背中
アルゼンの飛空艇が、空の彼方に消えていく。
機体が夕日を反射して、きらきらと輝いていた。
やがてそれは小さな点となり、茜色の空に溶けるように消える。
長く、深い溜息が漏れた。
張り詰めていた糸が、ゆっくりと解けていく。
肩から力が抜けて、ジーナは思わずテントの支柱に手をついた。
(……終わった)
交渉は成功した。
砦の管理権を手に入れた。全員の安全も保証された。
やるべきことは、やった。
深く息を吸う。
雪原の冷たい空気が肺に染み渡る。
それが妙に心地よかった。
生きている実感。
自分がまだここにいるという実感。
そして――誰かに必要とされる喜び。
ふと、周囲を見回す。
兵士たちが砦の周辺で作業をしている。
生徒たちが集まって何か話している。
護衛達も少し離れた場所からこちらを見ていた。
でも――
(アイオン……)
一番自分を見せたい彼の姿が、見当たらない。
胸の奥がざわつく。
視線が自然と山の方へ向いた。
雪原は静かで、人影はない。
不安が、じわりと広がる。
それと同時に、別の感情も湧き上がってきた。
先ほどの会話……アイオンの言葉。
『自分を裏切る選択をしないでください』
あの真剣な眼差し。
あの沈黙。
(私は……私を裏切ってる?)
いや、違う。
これは私が決めたことだ。
――自分の選んだ道。
(兄様の態度……あの人が継いでも、結局べゼブの傀儡になるのは変わらない。ベジール兄様も、ルドバの傀儡になるだけ……)
胸が締め付けられる。
(どちらが上に立っても、国の腐敗は進み続ける。……いずれ、オルババ村にもいつか被害が出るかもしれない。そうなったら、アイオンが苦しむ事になってしまう!)
頬を両手で軽く叩く。気合を入れ直す。
まっすぐ山の方を見据えた。
無意識に、外套の端を握りしめていることに、ジーナ自身は気づいていなかった。
「ジーナ様」
背後から、優しい声がした。
振り返ると、ハルクが心配そうな顔で立っている。
「お疲れでしょう。中でお休みください」
「大丈夫よ」
ジーナは首を横に振った。
「まだアイオンが戻っていないから」
「……そうですか」
ハルクは少し困ったような表情を浮かべた。
言葉が続かない。
ハルクは何も言わず、ジーナの隣に立った。
一緒に山の方を見る。
夕日が、二人の影を長く雪原に伸ばしていた。
#
飛空艇が降り立ってから少し後。
アイオンは砦に向かい、雪を蹴りながら走っていた。
(迎えだとしても、俺を置いて行くことはないと思うけど……)
そう頭では理解していても、胸の奥に焦りが残る。
ここにいることが嫌なのではない。
この国の問題に、関わる期間が延びる。
それが何よりも嫌だった。
自分がなにかをして、それによってオルババ村に被害が及ぶかもしれない。
その可能性を考えるだけで、胸が締めつけられる。
それだけは、どうしても耐え難かった。
砦の近くまで来たところで、抑えた声がかかる。
「おい、アイオン!止まれ!」
その呼び声に気づき、即座に足を止めて振り向く。
岩陰に身を潜めていたのは、灰狼のギルバートだった。
「今行くのは得策じゃない。ここで待ってようぜ」
「生徒達の迎えが来たんじゃないんですか?」
「違う。あれはアルゼン第一王子の飛空艇だ」
ギルバートの視線を追い、空を仰ぐ。
金と赤で装飾された飛空艇が、堂々と停泊していた。
「王族の飛空艇と同じ装飾ですね……」
「さすがに専用艇を持ってるのは第一王子様って感じだな。貴重な魔道具だってのに」
ギルバートはそう言いながら、さらに距離を詰めてくる。
声を潜め、周囲を警戒する仕草だ。
「――で?ヘミングはどうした?」
「ティガル族と親交を深めてますよ。彼らに足りなかったのは、空白を埋めるための時間だ」
「……なら、うまくいきそうだな。助かったぜ」
ギルバートは肩の力を抜き、短く息を吐いた。
アイオンは疑問に思っていた事を尋ねる。
