第8話 聳え立つタワーマンションと反撃の誓い
すごい……逢沢家って、超セレブだったんだ。
その威容を前にして息を呑む。
高級レストランでの温かく和やかな食事を終えた後、逢沢家の四姉妹に連れられて辿り着いたのは、街の夜空を切り裂くように聳え立つ巨大なタワーマンションだった。
エントランスを抜けてプライベートエレベーターに乗り込むと、数字はみるみるうちに上昇し、やがて最上階を示す『45』のインジケータで静かに停止する。
「両親は今海外で生活しているから、住んでいるのは私たち四姉妹だけよ」
長女・桐乃さんが鍵を開けながら、当たり前のようにそう告げた。
扉が開いた瞬間、目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの非現実的な空間だった。
天井が高く、壁一面のガラス窓からは、ネオンが輝く都心の夜景が一望できる。
インテリアはすべて一流のデザイナーズ家具で統一され、微かにアロマの香りが漂うその部屋は、自分が数時間前まで味わっていた絶望の泥沼を綺麗に洗い流してくれるかのようだった。
「一階のテナントに入ってるコンビニで着替えを買ってきたので、シャワーを浴びてきてこれに着替えてください。ネット環境もバッチリ整ってるから、自分の部屋で自由に使ってくださいね」
爽花から手渡された真新しいルームウェアと下着の入った袋を受け取り、案内されたゲストルームは、これ以上ない程に贅沢な空間だった。
俺が勘当されて追い出された実家の自室の何倍もの広さを誇っている。
部屋の中央には、高級ホテルのスイートルームを思わせる、極上のクッション性と重厚なフレームを備えたキングサイズのベッドが静かに据えられていた。シーツはシルクのように滑らかな手触りの上質なリネンがピンと張られ、その清潔な白さが薄暗い部屋のなかにほのかな高級感を漂わせている。
壁際には、木目が美しいマホガニー材で作られた大型のライティングデスクと、長時間の作業でも腰が痛くならなさそうなエグゼクティブチェアが配置されていた。
そのデスクの上には、ハイスペックな最新型のデスクトップパソコンとデュアルモニターがスマートに設置され、キーボードやマウスに至るまでプロフェッショナル仕様の洗練された機材が揃えられている。
隅には静音性の高そうな高性能空気清浄機が稼働し、部屋全体にはほんのりと心地よいウッディ系の香りが満ちていた。
「こんな場所で、俺が暮らしていいのか……」
あまりの非現実的な環境に気後れしながら、俺は用意されたタオルと着替えを持って、共用のバスルームへと向かった。
重厚なガラスのドアを押し開けると、そこはまるで高級スパのような異世界だった。床や壁には上品な大理石が贅沢に使用され、間接照明の柔らかな光が空間全体を優しく包み込んでいる。
俺はため息をつきながら、制服のボタンに手をかけた。
ネクタイを緩め、窮屈なシャツを脱ぎ捨てる。学校という社会から切り捨てられ、父にぶたれた頬の痛みや、妹に冷たく拒絶された絶望の記憶が、服と一緒に床へと落ちていくような気がした。
下着一枚になり、鏡に映った自分の姿を見る。そこには、信じられないほどの理不尽な重圧に耐え、泥を塗られた無実の少年の疲れ切った顔があった。
シャワーブースで頭と体を丁寧に洗い流し、シャンプーの香りに包まれながら今日の埃と嫌な記憶をすべて洗い流していく。
そして、身体を綺麗に拭いた後、バスルームの奥に待ち構えていた巨大な浴槽へと足を踏み入れた。
湯船に張られた透明なお湯は、絶妙な温度に調整されている。ゆっくりと身体を沈めると、ガラス張りの窓の向こうに、息をのむような絶景が広がっていた。
地上四十五階の高さから見下ろす都心の夜景は、まるで漆黒のベルベットの上に無数の宝石をちりばめたかのように、眩い光の海となってどこまでも広がっている。
高層ビルのシルエットが幾重にも重なり、眼下を流れる高速道路の車のライトがまるで光の川のように流れていく。
