第9話 料理が紡ぐ温かな居場所
カーテンの隙間から差し込む柔らかい朝陽が、最上階のゲストルームのシルク調のシーツを優しく撫でる。
昨夜の泥沼のような絶望と疲労が嘘のように、身体は驚くほど軽かった。
心地よい目覚めを感じながら、ふかふかのマットレスの上で深く伸びをする。
世間から追放され、すべてを失ったはずの自分が、いまやこんな非現実的な贅沢な空間に守られている。
昨日の出来事がまるで夢のようにも思えたが、部屋に漂う上質なウッディの香りと、窓の外に広がる澄み切った青空が、これがまぎれもない現実であることを教えてくれていた。
洗面所で軽く顔を洗ってから廊下を進む。
ふんわりと漂ってきた香ばしい匂いに引き寄せられるように、空は広いリビングへと足を踏み入れた。
「あ、空君、おはよう!」
真っ先に声をかけてくれたのは、制服姿の玲那さんだった。
彼女の傍らには、桐乃さんと、どこか気まずそうに頭を掻く凛ちゃんの姿がある。
「おはようございます、皆さん」
俺がダイニングテーブルに近づくと、そこにはなんとも言えない惨状が広がっていた。
プレートの上には、見事に真っ黒焦げになったトーストと、形が崩れ、黄身までカチカチに固まった目玉焼きが無惨に鎮座している。
「いやぁ、おはよー……って、うわっ、何この香ばしい匂い……」
そこに、遅れて寝ぼけ眼をこすりながら爽花さんがリビングにフラフラと現れた。
彼女は相変わらずの『働いたら負け』のネタTシャツ姿で、ぼさぼさの髪を掻きながら焦げたトーストをじっと見つめる。
「あ、爽花お姉ちゃん、おはよう! えっとね、今日の朝食は私が張り切って作ろうとしたんだけど……なんか、火加減を間違えちゃって……」
凛ちゃんが頬を赤らめ、申し訳なさそうにペロリと舌を出した。
どうやら今日の朝食担当は彼女だったらしいが、その結果がこの黒焦げのトーストと目玉焼きというわけだ。
「ふう……。実はね、私たち逢沢家の四姉妹は、揃いも揃って致命的に料理が苦手なのよ。普段は外食かデリバリーで済ませることが多いんだけど、今日は空君の歓迎の意味も込めて凛が頑張ってみたのだけれど……この有様よ」
桐乃が苦笑いしながら、トングで真っ黒なトーストをつまみ上げた。
その微笑ましい失敗の光景を見て、俺は思わず小さく吹き出した。昨夜までの張り詰めた緊張感が、この穏やかな朝の空気に溶けていくのを感じる。
「あの……それじゃあ、よかったら俺が作りましょうか?」
空が控えめに提案すると、リビングにいた四人の視線が一斉に釘付けになった。
「えっ? 空君って、料理ができるの?」
玲那さんが目を丸くして驚きの声をあげる。
「うん、まあ、一通りなら。実は、七歳の頃に両親が離婚して母親が家を出て行ってからは、父親も仕事で忙しかったから、俺が料理を覚えて毎日朝食と夕食を用意していたんだ。だから大抵のものなら作れるよ」
サラリと言った言葉に、四姉妹は一瞬言葉を失い、慮るように目を細めた。
「そっか……空君も、色々と苦労してきたのね……。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。ぜひ、お願いしようかしら」
「やったー! 空お兄ちゃんの特製朝食だ!」
桐乃さんが頼み、凛ちゃんがパッと顔を輝かせる。
俺はエプロンを受け取ると、キッチンの前に立った。
包丁を手に取り、冷蔵庫から手際よく食材を取り出す。
焦げたトーストと目玉焼きの代わりに、俺はベーコン、レタス、卵、そして昨夜の残り野菜を使って、あっという間に見事なホットサンドとスープを仕上げてみせた。
「お待たせしました。どうぞ」
テーブルに並べられた温かな朝食を見た瞬間、四姉妹から「わぁ……!」と歓声が上がった。
香ばしく焼き上げられたホットサンドからはチーズがとろりと溶け出し、コンソメスープの優しい香りがリビングいっぱいに広がる。
「いただきます!」
全員が一口頬張ると、目を見開いた。
「んんっ! 美味しいっ! カリッとしたパンとチーズのとろけ具合が最高だよ、空君!」
「本当だわ……お店で食べるモーニングセットみたい。料理の腕前までプロ級なのね」
「美味しい……朝からこんな贅沢なものが食べられるなんて幸せ……」
「空お兄ちゃん、すごすぎる! お嫁さんにしたいレベルだよ!」
四者四様の絶賛の嵐に、俺は少し照れくさそうに頬を掻いた。
料理を褒められることなど久しぶりだったため、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
失われた日常の代わりに、新しい、そして何倍も温かな日常がここにあるのだと実感する瞬間だった。
§
朝食を美味しく平らげた後、本日のスケジュールが決定した。
午前中は四姉妹と一緒に街へと繰り出し、俺の新しい生活に必要な品々を揃えることになったのだ。
最上階のエントランスを出て、まずは駅前の大型キャリアショップへと向かう。