「なぜヘミングさんとティガル族を、最初から交流させなかったんです?」
「10年ぶりの里帰りなんて、どうやったって情が出るだろ?最後の最後にヘミングを出した方が効果的だと判断したんだよ。どっちのためにもな……」
言葉の端々に、経験に裏打ちされた打算が滲む。
「なら、リルさんとの交流も許すべきじゃなかったですよね?」
「……仕方ねぇだろ。惚れてた女に会いてぇなんて言われちまえば、よ。あいつがどんな思いで10年生きてたか知ってるし」
一瞬だけ、ギルバートの視線が逸れる。
「甘いんですね」
「うるせぇな……」
苦笑混じりに返しながら、ギルバートは続けた。
「ティガル族の反応見りゃわかったが、それが裏目に出たのは確かだ。だが、結果的にうまくいくんなら、こっちの問題は片付く。後はお前の王女様次第さ」
「うまくいかなかったら?」
「いろいろ考えてるよ。だが、心配はねぇさ」
ギルバートはニヤける。
「あの嬢ちゃんとアルゼンじゃ、器が違う。勝つのは嬢ちゃんさ」
#
少しして。
飛空艇はゆっくりと高度を上げ、そのまま空へと飛び立っていった。
遠目からの確認ではあったが、乗り込んだのは二人だけだった。
生徒たちも、護衛も、兵士たちも――砦に残されている。
(カイルさんは回収されなかったのか……)
ほんのわずかに、意外そうな表情を浮かべる。
だが、すぐに納得もした。
カイルは大っぴらに雇われた存在ではない。
裏で必要な時だけ使われる人間だ。
生徒や護衛は正規のルートで王都へ戻る。
結果がどうあれ、最初からそのつもりだったのだろう。
アイオンは、砦へ向かって歩き出す。
――が、その肩を掴まれた。
「まぁ、そう急ぐなよ」
「……なんですか?もう契約は果たしてるはずですが」
振り返らず、素っ気なく返す。
感情を交えない声。
それが逆にギルバートの癇に障ったのか、彼はニヤけたまま距離を詰めてくる。
「今後の話をしようや。――お前、灰狼に入れよ。十分な実力があって根性もいい。おまけに若い!ハッキリ言って、冒険者のままで終わるには勿体ない。専属冒険者になったところで、結局ギルドの犬なのは変わらねぇ……だが、傭兵団はいいぞ!腕があればどこまでものし上がっていける!団がでかくなれば、ふんぞり返ってられる!」
矢継ぎ早に言葉を重ねる。
そこには打算と現実、そして――成功体験があった。
「……」
「……興味なさそうだな」
沈黙に気づき、ギルバートは小さく息を吐く。
「――まだガキのうちはいい。夢見てられるからな。だが、いずれ世界はお前に気づく。そうなれば、自由に生きてくなんてできなくなる」
声音が、少しだけ低くなる。
警告に近い響き。
ギルバートは続ける。
「なら、利口に生きるべきだ。使われる人生より、のし上がる人生を選べよ」
真剣な眼差し。
値踏みではなく、本気の勧誘。
それを受けて――
アイオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……どいつもこいつも」
「あん?」
「俺は"今世は後悔しないように生きる"だけです。誰かの声で揺らぐほど、浅い生き方ではないと思ってますよ」
淡々とした声。
だが、その奥に、譲れない芯がある。
アイオンは視線を逸らし、ギルバートの存在ごと振り払うようにして砦へと走り出した。
その後ろ姿を、ギルバートはしばらく眺め――
そして、笑った。
「ハッハッハ!青いねぇ!――だが、楽しみでもある」
去っていく背中は、どう見ても少年だ。
まだ未完成で、未熟で、危うい。
だが――
その内に抱えている気概だけは、大人顔負けだった。
「現実に負けるか、生き方を貫くか……神のみぞ知る――かね?」
呟きながら、ギルバートも砦へと歩き出す。
思考を切り替え、次の計画へと意識を移しながら。
#
ジーナはいち早く気づく。
――想い人が、戻ってきた。
「アイオン!」
名を呼ぶより早く、身体が動いていた。
考える前に、衝動に突き動かされて。
