感情の潰えた青年 その4
気がつけば、雨はあがっていた。
ゴシゴシと青いタオルで佐渡山さんは濡れた髪の毛や服を拭きながら、黒矢と僕に向き直る。
いや、僕はまだ面識があるけど、佐渡山さんから見ればどうなのだろう、黒矢は不審者に見えてもおかしくないような──?
「あの、これ」
と言って、佐渡山さんは高級そうなクッキー缶の入った紙袋をテーブルに置いた。僕の側にいる謎の男は意に介さずという感じであった。
「あ、ありがとうございます。それでも、わざわざこんなことしなくても良かったのに?」
僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。お礼と言ったって、佐渡山さんが倒れてしまったので大慌てしながら近くの教員を呼んだだけなのだ。
ほとんど何もしていないに等しい。
「いや…そういうわけには、いかない」
彼にしては珍しく、確固たる意志を漠然とではあるが感じさせるような物言いで、はっきりとそう言い切った。僕がその変化に戸惑うあまりに二の句が継げずにいると、黒矢が突然口を開いた。
「なあ──お前…佐渡山とか言ったな?お前が発作を起こして学校で倒れて、それからお前の保護者はどうした?」
初対面の人間に対して礼儀礼節、作法なんて弁える気はこの男にはない。まさしく傲岸不遜を絵に描いたような人間だった。たとえゴッホだろうとダ・ヴィンチだろうと、ここまで正確に描くことは不可能…。
というより保護者の話題は、彼の琴線に触れるのではなかろうかと僕が最も懸念していた話なのに、こいつは平気の平左でそれを聞き出そうとした。
「おい、黒矢」
僕は小声で隣の男へ呼びかける。
態度はともかく(?)として、その話題はもう少し先でもいいだろう、単刀直入すぎる──と、そう言ったつもりだった。
いや、たしかに言ったが。
言ったのだが、黒矢はそれを呆気なく無視してみせた。
「どうなんだ?答えろよ、お前の親は────。」
黒矢はいつにもなく柄にもなくニヤニヤしながら、実に愉快そうに質問を続ける。
しかし、突如。
その声は遮られる。
「うるさい、黙れ」
雰囲気のも相俟って他に雑音のない、閑静な僕の部屋にそんな声が響き渡った。彼の特徴のひとつである、透き通った綺麗な声である。
怒鳴ったわけでも叫んだわけでもない。
彼は──佐渡山 幾郎は、ただ何に向かって言うでもなく、独り言のように、たった一言そう呟いた。
それはとても静かな声で。
「え────。」
「・・・・・・・・・・。」
僕は驚嘆のあまり僅かに声を上げてしまった。その一方、黒矢は無表情で黙っていた。しかし僕にはわかる、こいつは今「狙い通り」という顔をしている。
「僕は幼い頃に親に捨てられた。その後に親戚に引き取られ、衣食住の面倒を見てもらった。だから僕は親のことなんて全く記憶にないし、皆が持っているものを持っていないから・・・・・"当たり前"が無いから、それで虐められたこともあった。でもそれがどうした?今どきじゃあ大して珍しくなんかない、よくある話だ。不幸自慢にもなりゃしない。」
普段のゆっくりした口調はどこかへ消え、まくし立てるような剣幕で黒矢に向かって佐渡山さんはそう言った。しかしながら黒矢だって、ここで怯むなんてことはない。彼が発言に区切りをつけたのを確認してから反論した。
「当然だ。俺はお前の不幸自慢を聞きに来たのではないのだからな。その程度で不幸だとか不条理だとか、不可解なものだとかを背負った気になるな。この世に不思議が無いのと同様、元来そんなものは存在しない。世間体に心を委ねるな。」
どうだろう。
黒矢の言ったことは正しいのかもしれない。
僕に否定する術はない。
しかし親に捨てられたというのは、それだけで本人からすれば残酷な事情だ。普通ではない。
佐渡山さん本人は「大したことではない」なんて言い切ったけれど、それは本心なわけがない。
本心を、表さない。
遠い昔に感情を潰された青年は、感情を表す事そのものを知らないのだ。
或いは、しないだけかもしれないけれど。
だからって・・・・だからって!
どうして"そんなこと"を言うんだ?
何故"その程度"だなんて言っちまうんだ、黒矢 昴──!
何故"よくある話"なんて言っちまうんだ、佐渡山さん──!
「おい、黒矢、その言い方は少し──」
少し?
否、少しではないが、なるべくマイルドな言い方で黒矢を叱責しようとした。
だが黒矢は僕の前に片手を軽く挙げて、僕の発言を遮る。
「佐渡山、お前だって薄々気づいているんだろう?薄々じゃあなくて、はっきり勘づいているのかもしれないが──何にせよ、お前の心は"普通じゃない"。」
異常だよ、と。
黒矢は佐渡山を睨みながら言った。
目つきが悪いとかそんなのは関係なく、この際はおそらく本気で彼を睨んでいたのであろう。
「なあに、俺はお前をとって食おうってんじゃあねえんだよ──。安心しろ、お前に憑いている化物を、これから祓ってやると言っているんだ」
そう言って、黒矢は立ち上がる。
しかし次の瞬間には、彼は驚くべき、というより慄くべき行動に出た。
黒矢はゆっくりと長い腕を動かし、目の前にいる佐渡山さんの細く白い首に手をかけたのだ。
──その手には、力が入る。