「……はぁ……」
心の底から長い溜息が漏れた。
ガラス張りの窓から煌めく夜景を見下ろしながら、足を思い切り伸ばせる広大なバスタブに浸かる。ふわりと漂うバスソルトの芳醇な香りと共に、温かなお湯が、極限まで冷え切っていた心身の隅々までじんわりと染み渡っていくのを感じた。
筋肉の緊張が緩み、張り詰めていた神経が少しずつほぐれていく。
その心地よさに身を委ねながら、俺は今日一日の信じがたい急展開に、ぼんやりと思いを馳せていた。
学校から追放され、世間から犯罪者と蔑まれ、愛する家族には一瞬で見放され、すべてを失ったはずの自分が、なぜ今、こんなにも贅沢な空間で守られているのか。
あの時、ディスカウントストアの前で、反射的に落下する看板の下から少女を救い出さなければ、今のこの温かな救済はなかった。
偶然の出会いとはいえ、逢沢家の四姉妹はあまりにも温かく、そして力強く俺の存在を肯定し、守ろうとしてくれている。
「……俺は、一人じゃないんだよな」
湯気の中にぼんやりと浮かぶ天井を見上げながら、俺はそっと呟いた。
湯船から上がると、用意されていた真新しいルームウェアに身を包み、身も心もすっかり軽くなった感覚を覚えながら、俺が来るように促されていたリビングへと行くと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
あれほど知的で清楚な美しさを放っていた次女の爽花さんが、ソファに大の字になって寝そべり、大きな音を立ててポテトチップスを齧っていたのだ。しかも、その身に纏っているのは『働いたら負け』と大書されたシュールなネタTシャツ。
「あ、空君、お風呂どうだったー?」
口調もすっかり砕けたものに変わり、ダラけきった表情で手をヒラヒラと振っている。
あまりのギャップに、俺は思わず目を剥いて硬直してしまった。
「驚いたでしょう? この子、家の中ではこうなのよ。『外での清楚モードは疲れるんだよー』って本人はいつも言ってるの」
桐乃が苦笑しつつも、どこか温かい笑みを浮かべながら紅茶のカップを置く。
「爽花お姉ちゃんは見た目詐欺だからね。外ではおしとやかな清楚美人を完璧に演じてるけど、家に帰ると一転して干物女になるんだよ」
凛ちゃんがトコトコと歩いてきて、ケラケラと笑う。
「驚いたでしょ? でも、これがお姉ちゃんの素の姿だから。慣れれば可愛いものだよ、空君」
玲那さんもクスクスと笑いながら、俺にマグカップを差し出してくれた。
「外での清楚モードを維持するのも、社会を生き抜くための防衛手段ってやつよ。家の中くらい、好きにさせてよー」
爽花さんはポテチの袋を抱えたまま、ぷっくりと頬を膨らませた。
そんな飾らない彼女の姿を見ていると、胸のつかえがスッと降りていくような気がした。ギスギスしていた心が、少しずつ解きほぐされていく。
やがて、全員がリビングのソファやラグマットに腰を下ろし、これからについての作戦会議が始まった。
「それじゃあ、空君から聞いた内容を元に、弁護士の観点から法的な整理をさせてもらうわね」
桐乃さんが表情を引き締め、プロの顔つきへと切り替わる。その瞳には、揺るぎない知性と強い正義感が宿っていた。
「まず、君の父親への対応についてよ。未成年である子どもに対し、親には法律上の『監護義務』や『扶養義務』があるわ。正当な理由なく子どもを家から追い出したり、生活の場を与えずに放置したりする行為は、保護責任者遺棄罪や児童虐待防止法におけるネグレクト(育児放棄)に明確に該当するの。これは児童相談所や警察が介入すべき、明らかな違法行為よ。父親としての義務を完全に放棄しているわね」
桐乃さんの淀みのない解説に、俺はただ圧倒されながら頷くしかなかった。
「そして次に、学校側の対応ね。十分な客観的証拠の調査も行わず、虚偽の告発に基づいて空君を犯人と決めつけて一方的に処分を下した行為について、法律上の問題点や問い得る罪・責任を解説するわ」