父親に管理されていた古いスマホとはお別れだ。
桐乃さんがスッとスマートに自身のクレジットカードを差し出し、最新型のスマートフォンを契約してくれた。
続いて向かったのは、街の裏通りにひっそりと佇む、プロのアーティストも通うという老舗の行きつけ画材店だった。
「さあ、空君。遠慮しないでください。必要なものは何でも選んでいいですよ」
爽花さんに促され、俺は美術用品の並ぶ棚の前に立った。色とりどりのアクリル絵の具、最高級のコリンスキー筆、キャンバス、そしてスケッチブックの数々。
そして、その一角には、漫画家やイラストレーターが愛用するプロ仕様の大型液晶ペンタブレットが展示されていた。
「これ……液タブ、いいんですか?」
空が恐る恐る尋ねると、玲那さんがニッコリと微笑んでうなずいた。
「もちろん! デジタルでのイラスト制作もこれからの時代は絶対必要でしょ? 遠慮しないで一番いいやつを選んで」
結局、厳選された画材一式に加え、最上位モデルの液晶ペンタブレットまで、桐乃さんのカードですべて一括購入してもらうことになった。
総額に換算すればかなりの高額になるはずだが、彼女たちは「命の恩人に対する対価としては安すぎる」と笑って受け流してくれた。
買い物袋や大きな機材の箱を桐乃さんの車に積み込み、タワーマンションへと戻ったのは昼下がりだった。
最上階の部屋に荷物を運び入れた後、今度は地下のテナントとして入っている高級スーパーへと買い出しに出かける。夜の夕食の食材を調達するためだ。
「ねえ、空君。今夜は何が食べたい?」
カートを押しながら、玲那さんが楽しそうに尋ねる。
「そうだね……皆のリクエストを聞くよ。何がいい?」
「うーん、私はね……オムライスが食べたい! それも、トロトロの卵が乗った、ふわとろのやつ!」
玲那さんが少し目を輝かせて言うと、傍らを歩いていた凛ちゃんもパッと手を挙げた。
「あ、私もオムライス大好き! ぜひそれにして、空お兄ちゃん!」
「オムライスね。賛成だわ、私も子供の頃から大好物なのよ」と桐乃さんが微笑み、爽花さんも「私も異議なし! トロトロ卵のデミグラスソースがけとか最高だね」と大きくうなずいた。
メニューが満場一致でオムライスに決まり、空は新鮮な卵、チキン、玉ねぎ、マッシュルーム、そして特製のデミグラスソースの材料を手際よくカゴに入れていった。
タワーマンションの最上階に戻り、夕暮れ時の美しい景色がガラス窓越しにオレンジ色のグラデーションを描き始める頃、オープンキッチンで俺の料理が始まった。
「ねえ、空お兄ちゃん、私もお手伝いしていい?」
そう言って、キッチンに入ってきたのは凛ちゃんだった。
彼女は新聞部で培った好奇心からか、俺の包丁さばきやフライパンの扱いを見ようと、すぐ傍にピタリと寄り添うように身を寄せる。
「危ないから包丁はダメだけど、野菜をボウルに入れたりするのは頼めるかな」
「うん! 任せて!」
凛ちゃんは嬉しそうに頷き、俺の手元をじっと観察しながら手伝いをこなしていく。
フライパンの上で、細かく刻まれた鶏肉と玉ねぎがバターの芳醇な香りを立てながら炒められていく。ケチャップが加えられ、チキンライスが鮮やかな赤茶色に染まっていくそのプロセスは、見ているだけでも食欲をそそるものだった。
そして、いよいよクライマックスの卵の調理だ。
熱したフライパンにたっぷりのバターを溶かし、一気に溶き卵を流し込む。菜箸で素早く、かつリズミカルにかき混ぜながら、絶妙な半熟加減でフワリと形を整えていく。
俺が手首のスナップを利かせ、チキンライスの上にその黄金色のふわとろ卵を完璧なバランスで滑らせると、凛ちゃんは「わぁっ……!」と思わず歓声を上げた。
「すごい! お店のプロの職人技みたい!」
仕上げに特製のデミグラスソースとパセリを散らし、彩り豊かなミネストローネのスープとシャキシャキのグリーンサラダを添えて、全員分の『極上ふわとろオムライス』が完成した。
ダイニングテーブルに料理が並び、待ち構えていた桐乃さん、爽花さん、玲那さんが席につく。
「お待たせしました。特製オムライスです」
「「「いただきます!」」」
全員がスプーンを手に取り、中央のふわとろ卵を割って口に運んだ瞬間、リビングが静まり返った。
次の瞬間、四人から感動のため息が漏れた。
「んんっ! 美味しい!」
「なにこれ……卵が文字通り口の中でとろける! チキンライスの旨味とデミグラスソースのコクのバランスが完璧すぎるわ!」
「お店で食べるものよりも、何倍も、いや、比べ物にならないくらい美味しいよ、空君!」
「空お兄ちゃん、天才だよ! 私、これ毎日食べたい!」
大絶賛の嵐に、俺は少し照れくさそうに頭を掻いた。
自分の手で作った料理を、こんなにも美味しそうに、心から喜んで食べてくれる人がいる。
学校から理不尽に追放され、家族から見放され、すべてを失ったと思っていた俺の胸のなかに、温かな灯火がゆっくりと、確実に満ちていくのを感じていた。




