第7話 美しき女王の仮面、隠された狂気
Side:織野泉
放課後の静まり返った美術室に、鉛筆が画用紙を擦る乾いた音だけが響いていた。
窓から差し込む夕陽はすでにオレンジ色から深い茜色へと変わり始め、部屋の隅々に長い影を落としている。
イーゼルに向かい、キャンバスと向き合っていた私──織野泉は、ふと手を止め、目の前に立つ人物へと恐る恐る視線を向けた。
「あの……本当に、空先輩が、赤羽先輩にそんなひどいことをしたんですか?」
信じたくないという切実な願いと、言い知れぬ不安を入り混じらせながら私は尋ねた。
私にとって、遠坂空という先輩は単なる部活の指導者以上の存在だった。絵を描くことへの情熱を教えてくれ、いつも優しく的確なアドバイスをくれた憧れの先輩なのだ。彼がそんな卑劣な犯罪に手を染めるなど、どうしても信じられなかった。
質問された部長の吉岡美誓先輩は、手元でスケッチブックをめくる手をぴたりと止め、わずかにため息をついた。
その仕草すら絵画のように優雅で、整いすぎたウェーブのかかるロングヘアが夕陽に照らされて艶やかに揺れる。
学年で一番の美人と称され、学業優秀、教師からの絶大な信頼を誇る彼女は、孤高のクールビューティー逢沢玲那さんと並び、まさに碧陵学園の『高嶺の花』そのものだった。
「残念だけどね、泉さん」
吉岡先輩は涼やかな声で、冷酷な事実を告げるように言った。
「被害者である赤羽さんや、現場を目撃した藤嶺君の証言を細かく照らし合わせると、彼がそういった恥知らずな犯行に及んだことに疑いはないわ。客観的に見ても、もう言い逃れのできない状況なのよ」
「そんな……嘘です! 空先輩がそんなことするなんて、絶対にあり得ません!」
「気持ちはわかるけれど、感情で現実を歪めるのはよくないわ」
吉岡先輩はフッと鼻で笑い、完璧な優等生の微笑みを貼り付けた。
「彼はこの美術部で一番の有望株だっただけに、私も部長として非常に惜しくてたまらないわ。でもね、どんなに才能があろうとも、犯罪者を部活に在籍させておくわけにはいかないの。学校の秩序を乱す存在を野放しにはできないわ。だから、今日限りで彼の部活除名処分を正式に決定します」
「そんな……ひどい……。先輩、ちゃんと自分の口で弁解もしてないのに!」
私は両手で顔を覆い、あふれ出る涙をこらえきれず、ポロポロと床に落とした。
「うぅ……空先輩……」
「泣かないで、泉さん」
吉岡は歩み寄ると、私の肩に優しく手を置き、慈愛に満ちた声をかけた。その態度は一見すると後輩を気遣う良き先輩のそれだったけれど、その瞳の奥には底冷えするような冷徹さが潜んでいた。
「あなた、空君のことをとても慕っていたものね。ショックを受けるのは無理もないわ。けれど、仕方のないことよ。あんな愚行を犯して自業自得なんだから。いつまでも引きずっていてもしょうがないでしょ? これからは、前を向いて新しい気持ちで活動していきましょうね」
「……はい……」
私は泣き腫らした目で、力なくうなずくしかなかった。
吉岡先輩は満足げに微笑むと、「じゃあ、片付けをして今日はもう帰りましょう」と告げ、自身の荷物をまとめ始めた。
やがて、部員たちが次々と美術室を去り、最後に残った私もトボトボと帰路について教室の扉がしっかりと閉ざされた。
Side:吉岡美誓
室内が完全に無音に包まれた瞬間、私は作り物の優しい微笑みを一瞬にして消し去った。
ふっ、と、唇の端が歪み、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「……愚かね」
誰に聞かせるわけでもなく、私は低い声で呟いた。
足音を立てずに、美術室の奥にある大型のロッカーへと歩み寄る。そこは部員たちの個人的な作品や私物が一時的に保管されている場所だった。
私は鍵を開け、奥から一枚のキャンバスを取り出した。
それは、遠阪空が少し前に描き上げ、次のコンクールに出品しようとしていた一作だった。
静かな湖畔の風景の中に、繊細な光と影が幾重にも織り込まれた、見る者の心を打つ美しい絵画──。