桐乃さんは手元にノートパソコンを引き寄せ、カチャカチャとキーボードを叩きながら続ける。
「現実の日本の法制度に照らし合わせると、学校側の一連の対応や関係者の行動に対しては、いくつかの民事上・刑事上の法的責任を追及できる可能性があるわ。具体的には次の通りよ。名誉毀損罪(刑法第230条)および侮辱罪(刑法第231条)。 公然と事実を摘示し、または事実を摘示しなくても、人の名誉を傷つけた場合に成立するわ。教師らが十分な調査をせず、空を『犯罪者』『不良』などと決めつけて周囲に言いふらしたり、名誉を傷つける扱いを学内でした場合、名誉毀損や侮辱にあたる可能性があるわね。それと、安全配慮義務違反(民法上の債務不履行 / 不法行為)。 学校は、生徒が安全で平穏な学校生活を送れるよう配慮する義務を負っているわ。客観的な証拠を精査せず、特定の生徒を一方的に犯人扱いして切り捨てる行為は、教育者としての裁量権を逸脱した『安全配慮義務違反』または『いじめの放置・助長』にあたり、民事上の損害賠償請求、つまり慰謝料請求の対象となるわね」
「学校側も、保身のためにとんでもない越権行為をしているってことですね」
と俺が呟くと、桐乃さんは力強く頷いた。
「その通りよ。さらに、虚偽の告発を行った側の責任についても見逃せないわ。実際には起きていないレイプ未遂を仕組んで告発したことは、現実の法律では極めて悪質な犯罪および不法行為に該当するわ。虚偽告訴罪(刑法第172条) 。人に刑事処分を受けさせる目的で、警察などの官憲に対して虚偽の告訴・告発を行った場合に成立する犯罪よ。まだ『職員室への告発』の段階だけど、もしこれが警察への被害届や告訴状の提出という形に発展していれば、3ヶ月以上10年以下の懲役が科される典型的なケースだわ。それから、不法行為による損害賠償請求(民法第709条)。 故意または過失によって他人の権利を侵害した場合、損害を賠償する責任を負うわ。嘘の告発によって空君の社会的信用を失墜させ、精神的苦痛を与えたとして、赤羽架純やその保護者に対して高額な慰謝料を求める民事訴訟を起こすことができるわよ。さらに、暴力を振るってきたというその藤嶺徹についても責任を追及できるわ」
と、桐乃さんはペンを回しながら続ける。
「暴行罪(刑法第208条)。 人の身体に対して暴行を加えたが、傷害に至らなかった場合に成立するわ。空の胸ぐらを力任せに掴みにかかった行為は、不法な有形力の行使として暴行罪の構成要件に該当する可能性が高いわね。さらに名誉毀損罪・侮辱罪・信用毀損罪。目撃していないにもかかわらず、あるいは状況を歪めて『空が犯行に及んでいる現場を見た』と周囲に大声で吹聴し、空の社会的評価を低下させた場合、これらの罪に問うことができるわ。このように、学校や加害者側を法的に追及するための手段はいくらでもあるわ。刑事手続きとしては警察への虚偽告訴罪や名誉毀損罪での告訴・被害届の提出、民事手続きとしては学校の不当な処分や安全配慮義務違反、そして架純らの虚偽告発・誹謗中傷による精神的苦痛に対する損害賠償請求の訴訟ね。そのためには、客観的な証拠を突きつけて反撃していくのが最も堅実で効果のあるプロセスよ」
桐乃さんのプロフェッショナルな解説を聞きながら、俺は胸の奥のモヤが少しずつ晴れていくのを感じた。今まで一人で抱え込み、なすすべもなく打ちのめされていた絶望が、法律という鋭い武器によって切り崩されていくような感覚だった。
「でね、空君」
と、桐乃さんは真剣な眼差しを俺に向けた。
「ただ、証拠がなければ告訴状を提出して警察を動かすことは難しいわね。その犯行が行われたって彼らが証言している時間帯のアリバイなんかはないの?」
「あるにはあるんです」
俺は背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
「その時、俺は学園の校舎裏で、美術部の先輩と一緒に絵を描いていたんです。でも、その先輩に証言をしてもらう前に、学校側がなし崩し的に処分を下してしまったので……」