駆け出す背中をハルクは無言で見つめている。
(……危険だな)
どんな理由があれ、王を目指すと決めたのなら――
捨てなければならない感情がある。
ハルクは理解していた。
ジーナが王を目指すと決めた理由に、平民であるアイオンの存在が大きく関わっていることを。
だが、それを口にすることはできない。
今この段階で指摘すれば、彼女は感情で押し切る。
最悪、王位継承権を破棄しかねない。
("民のために立ち上がる王女"だから、価値がある。……愛人にでもするだけならいいが、おそらくそうではない)
独占し、されること。
それをはっきりと望んでいる。
(……面倒だな)
ハルク自身、民のため、国のために新女神教の支配からの脱却を目指している。
そこに嘘はない。
同時に、その道がどれほど険しいかも理解している。
――今は、蓄える時だ。
情欲に溺れる時ではない。
(……うまくコントロールしなくては)
乙女のままで、国に抗うことなどできない。
現実を現実として受け止める。
自身の未来のためにも――。
#
駆け寄ってくるジーナの姿が、はっきりと見える。
アイオンはその瞬間、歩みを止め、冷静に膝をついた。
そして、深く頭を下げる。
「ただいま戻りました、ジーナ王女殿下」
あまりに形式的な所作。
それが、ジーナの表情を歪ませた。
理解はしている。
彼が未だに護衛役を全うするつもりなのだということは。
それでも――
「……やめてよ、そんな他人行儀な事は」
「護衛としてここにいるんです。なのに対象を置いて離れていたんです。本来は叱責されるべきです」
言葉に、感情はない。
だからこそ、余計に刺さる。
「……もういいから」
「はい」
アイオンは立ち上がる。
ジーナは一瞬だけ目を伏せ、胸の内を押し殺すように言葉を紡いだ。
「……うまくいったわ。ここの管理権を得た。後は――」
その先を遮る声。
「王女殿下」
ハルクだった。
その声色に、ジーナの眉が先ほどよりもはっきりと歪む。
「……なに?」
「失礼ながら――彼はただの護衛です。今後の事に関して話されるのはここまでにした方がいいかと」
言葉は丁寧だが、一切の遠慮がない。
「はぁ?どういう意味で言ってるの?」
「先ほどまでとは状況が違う。絵空事だった管理地獲得が成ったのです。……ここからは、より慎重に進めるべきです」
その瞬間、ジーナに明確な怒気が燃え上がる。
「彼が信用できないと?」
「そうではありません。しかし、冒険者である彼に話しては不利になることもこれからは出てくるはずです。個人的に接するのはまだ許せますが――」
「許す?」
低く、鋭い声。
「あなた、いつから私に口出しする権利を得たの?」
敵意すら感じさせる眼差しが、真正面からハルクを射抜く。
言葉を失い、睨み合う空気。
その間に、アイオンが静かに割って入った。
「ハルクさんの言う通りですよ、ジーナ王女殿下」
「……あなたまで、なにを言うの?」
「俺はただの冒険者です。これから先、王族に絡む依頼を知らずに受けるかもしれない。……その時に、あなたの敵になることもあるかもしれない」
思いもよらぬ言葉に、ジーナの声が揺れる。
「て、敵って……」
「可能性は0じゃない。……そうならないのが一番ですけど、なにがあるかわかりません。なら、知らないままの方が良い事もある」
理屈としては正しい。
だからこそ、ジーナは何も言えなくなる。
視線を落とし、唇を噛む。
アイオンはハルクへ向き直った。
「ご迷惑をおかけしました。依頼日数も残り僅かですが、護衛としてのみ動きます。なにかあれば伝えてください。常に見える位置にはいますので」
「……わかった。すまないな」
短く交わされる言葉。
それで、線は引かれた。
護衛と護衛対象。
曖昧だった線が、はっきりと。
アイオンは一礼し、他の護衛たちの元へと歩いていく。
ジーナはその背中をただ見つめていた。
名残惜しげに、夜が雪を染めていく。




