アルゼン第一王子①
砦の外、雪原に設営されたテント。
夕暮れが近づき、空はゆっくりと茜色へと沈み始めていた。
白い雪原と赤く染まる空の境目が曖昧になり、冷たい風が静かに吹き抜けていく。
ジーナは一人、寒空の下で山へと続く森を見つめていた。
視線の先には、雪に覆われた木々と、洞窟へと続く道がある。
そこから、まだ――戻るべき者の姿は見えない。
(……アイオン)
胸の奥に、言葉にできない不安がじわりと広がっていく。
理屈では大丈夫だと分かっていても、感情はそう簡単に従ってくれない。
洞窟へ向かったまま、彼はまだ戻ってきていなかった。
祈るような思いで、雪降る山を見つめる。
その指先が、無意識のうちに外套の端を強く握りしめていた。
「ジーナ様」
背後から声がかかる。
静かな、しかし確かな声だった。
振り返ると、ハルクが立っていた。
その表情には、警戒と気遣いが同時に浮かんでいる。
「どうしたの?」
「いえ……お一人でいらっしゃるので」
「平気よ。少し考え事をしていただけだから」
ジーナは小さく笑う。
だが、その笑みはどこか硬く、すぐに消えた。
ハルクはそれ以上何も言わず、黙ってジーナの隣に立った。
二人の間に、雪を踏む音と風の音だけが流れる。
「……彼が心配ですか?」
「ええ」
ジーナは素直に頷いた。
隠す理由も、誤魔化す意味もなかった。
「早く戻ってきてくれればいいのだけど……」
「……彼との関係も、ハッキリさせなくてはなりません。この先に進むためには――」
ハルクが、静かに言葉を選ぶように続ける。
「……わかってるわ」
ジーナは鈍く微笑んだ。
覚悟は、とうに決めている。
と、自分を誤魔化す。
それでも、心が追いつくとは限らない。
その時――
「ジーナ様!」
切迫した声が空気を裂いた。
マルティンが駆け寄ってくる。
その後ろには、エルネストとヘリムの姿もあった。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「空を……見てください!」
マルティンが指差す。
ジーナとハルクが同時に空を見上げる。
遠く、茜色の空の向こうに――赤い影が見えた。
「……あれは?」
ジーナが目を細める。
最初は点のようだった影が、ゆっくりと、しかし確実に大きくなっていく。
影は徐々に近づいてくる。
やがて、その輪郭がはっきりと認識できる距離まで来た。
ジーナの目が、その物体の――飛空艇の紋章を捉える。
ローズレッド王国の紋章。
そして、特徴的な金と赤の装飾。
見間違えるはずがない。
王族専用、それも――
ジーナの表情が、一瞬で凍りついた。
「アルゼン兄様の……専用飛空艇!?」
「ど、どうして!? なぜ今!?」
マルティンが慌てた声を上げる。
空気が一気に張り詰めた。
ジーナは唇を噛む。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
(なぜ……なぜこのタイミングで!?)
