感情の潰えた青年 その5
病人のように青白い黒矢の手に力がこもる。
首を絞められている佐渡山さんは、苦しそうに踠いていて、必死にその悪魔の手を振りほどこうとしていた。
「ぐうぅ………っ…!」
佐渡山さんの苦痛を伴う声(それは恐らく叫び声なのだろうけれど、叫びと形容できるほどの声量は当然ながら出ない)が僕の耳を劈く。
「おい、黒矢ッ!!」
僕はそこへ駆け寄り、無理矢理でも互いを引き剥がそうと試みたのだが、その目論見も黒矢の一言に制止されてしまう。
「うるさいなァ鎌田、引っ込んでろ…。自覚しろ、そして弁えろよ。怪物に何が出来る?これは人間だからできる荒業だよ、或いは俺だからできる荒業だ。」
普段の黒矢らしくない。いつもと同じく冷淡な声の調子ではあったが、それでも平坦なトーンではなかった。そこには少なからず、怨恨と言うべきか、憤怒と言うべきか…はたまた憎悪か嫌悪か、よく分からない何かが渦巻いていた。
もう"怪物"なんて呼ぶんじゃねえよ、クソッ──!
その呼称が恐ろしくて、現実逃避にも似た感情に身を委ねたままに黒矢の制止を無視する。
僕は佐渡山さんの首をきつく絞めあげる蒼白な両手を強引に引き剥がし、黒矢を押し退けて互いに距離をとる。
だがそいつは動じなかった。僕を無言で睨みつけながら、何も言わずにそこに立っている。
不動の寡黙だ。
しばらく沈黙が続いていた。この時は僕も冷静じゃないままに行動し、昂った感情をセーブする為に静かにそこに佇んでいたが、やがてすぐにその沈黙も破られる事となる。
佐渡山さん本人によってだ。
いや、それは佐渡山さんとは言い難い。
佐渡山さんであって、佐渡山さんではないもの。
何者かであって、何者でもない。
どこにでもいて、どこにもいない。
「う……あァ……アアあ…あァア…あっアァ…あ、あ──ッ」
「!?」
この世のものとは到底思えない異形の呻き声のようなものが僕の背後から上がった。
それに驚愕した僕は即座に後ろを振り向くわけだが、時既に遅し。
佐渡山さんは横たわったまま、白目をひん剥いてびくびくと痙攣している。額には脂汗を浮かべていて、顔色は病人のそれだった。
そして何より奇怪なのが──佐渡山さんの口から、"何者かの手が出ている"ということであった。
僕の首筋をなぞるかのように、冷や汗が流れ落ちる。ガタガタと音を立てながら歯を打ち鳴らしてしまっていて、佐渡山に負けじと僕は身を震わせていた。
恐怖。
初めてマンイーターと対峙した時と同等、或いはそれ以上の恐怖──。
あの時は奇想天外すぎる状況に、一周回って寧ろ妙に冷静なところがあったけれど、今回は憑神のことを"知っている"から・・・"認識している"から、異常なまでの恐怖が僕の身を襲った。
"知らない"は怖い事ではあるが、"知っている"も恐い事と成りえたのだ。
無知が罪だと言うのならば、知りすぎた僕は罰を受ける身であるのだろう。
ともかく恐ろしく強大な腕だけが、そこでのたうち回っていた。
その手は巨大な爪を持っていて、至る所に剛毛が生えていて──。
それはまるで、"獣"のようであった。
あー。
分かってるよ。
『人喰い』も『不知火』も『宵闇』も少なからず衝撃を受けたけど・・・。
さすがにもう慣れたかな。
誤魔化すように、僕は無理矢理にでも自分に言い聞かせようとしていた。
意識を失った佐渡山さんの口からは、異形の大きな手がズルズルと這い回るように出てきて、有り得ないほどに暴れ狂っていた。
有り得ないほどに、有り得ない。
有り得ないものは──怖い。
すると突如、黒矢は常に羽織っている特徴的な黒いスーツを脱いでそこへ近寄った。ネクタイを締めたままの、白いワイシャツ姿だ。
緊張とか慌てふためく様子とかを感じさせずに、ゆっくりと歩いて近寄ってきたのだ。
「だから言ったろう。これは俺だから出来る荒業なのだ──。憑神は心に棲みつく。ならば心とは言わずとも、意識を一時的に途絶えさせてしまえば、そいつはそこから出てくるしかないんだよ。・・・ったく、中途半端に始めやがって」
と、僕にそう言った。
「・・・? 何を言っているんだ、黒矢──?」
「中途半端に始めやがって、と言ったんだよ。中途半端に終わらせたわけじゃねえんだ…。むしろまだ序章、ここからが正念場だ。今はまだ、裏方の俺が舞台設定をしているに過ぎない。」
言葉の細かい意味までは分からなくても、その一言は僕を戦慄させるには充分すぎるほどだった。
つまり、黒矢の次の一言を予測するとすれば──。
『憑神退治ノ主役ハ、御前ト佐渡山ノ二人ダロウガ。後ハ任セルゾ。』
・・・・!
黒矢はやれやれと言った様子で軽く溜息をつきながら、佐渡山さんの口から出でたその獣の腕をへし折った。
バキリ、と。
鈍痛を想起させる音を立てて、どんどんそれは折り畳まれる。
まるで主婦が手際良く服を畳み整頓するかの如しで、瞬く間にそれは原型を留めぬままに破壊し尽くされていた。
するとその腕は、不知火の消滅と同じように塵芥と化し、黒煙のように消えていった。
先程まで痙攣していた佐渡山さんの身体はピタリと大人しくなり、瞼を閉じて眠りについていた。
その様相と言えば、まるで悪夢に魘される子供のようで非常に苦しそうではあったのだが。
僕の部屋に、再度沈黙が響く。




