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第64話 春の園、そして星降る夜の約束


 商業イラストレーターとしての商業デビュー、そして大手のライトノベルや母さんの小説の挿絵の仕事が決定し、俺の毎日は以前とは比べものにならないほど忙しく、そして充実したものになっていた。


 泉ちゃんとの同人サークル『シエル&スルス』での活動も順調で、SNSのフォロワーやファンからの温かいメッセージが毎日のようにモチベーションを押し上げてくれていた。


 一方の玲那さんも、夏に控えたメジャーデビューに向けたレコーディングやボイストレーニング、雑誌のインタビューなど、アーティストとしての階段を本格的に駆け上がり始めていた。


 お互いに、それぞれの夢や目標に向かって一歩一歩着実に歩みを進めている。


 そんな慌ただしくも輝かしい日々の中、学校はついに待ちに待った春休みへと突入した。


 すべての嵐が去り、かつての重苦しい呪縛から完全に解放された俺たちには、今、穏やかで温かい時間が流れている。


 そしてこの日、俺と玲那さんは、春休みの一大イベントとして、二人きりで少し遠出のデートに出かけることになっていた。


 行き先は、季節ごとに美しい花々が咲き誇ることで有名な広大なフラワーパークだ。



   §



 快晴に恵まれた春の朝。


 待ち合わせの駅の改札前で、俺は少し早めに到着して待っていた。


 すると、人混みの中からひときわ目を引く美しいシルエットがパタパタと歩いてくるのが見えた。


「お待たせ、空君!」


 声をかけてきた玲那さんは、春らしい淡いパステルピンクのワンピースに、白いカーディガンを羽織り、足元には動きやすい上品なパンプスを合わせていた。サラリと風になびく髪には、小さな花のヘアピンが上品に輝いている。


 そのあまりの可愛さと清楚な美しさに、俺は思わず一瞬見とれてしまった。


「ううん、俺も今来たところだよ。……その、すごく似合ってる、玲那さん」


 少し照れくさそうに褒めると、玲那さんは嬉しそうにふっと頬を赤らめ、くるりとその場で一回転してみせた。


「本当?  よかったぁ。朝から、何着ていこうかすごく迷っちゃったんだ。空君にそう言ってもらえると、頑張って選んだ甲斐があったよ」


 そう言って微笑む玲那さんと並んで、俺たちはフラワーパークへと向かう直通のバスに乗り込んだ。


 バスに揺られること約四十分。


 小高い丘の上にあるフラワーパークに到着した。エントランスをくぐった瞬間、俺たちの視界には、まるで絵の具をぶちまけたかのように鮮やかな、言葉を失うほどの絶景が広がっていた。


「わあ……っ!  すごい、きれい……!」


 玲那さんは感嘆の声を漏らし、両手で口元を押さえながら、目の前に広がる色とりどりの世界に見入っていた。


 園内には、今まさに満開を迎えたチューリップが赤、黄、白の絨毯のように咲き誇り、その脇ではネモフィラの青いじゅうたんが春の風に揺られている。少し離れた斜面には菜の花の黄色いグラデーションが広がり、甘く爽やかな花の香りが春の温かな空気に乗ってふんわりと鼻腔をくすぐってきた。


「本当だね……写真や絵で見るのとは全然違う。本物の自然が織りなす色彩って、こんなにも圧倒的なんだ」


 俺が感心しながら呟くと、玲那さんは嬉しそうに俺の袖をトントンと引っ張った。


「ねえ、空君、あっちのガラス温室のほうに行ってみよ!  色んな珍しいお花がたくさんあるみたい!」


「お、いいね行こうか」


 それから、俺たちは春の陽光が降り注ぐ広大な園内を、並んでゆっくりと歩いて回った。


 手をつないだり、並んで色とりどりの花の前で写真を撮り合ったり。時折、キッチンカーで買ったいちごのクレープを半分こして、「ん、これ甘酸っぱくて美味しいね!」と笑い合ったりする。


 かつて、あの暗い学園の中で、追い詰められていた日々が嘘のようだった。今、俺たちの周りにあるのは、どこまでも穏やかで、温かい光に満ちた時間だけだった。


「ねえ、空君」


 大温室の中、甘い花の香りに包まれたベンチに並んで腰掛けたとき、玲那さんはふと、遠くの景色を見つめながら静かに切り出した。


「ん?  どうしたの、玲那さん」


「私ね、最近すごく思うんだ。こうやって空君と普通にデートができて、美味しいものを食べて、綺麗な花を見て……こんな当たり前のことが、すごく幸せだなあって」


 玲那さんの瞳が、ほんの少しだけ潤んでいた。


 俺はそっと手を伸ばし、玲那さんの柔らかい手の甲に自分の重ねた。


「そうだね、玲那さん。これからは、こんな当たり前の幸せを、一つひとつ俺たちで積み重ねていこう。辛い時は俺が支えるし、楽しい時はこうして二人で思いっきり笑い合おう」


