エピローグ 青空の向こうへ
フラワーパークでの甘く穏やかなデートから一夜が明け、翌日の夕方。
俺と玲那さんは、春休みの夕暮れに染まる街並みを並んで歩きながら、無事に逢沢家へと帰ってきた。
ホテルの美しい夜景、満天の星空、そして二人で確かめ合った確かな体温と愛しい記憶。胸の中は、言葉にできないほどの温かな幸福感で満たされていた。
玄関のドアを開け、「ただいま戻りました」と声を揃えてリビングに入ると、そこにはいつもの賑やかなメンバーたちが勢揃いしていた。
「あ、お帰りなさーい! 二人とも、なんだかすっごく楽しそうだった顔してるね!」
ソファでくつろいでいた凛ちゃんが、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。その後ろから、爽花さんや桐乃さん、そしてキッチンで夕食の仕度を手伝っていた泉ちゃんの姿も見えている。
「あ、ああ……ただいま、凛ちゃん」
俺は少しだけ気まずさを覚えつつも、何とか自然な笑みを作って靴を脱いだ。
隣に立つ玲那さんは、春らしいワンピースの裾をキュッと握りしめ、顔をほんのりと赤らめながら「た、ただいま……」と小声で挨拶をした。昨日の今日である。隠そうとしても、二人の間に漂うどこか甘やかな空気や、妙に息の合った距離感は、鋭い観察眼を持つ逢沢家の面々には一発レッドカード級にごまかし切れないものがあったらしい。
そして、その隠しきれない空気を、我が家の爆弾娘──爽花さんが見逃すはずがなかった。
「ふーん……?」
爽花さんは『明日から本気出す』とプリントされたネタTシャツ姿のまま腕を組み、ニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべながら、俺と玲那さんをジロジロと観察し始めた。
「ねえ、あなたたち……昨日から一泊して、二人きりの甘い時間をたっぷり過ごしてきたわけだけどさぁ……。お姉ちゃん、直感で聞いちゃおうかな」
爽花さんはわざわざ顔を近づけ、小声だが、リビング全体に響く絶妙なトーンで言い放った。
「それで、あなたたち、もう『やっちゃった』の?」
「「げほっ……!! ごほっ、ごほっ……!!」」
見事にストレートすぎる爆弾発言を喰らった俺と玲那さんは、見事にハモるようにして激しく咳き込んだ。心臓が飛び出るかと思った。顔の温度が一気に沸点まで跳ね上がり、耳の先まで真っ赤に染まるのが自分でも分かった。
「に、にゃ、にゃにお……っ!? なにを言ってるの、爽花お姉ちゃん……!!」
玲那さんは両手で真っ赤になった自分の両頬を必死で押さえ、涙目になりながらどもりまくった。あまりの羞恥心に、今すぐその場で地面に埋まりたいと言わばかりのリアクションである。
「なによ、図星じゃない。ほら見てごらんよ、二人とも揃って見事なトマトみたいになっちゃってさ。隠す気ゼロじゃないの」
爽花さんはケラケラと楽しそうに笑い声を上げた。
「だってみてよ、この二人から出てる甘い空気を。部屋全体が砂糖をぶちまけたみたいに甘ったるい匂いで満ち満ちてるわよ。お姉ちゃん、甘党だけど、さすがにこれ以上見せつけられたら虫歯になっちゃうわぁ」
「さ、爽花お姉ちゃん、それ以上からかうの禁止……!」
玲那さんがさらに顔を真っ赤にして抗議する。
そんな大人たちのやり取りを、キッチンから顔を出した純真な少女──凛ちゃんがきょとんとした顔で見つめていた。
「ねえ、お姉ちゃんたち……さっきから言ってる『やっちゃった』ってなにを? 美味しいものでも隠れて食べてきたの?」
ピュアすぎる凛ちゃんの質問に、リビングの空気が一瞬で「ん?」と静まり返った。
あ、やばい。このままでは純真無垢な凛ちゃんに教育上よろしくない大人の階段の登り方を説明しなければならない事態になりかける。
