第62話 青空の下の抱擁、そして救済のファーストキス
すべての嵐が去り、街は穏やかな冬の光に包まれていた。
藤嶺徹という悪夢は、完全に終わった。
あいつは社会的にもう死んだも同然だし、警察の捜査と裏社会からの制裁によって心身ともに破壊し尽くされ、男としても二度と女性を抱けず、自慰すらできない不能になった。
あとは少年院という閉ざされた檻の中で、誰からも省みられることなく絶望の日々を過ごすだけ。
そこから何年か経って社会に出てきたとしても、待っているのは冷たい視線と、這い上がることのできない底なしの孤独、そして惨めな未来だけだ。自業自得の報いが、あいつの人生を永遠に縛り続ける。
けれど。
だからといって、私の心の闇が完全に晴れたわけではなかった。
あいつらに、そしてあの薄汚い半グレどもの夜会で、見知らぬ男たちに心を踏みにじられ、身体を弄ばれたという厳然たる事実は、どれだけ時間が経っても決して消えることはない。
私の身体の奥底には、あの時の汚辱の感触が、今でも呪いのようにこびりついて離れなかった。
「……私なんて、もう……」
一人で公園のベンチに座っていた私は、冷たい冬の風に吹かれながら、自嘲気味にふっと乾いた笑いをこぼした。
こんなふうに汚されきってしまった私が、普通の女の子のように誰かを愛し、愛され、女としての幸せな未来を掴むことなんてできるのだろうか。
いや、きっとそんな資格はもうどこにも残っていない。
私という存在そのものが、あの夜の闇に沈んだまま、一生汚れ続けるのだ。
あまりにも重い澱んだ思考に囚われながら、私は現実逃避をするように、なにげなく頭上を見上げた。
そこには、真冬の寒さが嘘のように、嫌みなくらいに抜けるように澄みきった青空が、どこまでも広がっていた。
あまりにも美しすぎるその青さは、かえって私の汚れた心を残酷に浮き彫りにするようで、胸が締め付けられるように痛んだ。
と、その視界を突然、ふわりと温かな影が遮った。
「葵ちゃん」
不意にかけられた、低く優しく響く声。
聞き覚えのある、けれど今の私にはあまりにも眩しすぎるその声に、心臓が大きく跳ね上がった。
「え……?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、信じられない人物だった。
「翔一……さん……?」
それは、私の従兄のお兄ちゃんであり、幼い頃からずっと私を可愛がってくれていた翔一さんだった。
地元は同じだけど、翔一さんは他県の大学へと進学し、マンションで一人暮らしを始めたので、それ以来、お盆や正月に実家で顔を合わせることもなくなっていた。最後に会ってから、もう二年ほど経っている。
それでも、私は片時も彼のことを忘れたことはない。
なぜなら、彼は私の、大切な初恋の相手だったからだ。
物心ついた頃から、誰よりも優しく、不器用な私をいつも真っ直ぐに肯定してくれた誠実な彼に、私は密かに、そして深く想いを寄せていた。
いつか大人になったら、この想いをちゃんと打ち明けて、彼と結ばれたら、どれほど幸せだろうと夢見ていた。甘くて切ない、私の青春のすべてがその名前に詰まっていた。
けれど、それはかつての私、まだ何の色もついていなかった頃の私の夢物語だ。
今の私には、彼の隣に立つ資格はない。
卑劣な男たちによって汚されつくした私なんかが、素敵な翔一さんと結ばれようなんて、考えるだけでもおこがましいことだ。
そう思った瞬間、心臓を締め付けられるような思いがした。
あふれそうになる涙を、私は必死に、奥歯を噛み締めてこらえた。
震える声を悟られないように、唇をきつく引き結び、精一杯、気丈な笑みを作ってみせる。
「どうしたの、翔一さん……。こんなところで、突然……」
できるだけ何でもない風を装ったつもりだったけれど、その声はかすかに上ずり、自分でも情けなくなるほど頼りなかった。
「葵ちゃんが、心配になってさ」
翔一さんは、心配そうに眉をハの字に曲げ、ゆっくりと私の隣のベンチに腰を下ろした。
「あ……」
そうだよね……。あんなに世間を騒がせた、あの巨大な事件だもん。親戚の耳にも、当然のように届いていたのだろう。私の名前こそ大々的に報道されなかったとしても、身内であれば噂を聞きつけてもおかしくはない。
よりによって、一番知られたくなかった人。
一番尊敬し、一番彼の前では綺麗でいたいと願っていた初恋の人に、こんな最悪の形で知られてしまった。恥ずかしさと情けなさで、今すぐにでもこの地面に穴を掘って埋まりたい衝動に駆られた。
「翔一さんにだけは……そんな惨めな自分、知られたくなかったけど……しかたないか……」
俯いたまま、ぽつりと呟いた私に、翔一さんは優しく首を横に振った。
「君が傷つけられたって聞いて、居ても立ってもいられなくなってこっちに戻ってきたんだ。思い出したくない記憶だろうから、その事件の細かい中身や、つらいことにはあえて触れないよ。ただ、これだけは、どうしても葵ちゃんに伝えたいことがあって、ずっと君を探してたんだ」
「私に……伝えたいこと……?」