 俺の言葉に、玲那さんはハッとしたような表情を浮かべ、やがてまるですべての不安が溶けていくような、この世で一番優しい笑みを浮かべた。


「うん……っ!  ありがとう、空君。私、今すごく幸せだよ」


 二人の手が、さらに強く、しっかりと結び合わされた。



   §



 色とりどりの花々と穏やかな時間を満喫しているうちに、空はゆっくりとその色を変えていった。


 夕暮れ時。茜色の太陽が遠くの山並みに沈みかけ、フラワーパークの空は深い群青色とオレンジ色のグラデーションに染め上げられていく。


「あっという間に夕方になっちゃったね」


 園内の小高い丘の上にある、お洒落なヨーロッパ風のホテルを見上げながら、玲那さんが少し名残惜しそうに呟いた。


「そうだね。でも、今日のメインイベントは、ここからだよ」


 俺が微笑みながらホテルのエントランスへと促すと、玲那さんは「あ……!」と小さく声を上げ、ピンク色の頬をさらに染めた。


 そう、今日のデートの締めくくりとして、俺たちはこのフラワーパーク内にあるリゾートホテルに一泊する予約を入れていたのだ。


 けれど、俺たちはまだ高校生──法律上の未成年である。


 未成年だけでホテルに宿泊するためには、親の同意書だけではなく、厳密な手続きと書類が必要だった。そのため、数日前に俺の母さん、そして逢沢家の保護者代理として桐乃さんに事情を話し、正式な「保護者同意書および宿泊許可の署名・捺印」を完璧に書いてもらっていたのだ。


 エントランスを抜け、ラグジュアリーな香りが漂うホテルのフロントへと向かう。


 緊張した面持ちの俺は、カバンから丁寧に折りたたまれたその書類を取り出し、ホテルのスタッフへと差し出した。


「あの、宿泊の予約をしている遠坂ですが……こちら、未成年宿泊のための保護者の署名入りの同意書です。確認をお願いします」


 ホテルのフロントスタッフは、少しだけ驚いたような表情を見せたが、差し出された書類をしっかりと受け取り、内容を一つひとつ丁寧に確認し始めた。


 親権者である伊原翠、そして法的代理人である逢沢桐乃の直筆の署名と、それぞれの連絡先、そして未成年宿泊に関する誓約事項。不備の無い完璧な書類を見たスタッフは、やがて柔らかな笑みを浮かべてうなずいた。


「……確認いたしました。遠坂様、お預かりいたします。親御様および代理人様からの直筆署名、連絡先ともに不備はございません。本日はご宿泊、誠にありがとうございます」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の隣で少しだけ肩を震わせて緊張していた玲那さんは、ふうっと小さく息を吐き、安堵の表情を浮かべた。


「よかったぁ……」


「うん、完璧に準備しておいて正解だったね」


 無事にチェックインを済ませた俺たちは、スタッフの案内で最上階に近い見晴らしの良いダブルルームの部屋へと足を踏み入れた。


 部屋に入った瞬間、大きなガラス窓の向こうに広がる、ライトアップされた夜のフラワーパークの夜景が飛び込んできた。無数のイルミネーションが園内の花壇や木々を宝石のように彩り、まるでファンタジーの世界に迷い込んだかのような美しさだった。


「すごい……!  お部屋から、夜の庭園が一望できるんだね……!」


 玲那さんは窓辺に駆け寄り、キラキラと目を輝かせながら夜景に見入っていた。


「本当に綺麗だね。予約してよかったよ」


 荷物を置き、少し休憩したあと、俺たちはまずホテルの大浴場へと向かった。


 男女別の温泉大浴場は、広々とした内風呂のほかに、庭園の夜景を眺めながら入れる開放的な露天風呂がついていた。


 温かいお湯に肩まで浸かると、今日一日の歩き疲れた身体の芯からじわっと心地よい癒やしが広がっていく。


「ふあぁ……気持ちいい……」


 露天風呂の冷たい夜風と、お湯の温もりのコントラストが絶妙で、心の底からリラックスすることができた。


 お風呂から上がり、部屋で軽く身支度を整えたあと、俺たちはホテルのメインダイニングルームへと向かった。


 そこで待っていたのは、シェフが腕を振るった極上のディナーコースだった。


 旬の野菜を使った色鮮やかな前菜から始まり、地元産の新鮮な魚介のソテー、そして柔らかくジューシーな黒毛和牛のローストビーフ。どれを食べても言葉を失うほど美味しく、俺たちは顔を見合わせながら「美味しいね」「幸せだね」と何度も頷き合った。