心臓が早鐘を打つ。
飛空艇は、まるで逃がさないと言わんばかりに、ゆっくりと砦の方へと向かってきていた。
「ジーナ様……どうしますか?」
ハルクが低い声で尋ねる。
ジーナは一度、深く息を吸った。
冷たい空気が肺を満たし、思考を強制的に整える。
「……落ち着きましょう。皆」
表情を引き締め、毅然とした声で告げる。
「動揺を見せてはダメよ。私たちは何も悪いことはしていないわ」
「は、はい!」
四人が揃って頷く。
「……王都に戻る前に、話が進められる機会ととらえましょう」
ジーナは飛空艇を見据えた。
その視線には、もはや迷いはなかった。
#
雪原に、魔力の光が広がる。
淡い光が雪面を照らし、粒子のように舞い上がった。
巨大な船体が、低い駆動音を響かせながら、ゆっくりと地面へと降り立とうとしていた。
雪が巻き上がり、冷たい風が一層強く吹く。
「ジーナ様、どうしますか!?」
マルティンが焦った声で尋ねる。
その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
ジーナは素早く周囲を見渡す。
砦の影、テントの並び、雪原に散らばる人影。
――傭兵団の姿が、すぐに視界に入った。
「ギルバート!」
ジーナが呼びかける。
その声には、迷いがなかった。
ギルバートが状況を察したように、即座に駆け寄ってくる。
「呼び捨てにされるにはまだ早い気がするが……どうした?」
「あなた達は隠れてやり過ごして」
ジーナが真剣な目で告げる。
言葉は短く、しかし強い。
「あなた達は今後私のために動いてもらうの。今、アルゼン兄様に知られるのは得策じゃないわ」
ギルバートは一瞬だけ考え込む。
だが、状況とジーナの表情を見て、すぐに答えを出した。
「――わかった。おい、隠れるぞ!」
「「了解」」
傭兵たちは即座に散開し、テントの影や砦の裏へと姿を消していく。
その動きには、場慣れした無駄のなさがあった。
ジーナは深く息を吸い、飛空艇の前へと戻る。
外套を整え、背筋を伸ばす。
降り立とうとする飛空艇を、真正面から見据えた。
(……ここからが本番ね)
心の中で、静かに呟く。
やがて、飛空艇の扉が開いた。
金属音と共に、機械的に階段が展開され、地上へと続く足場が形作られる。
そこから――二人の男が姿を現した。
一人は金髪。整った顔立ち。
豪奢な衣装に身を包み、自然と周囲を支配するような立ち振る舞い。
王位継承権第一位――アルゼン・ローズレッド。
もう一人は、中年の男。
地味な服装だが、視線や態度の端々に、貴族特有の傲慢さが滲んでいる。
アルゼンの側近――ウラギール・シクジール。
いい噂を聞かない男だと、ジーナは記憶していた。
アルゼンは砦を一瞥し、露骨に顔をしかめた。
「……なんだこれは?」
半壊した砦。
崩れ落ちた壁。
積み上がる瓦礫。
その光景を、まるで不愉快な汚れを見るような目で見下ろしている。
ゆっくりと階段を降り、ジーナの前に立つ。
ウラギールが一歩後ろに控えた。
「ジーナ。説明しろ」
その声は横柄で、完全に命令口調だった。
だが、ジーナは一歩も引かない。
「アルゼン兄様。お久しぶりです」
丁寧に、しかし毅然と頭を下げる。
「久しぶりもクソもあるか。余の砦が半壊しているではないか! どういうことだ!?」
怒声が雪原に響く。
「……申し訳ございません。砦長と副官の不正が発覚し、咎めたところ、戦闘になってしまいました」
ジーナは深く頭を下げる。
だが、その声は揺れていない。
「……戦闘だと? 余の砦で?お前達が?」
アルゼンの目が鋭くなる。
「はい。砦長ガルネスと副官が、私腹を肥やすために物資の横流しをしていたようです。更にティガル族――異民族を良からぬことに使っていました。その証拠を実地試験中に発見し問いただしたところ、この様な結果に……」
「……ふん。で、その二人は?」
「既に死亡してます。生け捕りは不可能でした」
「……使えん奴らだな!」
アルゼンは吐き捨てるように言った。
「それで? 伝令魔法が機能していなかったのはそれが理由か?」
「……砦長が細工をしていたようです。外部に漏らさぬ様にでしょう。復旧の見込みはありませんでしたので、我々の迎えが来たときに、兄様に一番に知らせようと」
「……チッ。で、お前たちは無事なのか?」
「はい。それぞれの護衛のおかげで」
ジーナが即答する。
アルゼンは不機嫌そうに周囲を見渡した。
――人影は、意図的に少ない。
「……砦の兵士は?」