「ストップ。そこまでよ、凛」
絶妙なタイミングで割って入ったのは、グラスを片手にクールな笑みを浮かべた桐乃さんだった。彼女は冷ややかに爽花さんをひと睨みしてから、凛ちゃんの頭を優しくポンポンと撫でた。
「凛、そういう大人の猥雑な詮索はね、まだあなたには早すぎるの。大人の悪い冗談だから、気にしなくていいのよ」
「えー? よくわからないけど、お兄ちゃんたち変な顔してたよ?」
「ふふ、いいから、美味しい夕食の準備を手伝いなさい。ね?」
「はーい!」
桐乃さんの見事なハンドリングによって、凛ちゃんの純真無垢な疑問は無事にスルーされ、リビングには再び和やかな笑い声が戻ってきた。
冷や汗を拭いながら、俺は心の中で「桐乃姉さん、マジでありがとうございます……」と合掌したのだった。
§
それから数ヶ月が過ぎ、季節は初夏へと移り変わっていた。
我が家のリビングは、この日の夜、かつてないほどの熱気と興奮に包まれていた。
テレビの大きな画面に映し出されているのは、全国ネットで放送されている有名な大型音楽バラエティ番組だった。
そして、その画面の真ん中に今まさに映し出されているのは、他でもない、我が家の誇る歌姫、逢沢玲那さんだった。
「きゃあぁぁっ! 玲那お姉ちゃんがテレビに出てるーっ! すっごい可愛い! ドレスもめっちゃ似合う!」
凛ちゃんがテレビの前に陣取り、両手をブンブンと振って大はしゃぎしている。
リビングのソファやその後ろのスペースには、今日のこの晴れ舞台を共に見届けるために、驚くほど豪華なメンバーが集結していた。
いつも優しく見守ってくれる母さん、ワイングラスを傾けながら誇らしげな笑みを浮かべる叔母の咲さん、サークル仲間として一緒にペンを走らせる泉ちゃんはもちろんのこと、なんとその隣には、少し肩を小さくしながら、もじもじとおずおずと座っている萩原桜の姿もあった。
彼女は「あ、あの、玲那さんの記念すべき日だからって誘ってもらって……その、お邪魔します……」と、相変わらずおどおどした控えめな性格のまま、赤くなった顔を両手で少し隠しつつ、控えめにポップコーンの入ったお皿を支えていた。
さらに、三月に碧陵学園を無事に卒業し、春から大学生となった元生徒会長・嘉島愛莉先輩の姿もあった。
愛莉先輩は、美しいロングヘアを揺らしながら、まるで自分の本当の妹の晴れ舞台を見守るかのように、ハンカチを目元にあてがってうるうると涙ぐんでいた。
「はあ……我が妹分ながら、なんて美しくて可憐なの……」
愛莉先輩は感極まった様子でそう呟き、隣にいた爽花さんに「ねえ、そう思いません!?」と激しく同意を求めている。
爽花さんも「本当よね、なんだか泣けてきちゃう……」と一緒になって目を赤くしていた。
テレビの中のステージ。
照明が落とされ、静まり返ったスタジオの中央に、玲那さんはたった一人で美しい純白のキーボードの前に座っていた。
大きな商業音楽番組の、しかも生放送。
これだけの観客と、日本中の何百万という視聴者が画面の向こうで見守っているというのに、玲那さんの表情に怯えや緊張の色は一切なかった。そこにあるのは、自分自身の音楽と、歌うことへの揺るぎない覚悟と誇りだけだった。
調律されたばかりのキーボードの鍵盤に、玲那さんのしなやかな指先がそっと触れる。
奏でられる澄んだピアノの旋律と、透明感がありながらも、心の奥底まで真っ直ぐに突き刺さるような美しく力強い歌声が、スタジオの隅々まで響き渡った。
それは、彼女が愛する人たちと共に掴み取った『真実の光』そのもののような演奏だった。
リビングにいる全員が、息を呑んでテレビ画面に釘付けになっていた。
誰もが、その圧倒的な歌声とキーボードの美しい音色に魂を奪われていた。
曲の終盤。
