怨恨の憑神 Jack その2
憎悪だか嫌悪だかが込められた怒濤の連撃を喰らい、僕は見事にコンクリート製の壁へと吹っ飛ばされた。壁に大きくヒビが走り、次第に崩落するのを肌で感じた。
「Jack・・・・・お前じゃ、駄目なんだよ。お前じゃあ、燦士郎を苦しめるだけなんだ──!」
僕は呼吸するのも精一杯な身のままに思いの丈を叫ぶ。
わかっている。
本来ならば、僕がとやかく言えた立場ではないのだ。
憑神と向き合うのは燦士郎自身だとしても、その苦しみに、僕はつい先程まで気づくことすらできなかった。
この戦いには最早、何も無い。
結末なんてない。
そこには善も悪も、白も黒も、正も負もないのだから。
誰の味方、何の味方というわけでもなく。
強いて言うなら、"ものの見方"。
「うるせえッ、黙れェェェェ!!」
Jackは激昂していた。
その憤怒の輝きを放つ巨大なメスを、既に動けなくなっている僕の身体に突き立てる。
「がはッ・・・・・──!!」
先程破壊されたコンクリートの壁を想起させるように、僕の身体が無数に裂ける。
そこから夥しい量の血液が噴出した。
口から漏れていた空気は、いつの間にやら生々しく赤黒い色をした液体に変わっている。
「黙れ、黙れ、黙れェッ!!!お前が下手に口を出したから!!首を突っ込んだから!!手を出したから!!我が主は駄目になったんだよッ!!!テメェの偽善性にムカついて仕方がねえんだ!!」
Jackは叫びながら、僕に何度もナイフを突き立てる。
グチャグチャと音を立てながら、血は無限に沸き上がり、肉片は生き物のように蠢いていた。
未だにギリギリのところで、再生能力が働こうとしているのであろう。
いやしかし、もう既に──。
それは葦継 燦士郎の声になっている。
" 彼 は 、 泣 い て い た 。 "
「迷惑なんだよ、邪魔なんだよ!!クソみてえな正義だの優しさだのを振りかざしやがってッ、それで他人を振り回しやがってェッ!!」
・・・・・・・・・。
なんでだよ。
なんでだ。
なんでそんな酷いことを言うんだ、燦士郎──。
お前、言ってたじゃん。
「悪口は」
「ッ!!」
突如声を発した僕に対して、Jackはまるで異形の怪物でも見つめるような、そんな悍ましさを心の底から嫌悪し、忌避するような眼差しを向ける。
「悪口は、人を傷つけるんじゃあなかったのかよ──。・・・・葦継 燦士郎・・・・・ッ。」
多分、僕も涙を流していたように思う。
ひどく悲しくて、辛くて。
全身が濡れていたけれど、それは最早涙なのか血なのか、判別がつく状態だとは思わなかった。
「もう相当傷ついちまったけどな・・・・心じゃなくて、身体の方がさ。それでも、心をズタズタに切り裂かれ、ボロボロに引きちぎられたお前を思えば、弱音を吐いてなんかいられねえんだよ・・・。」
僕は言う。
「それでいいんだ。最初みたいに、自分の抱えた闇をひた隠しにしているよりは、こうしてぶつけてくれた方が、ずっと良い。だけどさあ・・・・・。」
「お前を一番心配してくれたのは、僕じゃなくて、柿本だろうがよッ──。それは、その優しさは、彼女の正義は・・・・!」
無駄じゃないだろう。
無下にしちゃ、駄目だろう──!!
「──フン」
燦士郎は鼻を鳴らす。
嘲笑のソレだ。
「今となっては知ったことかよ、あの女のことなんて──。あの穢れた想いを押し付けられるだけ、うざったくて仕方がなかったぜ──」
・・・・・・・・・・。
突如声が響く。
誰の発した声だろうか?
いや──解っている。
僕の脳内に、その声は響く。
むしろ、それはもう、"僕の発した声"として認識した方が正しいだろう。
『殺シテヤル』
瞬きするにも満たないほどの速度で、僕の背後から──と言っても、僕は壁面に身体を打ちつけられていて動けなかったから、その背後に何かがあるわけでもないのだが、とにかく背後から、"ソイツ"が飛び出した。
「──!?」
煌々と朱色に輝く"狐"である。
もちろん本物ではないだろうけれど・・・・・とにかく正体不明の狐は、滑らかな曲線を描く大きな尾を揺らしながら、燦士郎の身体からJackのみを引き剥がし、ソレを喰い荒らしていた。
「ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────────────ッ!!!!」
地獄の業火に焼かれたような、Jackの叫び声が周囲に響く。
それは声にもならないような声で、およそ叫びとも言えないような叫びだったが、とにかくそこには悲鳴が反響していた。
僕は唖然として動けなかった。
何なんだ、こいつ?
脳裏を過ぎるその声は、依然として響き続ける。
「私の惰眠を邪魔するなよ、人間──。しかしまあ、お前の気持ちも分からんでもない。あのツンデレ少女の抱える事情を鑑みれば、お前の怒りも致し方ない事だ。むしろ尤もだろうに。」
爽やかで大人びた、若い男性の声だった。
柿本をツンデレ少女と容易に呼称したことは最早気にしないけれど──その事情。
元から人の善意を、優しさを、つまりは"想い"を拒み続けてきた彼女。
僕と一悶着あって、それは結局解消されたけれど、人に思いを伝えることくらい、それこそ人並みに出来るようになったけれど──実際のところ、未だに怖いはずなのだ。
それでも、彼女は本気で燦士郎が心配だった。
だから意を決して、最初に出会った、傷まみれ泥まみれ、怪我だらけの少年に声をかけたのだろう。
僕はそれを、どこか無自覚、或いは無意識に理解していた。
そうしてその想いを──柿本 永音が伝えようとした想いを、拒絶でも何でもなく、あっさりと無下にしてしまった目の前の憑神に対して。
僕は今、はっきりと" 殺 意 "を感じた。
「お前は何なんだ──狐。」
僕は自分の心に問う。
「私の名前か?それならまだ無い。──む、夏目漱石の代表的な文学作品みたいなことを言ってしまったが・・・それは猫だったかな。まあなんでも良いだろう。さて、" 私 が 何 者 か "。その問いに答えるのはやぶさかでないけれど、今はまだその時ではない。」
そこで狐は、恐るべき、そして驚くべきことを言った。
「強いて言うなら、お前の心に棲む憑神だよ。」
とりあえずそうとだけ言っておく、と。
そう言い残し、その声は途絶えた。
僕の心に──憑神、だと?
朱色の狐は、ナイフを放り出しもがき苦しむ鬼を喰らい尽くして──骨の髄まで、全て喰らい尽くしてから、未だに動けずにいる僕の身体に擦り寄った。
ペットの動物が、飼い主に対して愛情表現でするみたいに。
身体を擦り寄せて、そうして、僕の影へと溶け込んでいった。
──こうして、最強にして最凶にして最狂の憑神・・・・・・ナイフ使いの鬼、Jack the ripperは、この世から、いや、おそらくあの世からも、跡形も無く消滅した。
塵芥すらも残さない。
その狐の獣らしい食いっぷりに、僕はただ、驚愕するばかりだった。
身体は既に、完全に回復し終えていた。




