第63話 春の息吹、そして羽ばたく翼たち
長く、そして冷たかった冬が終わりを告げ、街には柔らかな春の風が吹き始めていた。
三月下旬。
碧陵学園の敷地内には、桜の蕾が今にもほころびそうなほどにふっくらと膨らみ、暖かな日差しがキャンパスを黄金色に染め上げている。
かつてこの学園を支配していた重苦しい隠蔽体質や、一部の権力者たちによる歪んだ支配構造は、完全に過去のものとなっていた。新しい理事長と校長や教頭らが就任し、風通しの良くなった学園には、生徒たちの心からの笑い声が響き渡っている。
そんな穏やかな学園生活の合間にある休日の午後。
逢沢家の二階にある、日当たりの良い広々とした一室。そこは今、俺と泉ちゃんの二人が立ち上げた同人サークルの専用アトリエとして使われていた。
「よしっ、空先輩! この背景のベタとトーン処理、終わりました! どうですか?」
ペンタブレットから顔を上げ、泉ちゃんが嬉しそうに声を弾ませた。彼女の瞳は生き生きと輝き、かつて美術部で吉岡美誓たちに虐げられ、怯えていた頃の暗い影など微塵も感じさせない。
「お、早いな。見せてみろよ……うん、完璧だ。泉ちゃん、本当にデジタルツールの使い方が上達したな。光の入り方とか、俺が指示した以上のクオリティになってる」
「えへへ、本当ですか? 空先輩が丁寧に教えてくれるおかげですよ! それに、私、今こうして先輩と一緒に絵を描けている時間が、本当に楽しくて仕方ないんです!」
泉ちゃんは満面の笑みを浮かべ、少し照れくさそうに頬を掻いた。
あの一連の事件の後、腐りきっていた美術部をすっぱりと辞めた泉ちゃんと俺は、新しい活動の拠点としてこの逢沢家の一室を借り、二人組の同人サークル『シエル&スルス』を立ち上げた。
『シエル』はフランス語で『空』、『スルス』は『泉』を意味する。俺たちの名前を掛け合わせたそのサークル名には、どんなに深い闇の中にあっても、空を見上げ、こんこんと湧き出る泉のように枯れることのない創作への情熱を注ぎ込もうという、二人の強い決意が込められていた。
「いや、泉ちゃんの吸収力がすごいんだよ。それに、泉ちゃんの描くキャラクターの衣装デザインや小物のセンス、俺にはない繊細さがあって本当に助かってる」
「そんな、私なんてまだまだ先輩の足元にも及びませんよ。空先輩の描くキャラクターの表情や、画面全体から伝わってくる圧倒的な世界観……私、いつも隣で見ながら鳥肌が立っちゃうんですから」
泉ちゃんの言葉に、俺は少し照れくさくなって頭を掻いた。
サークル『シエル&スルス』の活動は、俺たちの予想を遥かに超える反響を呼んでいた。
ネット上で公開したイラストや短いショートコミックは、瞬く間に拡散され、SNSのフォロワー数は数万、数十万と爆発的に伸び続けていた。俺の持つ画力と、泉ちゃんの持つ柔らかな色彩感覚が絶妙な化学反応を起こし、多くの人々の心を掴んで離さないらしい。
先日開催された中規模の同人誌即売会に初めてサークル参加した際も、用意していた新刊のイラスト集とグッズは、開場からわずか一時間で完売してしまったほどだ。
「そういえば、空先輩。さっきから先輩のスマホ、メールの通知が鳴りっぱなしですよ? なにか重要な連絡じゃないですか?」
泉に指摘され、俺はデスクの隅に置いてあったスマホを手に取った。
「ん? ああ、本当だ。ええと……」
画面に表示されていた送信元の名前を見た瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
それは、国内でも最大手の規模を誇る出版社の、ライトノベル編集部からのメールだった。
「どうしたんですか、先輩? そんなに真剣な顔をして」
泉ちゃんが不思議そうに首を傾げて覗き込んでくる。
「い、泉ちゃん……これ……」
俺は震える指でメールの本文を開き、そこに綴られた文面を信じられない思いで目で追った。
『突然のご連絡失礼いたします。株式会社〇〇出版、編集部の高橋と申します。以前より、SNSおよび同人活動での『シエル&スルス』様の、特に遠坂空様の描かれるイラストを拝見しており、その圧倒的な表現力と魅力的なキャラクターデザインに大変感銘を受けておりました。
つきましては、弊社の看板レーベルより今夏創刊予定の、大型新作ライトノベルのメインイラストレーターとして、ぜひ遠坂様にご依頼できないかと思い、ご連絡差し上げました。
また、可能であれば、庵原翡翠先生(お母様であることを存じ上げております)の弊社で刊行する予定の次回作の装画・挿絵につきましても、親子の枠を超えたプロのクリエイターとして、正式にタッグを組んでいただきたいという企画が立ち上がっております──』