「それなら、話は早いわね」
桐乃さんがPCの画面から顔を上げ、ニヤリと笑った。
「まずはその先輩にしっかり証言してもらいましょう。証拠固めはこっちの得意分野よ」
「はい。分かりました」
「確実に一つずつ問題をクリアしていきましょう。父親を訴えるための手続きや、証拠集めとかは私たちに任せておきなさい。空君は、自分の無実を証明することだけに集中して」
「私はパソコンを使って、その憎っくき空君を陥れたやつらにサイバー攻撃──は最後の手段として、デジタルな証拠の保全と、ネット上の誹謗中傷のログ収集の準備を始めておくね」
爽花さんが意気揚々と宣言する。
プログラマーとしての彼女のスキルが、今、俺のために使われようとしている。その頼もしい背中に、俺は言いようのない感謝の念を抱いた。
「私は学園で空君の側にいて、信用回復の手助けをするね。同級生としての私の証言や影響力を使えば、クラスの空気だって少しずつ変えられるはずだから」
玲那さんが力強く微笑み、そっと俺の手の上に自身の手を重ねてくれた。その温もりが、冷え切っていた俺の心をじんわりと満たしていく。
「私は新聞部として、取材という形で証言を集めてお兄ちゃんの無実の証拠集めをするよ! 全部私のネットワークで徹底的に暴いてみせるんだから!」
凛ちゃんが小さな胸を張って頼もしく宣言した。
四姉妹がそれぞれの得意分野を活かして俺のために動こうとしてくれている。その結束力の強さに、俺は涙腺が熱くなるのを抑えられなかった。
「ところで……」
ふと、爽花さんが首をかしげながら俺を見た。
「空君は美術部ということだけど、絵はいつ頃から描いてるの?」
「えっと……五歳の頃からです」
俺は少し照れくさそうに頭を掻きながら答えた。
「フリーランスのイラストレーターをしている叔母の影響を受けて始めたのがきっかけで、ずっと描き続けてきたんです」
「ってことは、十年以上もキャリアがあるのね」
桐乃さんが目を見張り、感心したように頷く。
「それは中々に凄いわね。ただの趣味の域を超えているわ。それなら、これからも絶対に続けたいわよね」
「はい……。絵を描くことは、俺の心の支えだったので」
「だったら、家に戻って自分の画材を持ち出すのは難しいでしょうし、画材一式は新しく買い揃えましょう。あと、私たちとの連絡やこれからの活動のために、スマホも新しく購入して契約する必要があるわね」
桐乃さんのその言葉に、俺は慌てて両手を横に振った。
「そ、そんな! 画材もスマホも、少なくないお金がかかりますよ! 皆さんにそこまでしてもらうわけには……!」
「遠慮しないで、空君」
玲那さんが優しく首を横に振る。
「これくらいのことはさせてよ。命を救ってもらった対価としては、安すぎるくらいなんだから」
「そうそう! お兄ちゃんの才能がそんなことで潰れちゃったら私たちが嫌だもん! 明日、みんなでお買い物に行こうよ!」
凛ちゃんが嬉しそうに提案する。
「異議なし。明日の午前中は、スマホの契約と画材の調達をしに街まで行きましょう」
爽花さんも笑顔で賛同した。
押し寄せる好意と優しさの波に、俺はもう言葉が出なかった。ただ深く頭を下げることしかできない。
「今日はもう色々と大変だったし、精神的にも疲れたでしょうから、ゆっくり休みなさい」
桐乃さんに促され、俺はゲストルームへと戻った。
ベッドに腰を下ろすと、まるで雲の上にいるかのようなふかふかとしたマットレスの感触が全身を包み込む。窓の外には、静かに瞬く東京の夜景が広がっていた。
たった数時間前まで、俺はすべてを奪われ、世界から見放された孤独の底にいた。
しかし今、ここには俺を信じ、共に戦ってくれる温かな家族代わりの存在がある。
「絶対に、あのクソみたいな連中に目にもの見せてやる……そして、奪われた日常を取り戻すんだ」
心の中で静かに、燃え盛るような決意を固めながら、俺は重くなるまぶたをそっと閉じ、温かな眠気の中へと身を委ねた。