サビの最も盛り上がる美しいメロディラインをキーボードの伴奏と共に歌い終えたその瞬間、玲那さんはふっと優しい笑みを浮かべ、カメラのレンズの向こう──まさに、この逢沢家のリビングでテレビを見つめている俺の姿を、まっすぐに見据えた。
そして、マイクに向かって、はっきりと、この日本中の電波に乗せてこう告げたのだ。
「──空君、愛してるよ」
その瞬間だった。
テレビの向こうのスタジオ観客席から、「きゃああああっ!!」「今の誰に向かって!? え、告白!? やばい!!」「告白したーっ!! 電波ジャックだーっ!!」という黄色い歓声とどよめきが一斉に沸き起こった。
ネットのSNSのタイムラインも、瞬く間に「今の誰!?」「レイナちゃん可愛すぎんだろ!」「空君って誰だうらやましすぎる!」という阿鼻叫喚の嵐と祝福のコメントで埋め尽くされていく。
リビングで見ていた萩原桜は「ひゃうっ……!?」と小さく肩を跳ねさせながらも、おどおどしながら「れ、玲那さん、すごい大胆……!」と真っ赤になって小声で呟き、凛ちゃんが「お兄ちゃん、玲那お姉ちゃんがテレビでお兄ちゃんのこと好きって言ったよ!」と俺の服を引っ張って大はしゃぎする。
母さんと咲さんは「もう、大胆なんだから……ふふっ」と優しく微笑み、泉ちゃんは「うわぁぁぁ、ロマンチックすぎますぅ……!」と自分の頬を押さえて悶絶し、嘉島先輩は、「やるね、玲那ちゃん!」とビシリと嬉しげにサムズアップしていた。
そして、テレビの中で玲那さんは、少しだけイタズラっぽく、そしてこの世界で一番愛しい笑顔を浮かべて、静かにキーボードの最後の和音を奏でた。
その姿を見つめながら、俺の胸の中には、熱い感情がこみ上げてきて仕方がなかった。
§
振り返れば、俺の歩いてきた道は、決して平坦なものではなかった。
無実の罪を着せられ、学園という名の閉ざされた社会から徹底的に弾き出され、悪意の嵐の中で孤独に絶望しかけた日々。
けれど、その暗闇の中で、俺は一人ではなかった。
絶望の淵から救い出してくれた弁護士の桐乃姉さん。
いつもお気楽に見えて、いざとなれば最強の拳で守ってくれた爽花さん。
無邪気な笑顔で心を温めてくれた凛ちゃん。
不器用ながらも命がけで真実を暴いてくれた水瀬葵や、今やかけがえのない創作の相棒である泉ちゃん。
周囲の目がどれほど冷たく変わろうとも、ずっと俺の無実を信じ続けてくれた萩原桜。
俺のイラストのファンだと言って、学内での名誉回復に一役かってくれた嘉島先輩。
そして、どんなに傷ついても、お互いの手を決して離さず、共に光の中へと歩いてきた愛しい人──玲那さん。
腐りきった権力や偽りの城は、真実という名の鉄槌によって完全に打ち砕かれた。
傷つき、涙を流し、何度も心が折れそうになりながらも、俺たちは自分たちの力で、自分たちの未来をこじ開けたのだ。
もう、怯える必要なんてない。
頭を垂れて、理不尽な悪意に耐え忍ぶ必要もない。
俺たちの前には、どこまでも青く、どこまでも果てしない自由な大空が広がっている。
絵を描く喜びを胸に、商業イラストレーターとして新たな一歩を踏み出した俺と、キーボードを奏でながら日本中にその歌声を響かせるメジャーアーティストとなった玲那さん。
そして、大切な家族や友人たちと共にある、この温かくてかけがえのない日常。
テレビ画面の向こうで輝く玲那さんの笑顔と、目の前で楽しそうにはしゃぐ家族たちの温もりを感じながら、俺は深く、そして力強く息を吸い込んだ。
物語は終わらない。
これは終わりではなく、俺たちが本当の意味で自分らしく、愛する人たちと共に歩んでいく、新しい人生の始まりなのだから。
青空の向こうへと続く未来へ向かって、俺たちはそれぞれの翼を大きく広げ、力強く羽ばたいていく。
(了)