「商業からの……メインイラストレーターのオファー……。しかも、母さんの小説の挿絵まで……」
俺の口から漏れた言葉に、泉ちゃんは目を丸くして数秒間固まり、やがて「えええええええっ!?」と部屋中に響き渡るような大声を上げた。
「ほ、本当ですか!? 商業デビュー!? しかも大手出版社のメインイラストレーター!? わあああ、すごいです、空先輩! すごすぎます!!」
泉ちゃんは自分のことのように大興奮し、椅子から飛び上がって俺の両手をガシッと握りしめてきた。
「お、おい泉ちゃん、落ち着けって……」
「落ち着けるわけないじゃないですか! これは大事件ですよ! 以前のセミフィクション小説の表紙に続いて、今度は大作ラノベのメインイラストレーター! やっぱり、空先輩の才能が世間に見つからないわけがなかったんです! 私、すっごく、すっごく嬉しいですっ……!」
泉ちゃんの大きな瞳には、感激の涙がキラキラと浮かんでいた。
かつて、俺はその才能を嫉妬され、絵をズタズタに引き裂かれ、捏造された事件によって筆を折る寸前まで追い詰められた。暗闇の中で、二度とキャンパスに向かうことはできないと絶望した夜もあった。
だが、俺は筆を捨てなかった。周りの温かい人たちに支えられ、もう一度、前を向いて描く喜びを取り戻すことができたのだ。
その結果が、今こうして再び目に見える形となって、未来への扉を開こうとしている。
「……ありがとう、泉ちゃん。君が隣で一緒に描いてくれたから、俺はここまで来れたんだ」
俺が心からの感謝を伝えると、泉ちゃんは顔を真っ赤にしてフルフルと首を横に振った。
「違いますよ。先輩の努力と才能です。でも……これからも、ずっと先輩の隣で、アシスタントとして、一番のファンとして、一緒に描かせてくださいね!」
「ああ、もちろん。俺たちのサークルは、二人で一つだからな」
俺と泉ちゃんは、お互いの顔を見合わせて、春の日差しの中で心からの笑顔を交わし合った。
§
その日の夕方。
リビングルームへと降りていくと、そこにはいつも以上に華やかで賑やかな空気が満ちていた。
キッチンでは、今日の夕食はデリバリーを頼むから空君はゆっくりしてて、と言っていた爽花さんと桐乃さんが豪勢な夕食の準備をしており、ソファには学校帰りの凛ちゃんが座ってテレビを見ている。
そして、その中心には、どこか落ち着かない様子で、隠しきれない喜びを顔に滲ませた玲那さんが座っていた。
「あ、空君! 泉ちゃんも、作業お疲れ様!」
玲那さんが俺たちに気づき、パッと花が咲いたような笑顔を向けてくれた。
「玲那さん、おかえり。なんだか今日、すごく楽しそうだけど、何かあった?」
俺が不思議そうに尋ねると、キッチンから爽花さんが顔を出して代わりに答えた。
「ふふーん、実はね、今日は我が逢沢家にとって、めちゃくちゃおめでたいダブルの吉報が舞い込んだ記念すべき日なのよ!」
「ダブルの吉報?」
「そう! まず一つ目は、玲那ちゃんから発表があるよ!」
爽花さんに促され、玲那さんは少し照れくさそうに立ち上がり、俺の前に歩み寄ってきた。
「あのね、空君……。私、今日、音楽事務所の人たちと打ち合わせをしてきたんだけど……」
玲那さんは両手を胸の前でギュッと組み、深呼吸をしてから、はっきりとした声で告げた。
「私……今年の夏に、メジャーレーベルから正式にCDデビューすることが決まったの!」
「えっ……! メジャーデビュー!?」
俺と泉ちゃんは、思わず声を揃えて叫んでしまった。
「すっげええええ! 玲那さん、おめでとう!!」
凛ちゃんもソファから飛び起きて、「やったー! 玲那お姉ちゃんがテレビに出るー!」と大はしゃぎしている。
ネットシンガー・レイナとしての彼女の実力は、すでにネット界隈では伝説的なものになっていた。特に、あの命がけの告発配信で初めて顔出しをして以来、その圧倒的な美貌と、真実を貫く力強い歌声は、多くの大衆の心を掴み、社会現象とも言えるほどのブームを巻き起こしていたのだ。
水面下で複数の大手レコード会社による激しい争奪戦が繰り広げられていたことは知っていたが、ついに正式なメジャーデビューが決定したのだという。
「ありがとう……。まだ全然実感が湧かなくて、夢みたいなんだけどね。でも、私がここまで来られたのは、空君が私の歌を、一番に信じてくれたからだよ」
玲那さんは、少し潤んだ瞳で俺を見つめ、優しく微笑みかけてくれた。
「俺は何もしてないよ。玲那さんの歌が、それだけたくさんの人の心に響いた証拠だ。本当に……おめでとう、玲那さん」
「えへへ、ありがとう。これからもっと忙しくなるかもしれないけど、でも私、空君たちのためにずっと歌い続けるからね」
