第10話 深夜の微熱、静かなる牙
最上階のタワーマンションに身を寄せてから、停学期間中の俺の日常は、驚くほど満たされていた。
朝の光が壁一面のガラス窓からたっぷりと差し込むリビングで、俺は手際よく四姉妹の朝食を準備する。
オムライスや香ばしいホットサンドなど、日替わりで並ぶ手料理は、毎回テーブルにつく全員から「美味しい!」「お店以上だよ!」と惜しみない称賛と感謝の言葉を浴びせられた。
料理を褒められ、誰かのために腕を振るうことが、いつしか俺にとっての確かな生きがいになっていた。
朝食を終えた後の日中、俺はゲストルームにこもり、購入してもらった液晶ペンタブレットと最新のハイスペックなデスクトップパソコンに向き合った。
静寂に包まれた広い部屋で、最高の環境のもとでペンを走らせる。
頭の中に浮かぶ情景や感情を、思いのままにデジタルキャンバスへと描き出していく。
息抜きに、以前から所有していたイラスト投稿サイトのアカウントへ新作のイラストレーションをアップロードしてみると、瞬く間に世界中のユーザーから「美しい光の表現だ」「このタッチは唯一無二だ」と絶賛のコメントや大量のブックマークが寄せられた。
学校という狭い世界から追放されたはずの自分が、広い世界ではしっかりと認められているという事実が、傷ついていた俺の心を優しく満たしていった。
夕方や夜になれば、仕事や学校から戻った四姉妹の誰かと他愛のないおしゃべりをし、夜景を眺めながら温かな夕食を囲む。
絶望の底に突き落とされたはずの俺は、いまや人生で最も穏やかで充実した時間を過ごしていた。
§
ふと、喉の渇きを覚えて俺は目を覚ました。
時計の針は深夜の二時を示している。
部屋を出て、静まり返った廊下を音を立てないように歩きながら、水分を補給するためにリビングへと足を踏み入れた。
暗がりの中、キッチンの間接照明の灯りだけがぼんやりと浮かび上がっている。
そのカウンターの端に、人影があった。
「……あれ、空君?」
ふわりと甘く芳醇なアルコールの香りが鼻腔をくすぐる。
そこにいたのは、昼間の凛々しい弁護士としての顔とは全く異なる、長女の桐乃さんだった。
彼女は艶やかな黒髪をルーズにまとめ、肩のラインが滑らかに露わになったセクシーなシルクのネグリジェ姿で、すらりとした美しい脚を組んでいた。手には細いワイングラスを持ち、ダークレッドの液体を揺らしながら、遠くの夜景を見つめている。その無防備でありながら強烈な色気を放つ姿に、俺は思わず心臓が跳ね上がるのを感じた。
「き、桐乃さん……? こんな夜中に起きてどうしたんですか?」
気まずそうに目を泳がせる俺に、桐乃さんはふっと妖艶な笑みを浮かべた。その瞳は少しだけアルコールで潤っており、どこか普段の隙のない彼女とは違う、柔らかい雰囲気をまとっている。
「目が覚めちゃってね。少しだけ、美味しいワインが開けたくなったのよ。……ねえ、空君、少し話をしましょうか。ここに来て座って」
促されるまま、空は恐る恐るカウンターの隣の椅子に腰を下ろした。
「眠れなかったんですか?」
「ううん、違うわ。頭が冴えていただけよ。……あなたの父親の件でね」
桐乃さんはグラスを傾け、ワインを一口含んでから、ふぅと小さく息をついた。その表情から穏やかさが消え、プロフェッショナルな冷徹さが戻ってくる。
「今日、私の法律事務所のほうに、あなたの父親から直接連絡が入ったわ。育児放棄なんかを訴えるための内容証明郵便を送り付けていたんだけど、『弁護士なんて立てて大ごとにしないでくれ、話し合って和解させてほしい』ってね。すっかり青ざめた声で、自分の保身ばかりを訴えてきたわよ」
「……父さんが、そんなふうに……」
「ええ。でも、私は一歩も引かずに突っぱねておいたわ。彼があなたに対して行ってきたことの重大さを考えれば、今さら都合よく和解になんて応じるわけがないでしょう。あんな男の泣き言に慈悲をかける必要なんてないのよ」
桐乃さんの声には、冷たい怒りと、俺を絶対に守るという揺るぎない決意が込められていた。
その強い意志に触れ、胸の奥が熱くなる。
「ありがとうございます、桐乃さん……。俺のために、そこまで……」
「当然よ。私はあなたの弁護士であり、そして……家族だもの」
桐乃さんは柔らかく微笑むと、スラリとした手で小さな黒い精密機器をテーブルの上に滑らせた。それは、手のひらにすっぽり収まるサイズの最新型のICレコーダーだった。
「これを受け取ってちょうだい」
「これは……?」
「これからの数日間のための保険よ。あなたの父親は、自分の会社での立場や世間体を極度に気にしているわ。そんな彼にとって、弁護士名義で内容証明が届き、さらに『刑事告発・民事訴訟を抱える父親』というレッテルが貼られることは、この上ない致命傷になるの」
桐乃さんは真剣な眼差しで空を見据えた。
「だからこそ、追い詰められた彼は、弁護士を通すだけでは我慢できなくなって、直接あなたにコンタクトを取ろうと焦り出す可能性が高いわ。学校の帰り道なんかで待ち伏せて、強引に接触してくるかもしれない」
「直接……俺に会いに来るってことですか?」
「ええ。その時に、父親が何を言ってくるか分からないわ。『親に向かって弁護士を立てるとはなんだ』『すぐにその弁護士を取り下げさせろ』って、きっと威圧的で身勝手な言葉をぶつけてくるはずよ。だから、これをポケットに忍ばせておいてちょうだい」
ICレコーダーのスイッチに触れながら、桐乃さんは低く囁いた。
「もし、父親があなたに何か威圧的なことや、脅迫めいた発言をしてきたら、慌てず騒がず、そのICレコーダーを使ってこっそり録音しておくのよ。相手が『言った・言わない』の水掛け論に持ち込めないようにするための、動かぬ証拠をつかむの」
「わかりました……。もし会いに来たら、ちゃんと録音します」
俺がしっかりと頷くと、桐乃さんは安心したようにふっと表情を緩め、グラスに残っていたワインを飲み干した。
そして、席を立つと俺の背後にまわり、そっとその肩に温かい手を置いた。
シルクのネグリジェから漂う甘い香りと、彼女の体温が背中越しに伝わってきて、俺は再び心臓が激しく脈打つのを感じた。
「不安になる必要はないわ、空君」
桐乃さんは俺の耳元に唇を寄せ、ベルベットのように滑らかな声で優しく囁いた。
「あなたがどれほど理不尽な目に遭ってきたとしても、私たちがついている。私が必ず、あなたの無実を証明し、あの男たちを法の下で叩き潰してあげるから。だから、安心して、前を向いていてちょうだい」
その言葉は、どんな呪文よりも力強く、俺の心の奥底に深く染み渡っていった。
すべてを失ったと思っていた暗闇の中で、差し伸べられた温かな手と、圧倒的な知性を持つ美しき弁護士の存在が、俺の背中をしっかりと支えてくれている。
「……はい。信じています、桐乃さん」
振り返り、まっすぐに前を向いて答えると、桐乃さんは満足げに妖艶で美しい笑みを浮かべた。
深夜の静寂に包まれた最上階のリビングで、反撃のための静かなる牙は、着々と研ぎ澄まされていく。




