アイオンは、はっきりと言葉を紡ぐ。
「ジーナ次第です」
「……」
「俺には、それが本心かどうかはわかりません。周囲に担がれて、そう言わざるを得なかっただけかもしれないし」
その言葉に、ジーナは視線を向ける。
アイオンは前を向いたまま、続けた。
「本当にやりたい事なら、伝わると思いますよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……信じてくれてる?)
それとも、ただの助言か。
わからない。
だが――尚更、嬉しかった。
「……怖いわ」
思わず、零れてしまった。
「拒絶されたらと思うと……」
声が、震える。
「……結局、私は弱くて臆病なままね」
沈黙。
やがて、アイオンが口を開いた。
「ジーナは――強いですよ」
「……え?」
「弱さを認められる人は、強い。俺は……それが、ずっとできなかった。……今もか」
今日初めて、アイオンがジーナを見る。
僅かに微笑んで。
「出会った頃に比べれば、随分変わりました。……俺が保証します」
その言葉に、ジーナは息を呑む。
「だから、大丈夫ですよ」
短い言葉。
だが、確かな信頼が込められていた。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「いえ」
短く返され、再び沈黙が戻る。
だが――
先ほどとは、明らかに違う沈黙だった。
ジーナは、そっとアイオンを見る。
(……やっぱり)
胸が、温かい。
(……あなたが欲しい。一緒にいてほしい)
その想いは、言葉にならないまま。
尚更強く、胸に刻まれた。
#
やがて、雪道の先に切り立った山肌が現れた。
巨大な岩壁。
雪に覆われ、人の気配は感じられない。
「……本当に、あそこに?」
ジーナが呟く。
「隠れるように暮らしてる。それも終わればいいが……」
ヘミングが応じる。
よく見ると、岩壁の中腹。
雪に半ば隠れるように、洞窟の入口があった。
小さく、目立たない。
知らなければ気づかないだろう。
「……あそこか。よし、行くぞ」
ギルバートが呟く。
ジーナは深く息を吸い、背筋を伸ばす。
不安はある。
だが、引き返す気はなかった。
「ジーナ」
後ろから、アイオンの声。
振り返ると、真剣な表情で立っている。
「……なに?」
一瞬迷い、そして――
「頑張って」
短い言葉。
だが、確かな優しさがあった。
(……わかってるのね)
胸が熱くなる。
涙をこらえ、ジーナは頷いた。
「……ありがとう」
前を向く。
(……頑張らなきゃ)
彼が信じてくれている。
だからこそ、応えたい。
深く息を吸い、ジーナは山へと歩き出した。
#
山肌に近づくにつれ、岩の冷たさが肌に伝わってくる。
雪を踏みしめながら、一行は洞窟の入口へと向かった。
近づいて初めて、入口の前に数人のティガル族が立っているのが見えた。
雪と岩の色に溶け込むように、静かに佇んでいる。その中央に、一人の少年がいた。
年齢は自分と同じくらいだろうか?
十代半ばほどに見える。
優しい瞳をしている。
黒い髪に、中性的な顔。
(……アイオンに似てる?)
ジーナの勘違いだろうか?
しかし
「……やっぱり、少しアイオンに似てるな」
ギルバートが小さく呟く。
彼は砦に囚われていた時のラガを、少しだけ見た事がある。
まじまじと見るのは初めてだが、前から思っていた様だった。
ヘミングが前に出て、何かを言う。
族長――ラガが、ゆっくりとこちらを見る。
その視線が、ジーナに向けられる。
まるで、心の奥底を覗かれているような感覚。
ジーナは、その視線から逃げなかった。まっすぐに、見返す。
しばらくの沈黙。
風が洞窟の入口を吹き抜けていく。
冷たく、鋭い風。
やがて、ラガが口を開いた。
『ようこそ、ローズレッド王国の王女様』
何を言ったかはわからない。
だが、優しい口調だった。
アイオンが、小さくジーナに耳打ちする。
「『ようこそ、姫様』と言っています」
ジーナは頷き、一歩前に出た。
「お招きいただき、ありがとうございます。ティガル族の族長、ラガ様」
アイオンがそれをそのまま伝える。
意思は、無事に通じたようだった。
アイオンの魔法なのだろうか。
ジーナは不思議に思ったが、今は思考の隅に置いておいた。
ラガは笑顔で、じっとジーナを見ていた。
同年代の二人。王女と族長。
異なる立場で向かい合う。
ラガがゆっくりと手を上げる。
それを合図に、周囲のティガル族たちが道を開けた。
洞窟の中へと続く道。
ラガが、再び何かを言う。
「『どうぞ中へ』と言ってます」
アイオンの言葉に、ジーナは息を呑んだ。
試されている事は明白だった。
ジーナは深く息を吸い、ラガの目を真っ直ぐに見つめて頷いた。
「ええ、喜んで」
ラガは小さく頷き、洞窟の中へと歩き出す。
ジーナもそれに続いた。
アイオン、ギルバート、ヘミングも後に続く。
洞窟の中は暗かった。
だが、奥からかすかに光が漏れている。
松明の明かりだろうか。
足音が洞窟の壁に反響する。
ジーナの心臓が、早鐘のように打っていた。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
後ろを歩くアイオンの気配。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
(彼がいてくれる)
そう思うと、不思議と勇気が湧いてくる。
やがて、洞窟は広い空間に開けた。
そこには、ティガル族の人々が数十人ほど集まっていた。
大人も子どもも、傷ついた人たちもいる。
湿り気を帯びた視線を向けられているのは、はっきりとわかった。
(……普通ならそうよね。色んな人の仇のはずだもの)
それでも俯かず、前を向いてラガの後に続く。
通路は思ったより長かった。
曲がりくねり、時に狭く、時に広い。
やがて、前方が開けてきた。
広い空間。
そこには松明が等間隔に灯され、洞窟内を照らしている。
そして砦で見た戦士――グラムが控えていた。
ラガが立ち止まる。
空間の中央に、簡素な木のテーブルと、いくつかの椅子が置かれていた。
ラガが手で示す。
「『座ってください』と言っています」
アイオンが小さく訳す。
ジーナは頷き、テーブルの一方に座った。
ラガが向かい側に座る。
ギルバートが、ジーナの隣に腰を下ろした。
「俺も同席させてもらうぜ。灰狼の代表としてな」
ラガはそれを見て、小さく頷く。
アイオンとヘミングは、少し離れた場所に立った。グラムもそれに習い、ラガの後ろに立つ。
通訳と立会人としての位置。
テーブルを挟んで、ジーナとギルバート、およびラガ。
三者が、向き合う形になった。
沈黙が流れる。
松明の炎が、静かに揺らめいている。
やがて、ラガがゆっくりと口を開いた。
『始める前に――ギルバートさん。ヘミングの事、ありがとうございました』
深く頭を下げるラガ。
ギルバートは照れ隠しなのか、慌てて手を振った。
空気が、わずかに和らぐ。
ラガは微笑み、ジーナに視線を向ける。
『では、始めましょうか――僕達の未来についての話し合いを』
(……ここからが、本当の戦い)
自分の想い。自分の覚悟。
それを、全て伝えなければならない。
「私は――」
ジーナが言葉を紡ぎ始め、洞窟の中にその声が静かに響いた。