玲那さんの温かい言葉に胸が熱くなる中、桐乃さんがエプロン姿のまま、ワイングラスを片手にクールな笑みを浮かべて近づいてきた。
「さて、玲那のメジャーデビューが一つ目の吉報。そして、二つ目の吉報なんだけど……空君、あなたの方にも、何かいい知らせがあったんじゃないかしら?」
桐乃さんの鋭い指摘に、俺は思わずハッとした。
「あ、あの、どうしてそれを……」
「さっきから泉ちゃんが自分のことみたいにニヤニヤして、あなたの服の裾を引っ張ってるじゃない。なにか良いことがあったって言ってるようなものよ」
桐乃さんに指摘され、泉ちゃんは「あわわっ」と慌てて手を離した。
「実は……俺も今日、大手の出版社から、ライトノベルのメインイラストレーターと、母さんの小説の挿絵の仕事のオファーをもらったんです」
俺が少し照れながら報告すると、リビングの空気が一瞬ピタリと止まり、次の瞬間──。
「「「「ええええええええええええっ!!??」」」」
玲那さん、爽花さん、桐乃さん、凛ちゃんの四人から、割れんばかりの歓声が上がった。
「やったわね、空君! 再びの商業デビューじゃない! しかもまたお母様の小説のって、最高の親孝行じゃないの!」
爽花さんが興奮冷めやらぬ様子で、俺の背中をバンバンと叩く。
「空君……すごい、本当にすごいよ! 私たち、一緒に夢を叶えられたんだね……っ!」
玲那さんはついに感極まって、俺の胸にバフッと飛び込んできた。その柔らかな感触と、嬉し泣きしている温かい温もりに、俺の心臓は再び早鐘のように打ち鳴らされた。
「ちょっとちょっと玲那お姉ちゃん、抜け駆けはずるいよー! 私も空お兄ちゃんにハグするー!」
凛ちゃんも負けじと俺の腰に抱きついてきて、泉ちゃんも「私も、私もいいですかっ!?」とオロオロしながら俺の腕にギュッとしがみついてきた。
「お、おい、苦しいって……!」
三人から一斉に抱きつかれ、俺は照れくささと喜びでどうにかなりそうだった。
その微笑ましい光景を、爽花さんと桐乃さんは優しく見守っていた。
「ふふっ、今日は最高のお祝いパーティーにしないとね。ご馳走を用意したわよ」
「二人が乗り越えてきた試練を思えば、これくらいの幸運と成功は、当然の報いというものだね」
姉妹は顔を見合わせ、温かな笑い声を立てた。
§
その夜の夕食は、これまでにないほど賑やかで、笑顔の絶えない時間となった。
テーブルには爽花さんと桐乃さんが頼んでくれたフルコースの料理が並び、乾杯のグラスが何度も打ち鳴らされた。
玲那さんがデビュー曲のレコーディングの裏話を照れくさそうに語り、泉ちゃんがサークルの今後の野望を熱く語り、俺がイラストの構図について真剣に答える。凛ちゃんが学校での面白かった出来事を身振り手振りで話し、爽花さんと桐乃さんがそれを笑顔で聞いて相槌を打つ。
当たり前のようでいて、決して当たり前ではないこの温かな日常。
かつての俺は、他人の悪意に押しつぶされ、たった一人で世界中を敵に回したような絶望の中で息を潜めていた。
どうして自分だけがこんな目に遭うのかと、一時は運命を呪った。
だが、今は違う。
俺の隣には、かけがえのない大切な人たちがいる。
俺の筆を信じてくれる人がいる。俺の描く世界を愛してくれる人がいる。
「……空君」
ふと、隣に座っていた玲那さんが、テーブルの下でそっと俺の手を握ってきた。
振り返ると、少しだけ頬を赤く染めた玲那さんが、宝石のように澄んだ瞳で俺を見つめていた。
「私ね、空君に言いたいことがあるの」
「言いたいこと……?」
「うん。私が、空君の光になりたい。空君がこれからどんな壁にぶつかっても、私が隣でずっと歌い続けるから。空君の描く空を、私が一番近くで見守らせてね」
その言葉は、どんな甘い歌声よりも、俺の心の最も深い場所に優しく響き渡った。
「……ありがとう、玲那さん。俺も、玲那さんの歌声に何度も救われた。俺たちが一緒にいれば、きっとどこまででも飛んでいける気がするよ」
俺がそう答えると、玲那さんはこの世界で一番美しい笑顔を咲かせた。
窓の外では、春の夜風が桜の枝を揺らし、遠くで一番星がキラリと瞬いていた。
悪意に満ちた長い冬は終わり、俺たちはついに、自分たちの力で新しい扉をこじ開けたのだ。
俺のキャンバスには、まだ何も描かれていない。
けれど、これから描く未来は、きっと果てしなく青く、そしてどこまでも温かい色彩で満ち溢れているはずだ。
『シエル&スルス』としての新しい創作、商業イラストレーターとしてのプロの道、そして、メジャーデビューを果たす玲那さんの輝かしいステージ。
それぞれの翼を大きく広げ、俺たちは春の息吹とともに、新たな大空へと力強く羽ばたいていく。