私は、その絵をじっと見つめた。
その内に宿っているのは、賞賛や感嘆ではない。
激しい嫉妬と歪んだ優越感だ。
「……ふふっ、あはははっ」
静かな美術室に、私の笑い声が響く。
「ざまあみろ、って感じね」
私はポケットから小型のカッターナイフを取り出し、カチリと鋭い刃を滑り出させた。
「これは罰よ。私を差し置いて、次のコンクールで入選確実だなんて噂されて、いい気になっていた罰なんだから!」
次の瞬間、私の細い腕から繰り出された刃が、空が命を削って描いたキャンバスの布地を容赦なく切り裂いた。
ビリッ、という空気を切り裂くような音が美術室に響く。
私は何度も、何度も、執拗にカッターを振り下ろした。美しい風景画は、瞬く間に無惨なズタズタの布きれへと成り果てた。
しかし、それだけでは私の怒りは収まらず、欲望は満たされなかった。
「こんなもの、燃やしてしまえばいいのよ。あなたの存在ごと、この学校から綺麗さっぱり消し去ってあげる」
私は切り裂かれたキャンバスを乱暴に丸めると、大きめのゴミ袋に押し込み、夕暮れの茜色が残る校庭へと急ぎ足で向かった。
目指すは、校舎の裏手にひっそりと佇む、古いレンガ造りの焼却炉だ。普段は使われていないその場所は、誰の目にもつきにくい絶好の死角だった。
周囲に誰もいないことを確認すると、私は持ってきたライターで丸められたキャンバスに火をつけた。
ボッと音を立てて赤い炎が立ち上り、空の芸術の結晶は、私の憎悪の炎に包まれて黒い煙を上げていく。
パチパチと木枠が爆ぜる音を聞きながら、私はその炎の揺らめきをうっとりと見つめていた。
「これで終わり。あなたはすべてを失って、ただの社会のゴミになるのよ」
その時、私の制服のポケットの中で、スマホがブルッと震えた。
画面を取り出して確認すると、一通のメッセージアプリの通知が表示されていた。送信者は、バスケ部のエースであり学内カーストの頂点に君臨する男、藤嶺徹だった。
【徹:空はレイプ未遂犯として停学になりましたよ。これで邪魔者はいなくなった。約束通り、俺と付き合ってくれますよね、美誓先輩?】
メッセージの画面を見つめながら、私はフッと冷ややかな笑みを浮かべた。指先を軽快に動かし、彼女は迷うことなく返信する。
【美誓:ええ、いいわよ。約束は守るわ】
送信ボタンを押すと、画面の向こうで藤嶺がどれほど歓喜しているかが容易に想像できた。
藤嶺徹。彼は確かに、外見は端正でスポーツ万能、バスケ部のエースとして女子生徒からの人気も絶大であり、学内カーストの最上位に位置する男だ。誰もが羨むような、完璧な彼氏の肩書を手に入れるには最高の駒だった。
しかし、私の心底には、彼に対する恋愛感情など一片もなかった。
「ふん、単なるバカな筋肉馬鹿ね……」
私はスマホをポケットにしまい、燃え盛る焼却炉の炎を見下ろしながら冷たく呟いた。
「彼は内面はともかく、見た目は端正で、学内での知名度も抜群。私に言い寄ってくる男たちの中で、一番見栄えがするアクセサリーとしては悪くないわ。せいぜい、私の学園内での価値やステータスを高めるための、便利な道具になってもらいましょう」
自分の美貌と知性、そして巧みな演技力があれば、あんな男を手の上の踊らせるなど造作もないことだ。
赤羽架純が仕組んだあの下劣な冤罪劇に、私も手を貸していた。
犯行が行われたとされる時間帯の空のアリバイを失くすために、人気のない校舎裏に誘っていたのだ。
それに加えて、私は流れる噂を巧みに誘導し、学園全体の同調圧力を利用して空を完全に追い詰めることに一役買っていた。
すべては、美術のコンクールで自分より上の評価を受けようとして自分のプライドを傷つけた空への報復だった。
誰もが自分を崇拝し、思い通りに動く世界。その頂点に君臨する女王としての優越感が、私の胸を心地よく満たしていく。
「あはは……あははははっ!」
夕闇が迫る校庭の裏手で、私は誰もいない空間に向かって高笑いを響かせながら、燃え尽きていく灰を冷ややかに見つめ続けていた。