 グラスに注がれたノンカクテルのスパークリングワインで乾杯し、これまでのことや、これからの夢について語り合う時間は、何物にも代えがたい贅沢なものだった。



   §



 ディナーを終えて部屋に戻ると、室内の照明は暖色系の間接照明だけに落とされ、窓の外には幻想的なイルミネーションの光だけが静かに瞬いていた。


 静まり返った部屋の中。


 心地よい疲労感と、それ以上に胸を高鳴らせる熱が、俺たちの間にじんわりと満ちていく。


「……空君」


 ベッドの縁に腰掛けた玲那さんが、少しだけ上気した頬を両手で軽く押さえながら、トロンとした潤んだ瞳で俺を見上げた。


「うん、どうしたの、玲那さん」


 俺は彼女の隣にそっと歩み寄り、目の前に立った。


 玲那さんはゆっくりと立ち上がり、俺の胸元にそっと両手を添えた。その体温が、服の上からでもはっきりと伝わってくる。


「今日ね、フラワーパークに行って、本当に楽しくて、夢みたいだったの。でも……今、こうして二人きりで同じ部屋にいて、夜の景色を一緒に見ているこの時間が……私にとって、一番大切で、一番愛おしい時間なんだって気づいたの」


 玲那さんの声は、少しだけ震えていた。


 だが、その言葉に迷いは一切なく、彼女の心の底からの真っ直ぐな想いが痛いほど伝わってきた。


「俺もだよ、玲那さん」


 俺はそっと手を伸ばし、玲那さんの華奢な肩を引き寄せ、優しく抱きしめた。


 玲那さんは安心したように俺の胸に顔をうずめ、ふわりと香る甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。


「空君……私を、もっと近くに感じて……」


 その囁きは、夜の静けさの中に溶けていくように甘く、そして切なかった。


 俺はゆっくりと顎を持ち上げ、玲那さんの潤んだ瞳を見つめた。彼女は羞恥からか、わずかに瞼を伏せ、長い睫毛を震わせている。


 重なり合う唇は、春の夜の空気よりも柔らかく、そして甘かった。


 最初は軽く触れ合うだけのキスだったが、お互いの熱が高まるにつれて、それはより深く、より切ないものへと変わっていく。玲那さんの手が俺の背中に回り、シャツの布地をぎゅっと掴んだ。


 自然に、俺たちはベッドへと導かれるように身を倒した。


 シーツの感触と、お互いの体温が伝わり心地よい。


 暗い部屋の中で、窓から差し込むイルミネーションの光が、二人のシルエットを優しく照らし出している。


「空君……大好き……」


「俺もだよ、玲那さん。ずっと、愛してる」


 そうしてその後は、言葉の代わりに、お互いの皮膚と体温が深く溶け合っていく。


 外の寒さを忘れさせるほどの熱と、すべてを包み込むような優しさに満たされながら、俺たちは言葉を失い、ただお互いの存在を確かめ合うように、何度も何度も唇を重ねた。


 甘い吐息と、かすかな衣擦れの音が、静かな夜の部屋に優しく響き渡る。


 お互いの心と身体が完全に一つになり、世界で二人きりになったような錯覚の中で、僕たちは永遠に続くかのような甘美な夜のなかに溺れていった。



   §



 どれくらいの時間が経ったのだろう。


 激しい熱が少しずつ収まり、心地よい倦怠感と深い幸福感に包まれながら、俺は目を覚ました。


 窓の外のイルミネーションはすでに消えかけ、夜空には満天の星々が静かに輝いている。


 ベッドの上。俺の腕を枕にするようにして、玲那さんはすやすやと眠りについていた。


 その寝顔は、まるで子供のように無防備で、そして息をのむほど美しかった。


 乱れた髪をそっと指先で優しく整えてやると、玲那さんはうーんと小さな寝息を立てながら、俺の腕にしがみつくようにぎゅっと身体を寄せてきた。


 その愛おしさに胸が締め付けられる。


 過去にどれだけ傷つき、絶望の淵に突き落とされそうになっても、俺には今、こうして温かな未来があり、信じ合える絆がある。


 空を見上げれば、満天の星が俺たちの新しい門出を祝福するように輝いていた。


 これからの人生がどんなに険しいものであっても、この温かい手の温もりと、隣で眠る愛しい人の笑顔があれば、どんな壁だって乗り越えていける──。


 俺は眠る玲那さんの額にそっと優しくキスを落とし、彼女をさらにしっかりと抱きしめながら、静かに目を閉じた。



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