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緩んだ蓋  作者: 橘 塔子
3/3

其の三

 零時を過ぎてベッドに入った僕は、いつも以上に寝つけなかった。神経が高ぶって、布団の中で身体を丸めても動悸が収まらない。

 何で僕がこんな目に……元はと言えば真衣まいが悪いんじゃないか。

 一緒に暮らしているのに全然僕に気を遣わなかった。僕がどんなに怒りを堪えていたが、知りもしなかった。殺してしまったのは悪かったと思うけれど、それは結果であって、僕にだってストレスを吐き出す権利くらいあるはずだ。


「……僕ばかり我慢するなんて不公平だ」


 真衣が生きていた時に言ってやりたかった言葉を、僕は暗闇に向かって呟いた。


「我慢してたの、智之ともゆきだけだと思う?」


 聞き慣れた声が耳元をくすぐった。ダブルベッドの空いた半分のマットレスが、急に沈み込むのを感じる。

 背筋を氷が滑っていく。全身に鳥肌が立って、僕はきつく瞼を閉じた。見るな、見るな。


「あなたっていっつも自分のことばっかり。私だって結構我慢してたんだよ。知らなかった?」

「な……何を我慢してたんだよ?」


 会話なんかしちゃ駄目だ、と分かっているのに、僕は隣にいるモノに訊いた。目は開けられない。


「寝起きが悪くておはようって言っても返事がないのとか、ご飯の時にいつまでもスマホいじってるのとか、私が好きな映画をボロクソけなすこととか……ああ、あとね、靴紐の結び方に納得できるまで玄関を動かないところ。私が待ってるのに」


 ケラケラと乾いた笑い声が明るく響く。まるで、愛し合った後に他愛ない会話で大笑いした、あの幸せな時期と同じだ。

 僕は激しく動揺した。こんなのは幻聴だ。本気にするんじゃない。真衣が何を考えてたかなんて、今さら分かる訳がないじゃないか。

 それが起き上がる気配がした。布団が擦れる音がして、ベッドがわずかに軋む。


「それでも私、一緒に暮らしてるんだからお互いに妥協しなくちゃって思ってたのよ。イラッときても智之のいいところをいっぱい思い出して、許してた。でも、智之は違ったんだね」

「恨み言はいい加減にしてくれよっ……! 何だよ真衣! 何なんだよ! 嫌がらせか!?」


 顔を背けて両耳を塞ぎ、僕は怒鳴った。怒りの感情に縋って正気を保とうとした。

 彼女を見たくない。消えろ。何でもするから早く消えてくれ。


「さっさと消えろよ、このずぼら! 悪かったって土下座して謝ればいいのかよ!?」


 くすっと笑う吐息が顔にかかった。


「私怒ってないよ? だって智之、私がいなくなって寂しがってくれてるじゃない」

「さ、寂しがってなんか……」

「だったらどうして、そんなことしてるの?」


 最後の一言にはからかうような響きがあった。


 次の瞬間、冷気の塊がふわっと顔にぶつかって、僕は覚醒した。

 眠っていたのか、と気づく前に、自分の置かれた状況に唖然とする。


 僕はキッチンで、開いた冷蔵庫の前に立っていた。左手にミネラルウォーターのボトルを持って、左手をそのキャップに掛けたところだった。寝る前に念入りに締め直したペットボトルのキャップだ。

 それを僕は、今まさに緩めようとしていた。


 驚いて手を離し、振り返ると、カウンターの上にはジュースやマヨネーズや練りワサビや、冷蔵庫に入っていたあらゆる瓶とチューブが放り出されていた。すべて半端に蓋が開いている。


「はは……嘘だろ……」


 ダイニングキッチンから見えるリビングにはすでに朝日が差し込んでいて、雑然と散らかった状況が容赦なく照らし出されている。真衣がここで生活していた頃と同じく――おはよう、と今にも彼女が出てきそうな。

 僕が頭を掻き毟ったのは、そこで今しがたまで自分がやっていた行為が、徐々に脳裏に甦ってきたからだ。


 ぴったりと締め切った遮光カーテンを開き、テーブルの上に新聞を広げ、ラグの端を捲り上げ、ソファのクッションを床に投げ捨て、玄関から赤いスリッパを持ってきて――その惨状を作り上げたのは、他の誰でもなく、僕自身だった。