顔を上げると、翔一さんの瞳は驚くほど真っ直ぐで、そして真剣な熱を帯びていた。その真摯な眼差しに気圧され、私は小さく息を呑んだ。
「ああ。遠回りな言い方はやめる。率直に言うよ」
翔一さんは私の両肩にそっと手を置き、逃げ場のない距離から私を覗き込んだ。
「葵ちゃんのことが好きだ。昔から、ずっと、ずっと好きだった。子供の頃から君の兄代わりみたいに振る舞ってきたけど、心の中ではずっと一人の女性として意識していたんだ。だから、どうか、俺と付き合ってくれないか?」
「え……?」
時が止まったような感覚だった。
自分の耳を疑った。あまりにも唐突で、あまりにも夢想していた通りの言葉。
いや、今の私に向けられるはずのない、あまりにも眩しすぎる言葉だった。
「嘘……だよね……? そんなの、冗談ならやめて……だってもう、こんな汚れた私のこと……」
自分でも気づかないうちに、声が涙に濡れて震えていた。
自分の皮膚の下にこびりついているあの男たちの嫌な匂いや、冷たい感触が蘇ってくるようで、私は自分の両腕を抱きしめるように身を縮こまらせた。
「汚れてなんかない!!」
けれど、翔一さんは私の自虐的な言葉を、怒ったような、それでいて深い愛しさに満ちた声で力強く遮った。
「翔一さん……っ」
「葵ちゃんは今でも、昔のままの、誰よりも綺麗な葵ちゃんだよ! もし、それでも君の中で、拭えない傷とか、どうしても消せない過去の恐怖があるっていうなら……そんなの、全部俺がこの手で上書きして、完全に消し去ってやるよ!」
「そんなこと……できるわけないよ……私、もう元には……」
「できる。俺が何度でも、何度だって君を愛して、君の心を温めてみせる。だから、自分を卑下するなよ、葵ちゃん。俺は、世界中の誰が何と言おうと、葵ちゃんじゃなきゃダメなんだ。君以外の女性なんて考えられないんだよ」
翔一さんの言葉は、一言一句が私の乾ききった心にしみ込んでいくようだった。
それは同情なんかじゃない。憐れみなんかでもない。紛れもなく、私という一人の人間を、丸ごと受け入れようとしてくれる、燃えるような熱を持った本物の愛だった。
「翔一さん……本当にいいの……こんな私でも……本当に、私を抱きしめてくれるの……?」
「当たり前だろ。これからは俺が君のことを一生かけて守ると誓うよ。二度と、あんな奴らには絶対に近づかせない。誰にも君を傷つけさせたりなんかしないから……!」
「翔一さんっ……!!」
もう、これ以上我慢することはできなかった。
私のなかで張り詰めていた最後の糸が、プツリと音を立てて切れた。
私は堪えきれずに出た嗚咽とともに、翔一さんの広い胸へと勢いよく飛び込んだ。
「私……ずっと、ずっと辛かったの……っ……! あんなことされて、身も心もボロボロになって……もう、大好きな翔一さんにも一生合わせる顔がないって、ひとりで泣くしかなかったの……っ!」
「うん……うん……よく頑張ったね、葵ちゃん。もう一人で耐えなくていいんだよ。これからは、俺と二人で、新しい幸せを作っていこう」
翔一さんは、私の震える背中にしっかりと腕を回し、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、力強く抱きしめてくれた。
彼の胸から伝わってくる体温は、驚くほど温かくて、大きくて、そして優しかった。
あの冷たくて不気味だった半グレたちの体温や、藤嶺のいやらしい湿った感触とはまったく違う、心から安心できる、愛しい人の温もりだった。
「うん……っ、翔一さん、大好き……大好きだよ……っ!」
「俺もだよ、葵ちゃん。愛してる。世界中の誰よりも、君を愛してる」
互いの体温を確かめ合うように抱き締め合い、私たちはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた私の長い睫毛を、翔一さんが愛おしそうに指先でそっと拭ってくれる。その優しい仕草に、胸が熱く震えた。
そして、自然と引き寄せられるように、私たちは顔を近づけていった。
見つめる彼の瞳には、もはや迷いも恐れもなく、ただ純粋で焦がれるように愛を求めようとする小女だけが映し出されている。
やがて、ふたつの唇が、そっと重なり合った。
それは、世界で一番優しくて、温かいキスだった。
卑劣な男たちにどれだけ身体を弄ばれ、尊厳を踏みにじられても、誰にも触れさせずに必死で守り続けた私のファーストキスは、今、この瞬間、世界中で一番愛する最愛の彼へと捧げられた。
唇を通じて流れ込んでくる彼の優しさが、私の隅々まで行き渡っていくのを感じる。
甘く、切なく、そしてどこまでも満たされるような口づけ。
その最高に甘いキスを交わしながら、私はふと気づいていた。
私の心の一部を、ずっと暗く、冷たく染め上げていたあの忌まわしい闇が、今度こそ完全に、綺麗さっぱり払われていくのを。
過去の傷が消えるわけじゃない。受けた痛みがすべてチャラになるわけでもない。
けれど、私には未来がある。
この温かな腕の中には、私を心から愛し、守ってくれる人がいる。
青空の下、私たちはしっかりと手を繋ぎ、新しい光に満ちた明日へと、ゆっくりと歩き出した。