「砦内で物資の確認作業をしております。使える物は使おうと。この寒さで、砦内はなにがあるかはわかりません。外で過ごすにも必要な事ですので」
「そうか」
アルゼンは短く答え、砦の地下への入口を見た。
その視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「地下を確認する。行くぞ」
「かしこまりました」
ジーナが頷く。
「ハルク、皆で――」
「他のガキは必要ない!」
アルゼンが遮る。
「ウラギール、ついて来い!」
「は、はい」
ウラギールが慌てて応じる。
「兄様……」
「いいから、さっさと行くぞ!!」
アルゼンの苛立ちが露骨に表に出る。
ジーナは一瞬だけ逡巡し、頷いた。
「……わかりました」
#
砦の中は、薄暗く荒れ果てていた。
壁には無数の亀裂が走り、天井はところどころ剥がれ落ちている。
今にも崩れそうな気配が、空気そのものに染みついていた。
瓦礫が床一面に散乱し、足を踏み入れるたびに嫌な音を立てる。
アルゼンは露骨に顔をしかめながら、地下へと続く階段を降りていく。
その背中からは、苛立ちと焦燥が隠しきれず滲み出ている。
ジーナとウラギールが、少し距離を取って後ろに続いた。
階段を降りきると、血の色が滲みついた部屋が現れる。
床に残る黒ずんだ跡。
壁にこびりついた染み。
だがアルゼンはその惨状を一瞥しただけで、何事もなかったかのように通り過ぎた。
その先――
かつて、異様な存在感を放っていたはずの空間。
「……っ!」
アルゼンが、思わず息を呑んだ。
そこには、何もなかった。
広い空間。
ただそれだけ。
かつて扉が存在していた場所には、痕跡すら残っていない。
壁も床も、最初から何もなかったかのように静まり返っている。
「……き、消えている……」
アルゼンが呟く。
声は低く、掠れていた。
「はい?」
ジーナが首を傾げる。
演技ではない、自然な反応だった。
「何か、ございましたか?」
「……いや」
アルゼンは短く答え、表情を引き締める。
動揺を悟られぬよう、意識的に視線を巡らせた。
床を確認し、壁に手を当て、天井を見上げる。
だが――何も見つからない。
空間は、ただの地下の一室に過ぎなかった。
ウラギールもまた、無言で地下を見回している。
(……持ち出した?不可能だ。しかしこれでは、元からなにもなかったかのようだ)
ウラギールは心の中で呟く。
冷静を装いながらも、内心では計算が狂ったことを悟っていた。
「……ジーナ」
「はい」
アルゼンは声を低く抑えた。
「この地下で、何か変わったことはなかったか?」
「変わったこと、ですか?」
ジーナは少し考えるように首を傾げる。
「特には……。私たちが来た時には、既にこの状態でした」
「……そうか」
アルゼンは舌打ちする。
苛立ちを隠すつもりもない。
(消えた……扉が消えた!)
心の中で、激しい動揺が渦巻く。
(あれのためにいくらかけたか?旧国の遺産が眠ると、手に入ればなんでも叶うとさえ言われていたのに……!!クソッ!べゼブ様になんと言えば……)
冷や汗が背中を流れる。
服の内側が、じっとりと濡れていく感覚があった。
「兄様?大丈夫ですか?」
ジーナが、あくまで心配そうに尋ねる。
「……なんでもない。戻るぞ」
アルゼンは強引に話を切り、踵を返す。
その動きには、明らかな焦りが混じっていた。
ジーナはその背中を、静かに見つめている。
(……やはり、兄様はここでなにが行われていたのか全て知っている)
心の中で、冷静に状況を整理する。
(なら、どうにでもなるわね……)
その表情は誰にも見せることのない、静かな確信に満ちていた。
#
地上へ戻ると、冷たい空気が一気に肺へと流れ込んできた。
地下の重苦しさとは対照的に、外は雪原の静寂に包まれている。
だが、その静けさは決して安らぎではなく、張り詰めた緊張を孕んでいた。
アルゼンは足を止め、ジーナに向き直る。
その動きは唐突で、周囲を意識している様子がはっきりと見て取れた。
「ジーナ、話がある。二人で話せる場所に案内しろ」
「はい。では、私が使っているテントに――」
ジーナが答えかけた瞬間。
「ウラギール、お前は外で待て」
有無を言わせぬ命令だった。
周囲に聞かせる必要のない話であることを、隠そうともしていない。
「かしこまりました」
ウラギールは一瞬だけ視線を伏せ、素直に頷く。
その表情には不満と諦観が入り混じっていた。
アルゼンとジーナは、並んで歩き出す。
背後で、ウラギールが立ち止まる気配がした