 これまでの異変も、つまりは全部僕がやったことだったのだ。

 神経質に部屋を片付けたそのすぐ後で、物の置き場所をずらし抽斗を開ける自分の姿が見え、記憶と重なった。


 僕は無意識に、真衣がいた頃の日常を再現しようとしていた。それを都合よく忘れては苛立っていた。



「……馬鹿みたいだ」


 呆然と立ち尽くす僕の脇腹を掠めて、背後からするりと白いものが伸びてきた。

 ぶよぶよに膨らんだ二本の腕。溶けかけた麩菓子のようなそれが僕の胴を抱き締め、背中にずしりと重みが圧し掛かった。僕を驚かそうと、真衣がよくやっていた抱擁だ。


「私がいなくて寂しかったんだね。嬉しいな」


 背中に取りついたモノは楽しげに笑った。皮膚が破れて骨が見える左手の薬指には、銀色の指輪が光っている。


「待っていてね。もうすぐ私、帰ってくるから」


 背中はどんどん重くなる。パジャマの生地に腐った水が染み込んでくる。

 僕は重みに耐えかねて膝を下り、その場に倒れ込んだ。弾みでカウンターから蓋の揺るんだペットボトルが落下して、トマトジュースがぶちまけられる。あの夜と同じに。





 ピンポーン、と間の抜けた音が響いた。

 それが合図のように呪縛が解ける。圧し掛かる重みが消え、水もなくなった。顔を捻じ曲げて背後を見たが、誰もいない。

 何のことはない、玄関チャイムだった。インターフォンのモニターに人影が映っている。

 僕はふらふらと立ち上がり、受話器を取った。

 広角レンズに映し出された二人の男は、目つきが奇妙にぎょろついて見えた。彼らは警察官だと名乗ったが、捜索願を受理した窓口の担当者とは違っていた。


「朝早くにすいません、野間口のまぐちさん。婚約者の村本むらもと真衣さんのことでちょっとお話が……」


 ごく平坦な声に、僕はある予感を抱いた。足先からむず痒さがざわざわと駆け上がってくる。不安のようでも期待のようでもあった。

 玄関ドアを開けると、入ってきた二人はそれぞれに警察バッジを提示した。しかしその目は鋭く僕と室内を観察している――ように思えた。


「真衣さんらしきご遺体が見つかりました」


 年嵩としかさの方の捜査官にそう告げられ、予想通りとはいえ、頬の筋肉が強張るのを感じた。


「……どこ、で……?」


 喉に貼りつく声で質問するのが精一杯だった。捜査官はズボンのポケットから手帳を出して、ページを捲りつつ、


「S湖はご存じですかね? ここから車でまあ二時間くらいの、山奥のダム湖なんですが、一昨日、身元不明の遺体が浮かびましてね。だいぶその、時間が経っていて損傷が激しかったんですが、左手の指に指輪が嵌められていて、内側にローマ字でお名前が」


 付き合い初めの頃、僕がプレゼントしたものだ。こういうの憧れてたの、とはしゃぐ真衣のノリに釣られて『TOMO to MAI』という文字を刻印した。あの時、それは確かに目に入っていたはずなのに、外すという機転は利かなかった。

 警察は行方不明者リストから該当する名前を探し、歯の治療記録から村本真衣を割り出した。真衣の両親も連絡を受けて昼の飛行機でやってくるという。そうなればDNA鑑定で身元が完全に特定されるだろう。


「真衣さんがいなくなった時、ええと、白いスーツケースが一個紛失していたと報告書にはありますが、間違いありませんかね?」

「は、はい……以前から彼女が使っていたもので……」

「付近の湖底から蓋の開いたスーツケースが見つかりまして。おそらく遺体が入っていたものでしょうな。一緒に石が詰められてました。残念ですが、状況からして何か事件に巻き込まれたのは疑いようがありません」


 彼は手帳から目を上げて僕を見た。若い方の刑事は最初から押し黙ったままだ。

 自分がどんな顔をしているのか想像したくもなかった。鼓膜の奥でぐわんぐわんと耳鳴りがして、泥酔した時に似ていた。

 大丈夫ですか、と形式的な気遣いの言葉を掛けてから、彼は続けた。


「……スーツケースのロックが壊れて、()()()()いたようですな。遺体が中で膨張して蓋を押し開けて、こう水面に浮かび上がってきたと」

「蓋が……緩んで……」


 暗く深い水底で、あの古いスーツケースの蓋が持ち上がる場面を、僕は想像した。中から風船のように膨らんだ腕がぼてりと現れる。ふやけた指には銀色の指輪が食い込んでいる。

 鍵が壊れてたの気づかなかったわ、ごめんごめん――よく知る女の水死体が、そう言って笑う。酷くなる耳鳴りは、水の中の音に似ていた。


「本日は取り急ぎのご報告のみで失礼します」


 若い捜査官が初めて口を利いて、妙に丁寧な仕草で名刺を差し出した。


「遺体が真衣さんだと確定したら、失踪当時の状況について、野間口さんには詳しくお話を伺うことになると思います。その際にはご協力をよろしくお願いいたします」


 名刺を受け取る手の震えを取り繕う余裕はなかった。指だけなく、背筋も脚も震えている。それは恐怖のためではなく、可笑しさのためだった。


 まったく真衣らしいよ。最期の最期まで僕をイラつかせてくれる。本当に大雑把でずぼらで無神経で――。


 僕の挙動を不審げに眺めつつも、僕の携帯番号と職場の連絡先を確認してから、二人は引き上げて行った。


 彼らはとっくに僕を疑っているはずだ。真衣はパジャマ姿で自分のスーツケースに詰められていたのだから、この部屋から拉致されたと考えるのが自然だろう。きっと頭の傷もバレている。そうなったらこの部屋も捜査される。素人が拭き取った血痕を彼らは見逃さない。ああそれに自動車のことも。マンションの駐車場にカメラがないのは確認済みだが、ダム湖に向かう途中のNシステムは意識していなかった。

 どう考えても追い詰められるのは時間の問題だ。にも拘らず、僕の気持ちは不思議と穏やかだった。


 日常を乱していた異変の正体も、未練がましい自分の本心にも気づいた。

 気に入らなければ人でも物でもすぐに『片付け』て生活から排除するくせに、後で惜しくなってその不在を悔やむ。しかもそんな後悔を決して認めようとしない。狭量でプライドばかり高くて、本当に最低だ。


 ああそうか、と僕はようやく気づく。

 大雑把な性格だったからこそ、真衣、君はこんな最低な男と暮らせたんだね。


 ありがとうと口に出すと、朝日の差し込む散らかった部屋のどこかで、嬉しそうな笑い声が響いた。




              ―了-

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