第58話 すべての崩壊
Side:赤羽架純
煌びやかなシャンデリアの光、甘い香りを放つ煙、そして脳髄を揺さぶるような重低音の音楽。
あの日、あの地下のVIPルームで、私は何を考えていたのだろう。
私は赤羽架純。
碧陵学園におけるスクールカーストの頂点に立ち、美貌と財力を武器に、周囲の人間をまるで手駒のように従えて生きている──そう信じて疑わなかった。
遠坂空をねじ伏せ、学園の秩序を自分たちの都合の良いように塗り替えていくことに、歪んだ快感を覚えていた。
藤嶺徹という絶対的な権力の背中に寄り添い、私たちは永遠にこの特権的な世界の王でいられるのだと、本気で思い込んでいた。
だけど、その永遠は、あまりにも脆く、一瞬にして音を立てて砕け散った。
ネットシンガー・レイナによる生配信、そして水瀬葵の裏切りによって拡散された告発データ。
それらは、私たちが隠し通そうとしていたすべての闇を、容赦なく太陽の光の下に引きずり出した。
あの日の夜、ネット上にばらまかれた映像を見た瞬間、私の足元にあったはずの堅固な大地は忽然と消え失せ、底知れない泥沼へと変わっていた。
そして今、私は自宅の豪奢なリビングルームの冷たいフローリングの上に、まるでゴミのように投げ出されていた。
「っ……がはっ……!」
頬を強烈に打たれた衝撃で、私の身体は勢いよく床を滑り、アンティークのローテーブルの脚に激しく打ちつけられた。口の中に広がる、鉄のような生暖かい味。喉の奥がヒリヒリと痛み、息をするのも苦しい。
目の前に立っているのは、私の父親だった。
いつもなら完璧に整えられたスーツを纏い、威厳に満ちた笑みをたたえているはずの父。
けれど、今の父の顔には、そんな仮面のかけらもなかった。額に青筋を浮かべ、目は血走り、その手には革製のベルトが握られ、怒りと恐怖で細かく震えていた。
「この……! このドクズが……ッ!!」
怒号とともに、父の前蹴りが私の腹部に容赦なく突き刺さった。
「ぐっ……! お父様、待っ……痛い……っ!」
「ふざけろ! お前のせいで、我が赤羽家が何十年とかけて築き上げた信用が、一瞬ですべて台無しになったんだぞ!」
父は息を荒くしながら、再び私を睨みつけた。
リビングの壁掛けテレビの画面には、今もなおニュース番組やネットの速報が映し出されている。
そこには、『赤羽グループの令嬢が違法薬物パーティーに関与か』『半グレ組織との癒着疑惑、スクールカースト崩壊の裏側』という見出しが、これでもかとばかりに踊っていた。
そう、私もあの地下のドラッグパーティーに参加していたのだ。
藤嶺に誘われ、退廃的な空間の中で、私もまた違法な薬物に手を出し、若い男女が入り乱れる醜態に加わっていた。
自分の悪事が暴かれるはずがないと高をくくり、その場の快楽と歪んだ優遇感に溺れていた結果がこれだった。
「わ、私も……ハメられたのよ……! あいつらが、水瀬葵や、遠坂たちが仕組んだ罠で……っ!」
必死の言い訳を口にした瞬間、父の顔がさらに鬼気迫るものに変わった。
「言い訳するなっ!! 罠だろうがなんだろうが、お前がその場にいて、あんな下劣な真似に加担していたという事実が問題なんだよ! 警察はすでに動き出している。あの下劣なパーティーのすべてが、すでに捜査機関に押さえられているんだ!」
父のその言葉に、私は全身の血が凍りつくような感覚を覚えた。
「け、警察が……? 私が、逮捕されるって……言うの……?」
「当たり前だ!」
父は怒りのあまり、手元の革ベルトを床に叩きつけた。パーン、と乾いた激しい音がリビングルームに響き渡る。
「お前はもうすぐ、近いうちに必ず警察に逮捕される! 未成年だからといって、これだけの社会的大問題を引き起こし、薬物と半グレ組織の関与が認められれば、実名報道は免れまい。お前の人生は、もう終わりだ。いや、赤羽家の名前を汚したお前を生かしておく価値など、どこにもない……っ!」
父親の冷酷な瞳には、愛する娘を見る色など微塵もなかった。そこにあるのは、自分自身の社会的な地位や名誉が脅かされていることへの激しい憎悪と、役立たずの駒を切り捨てる冷徹な損得勘定だけだった。
私は恐怖と絶望に震えながら、ただ床に這いつくばって泣き叫ぶことしかできなかった。あんなに誇らしかった自分の立場も、美しさも、すべてが音を立てて崩れ落ちていく。
§
どれくらいの時間が経っただろう。
父が荒々しく書斎へと去り、冷え切ったリビングで一人、私は膝を抱えてうずくまっていた。
頭が割れるように痛い。身体中のあちこちに青あざができ、動かすたびに痛みが走る。
もうおしまいだ。私の一生は、ここで終わるんだ。
そう思いながら、虚ろな目で宙を見つめていると、リビングの重厚な自動ドアがガチャリと音を立てて開いた。
そこに慌てふためいた様子で飛び込んできたのは、我が家の顧問弁護士を務める柊木だった。
彼はいつもなら冷静沈着で、どんなトラブルであっても涼しい顔で解決してみせる優秀な男だったはずだ。
でも、今の柊木の顔面は蒼白で、額には滝のような汗が流れ、手にしたブリーフケースを落としそうになりながら、息を切らしてリビングへと駆け込んできた。
「た、大変です……! 赤羽会長はどこですか……っ!」
柊木は私の姿を一瞥すると、半狂乱のような声で叫んだ。
「柊木先生……? いったい、どうしたっていうんですか……?」
私が掠れた声で問いかけると柊木はブルブルと震える手でメガネを押し上げ、信じられない言葉を吐き出した。
「た、大変なことになりました……! お嬢様の薬物事件の対応に追われている最中、検察と国税庁が……我が赤羽グループの本社へ、突然の強制捜査に入ったのです……!」
「……は……? 強制捜査……って、どういうこと……?」
私の頭が真っ白になる。父の会社は、国内でも有数の巨大企業だ。警察がどうこうというレベルの話ではないはずだった。
けれど、柊木の次の言葉は、私の想像を絶する悪夢の始まりだった。
「脱税です……! 長年にわたり、グループ企業全体で数億、いや数十億円規模に及ぶ『巨額の税金の不正隠蔽』が、今回のスキャンダルをきっかけに明るみに出てしまったのです……!」
「ぜ、税金の不正隠蔽……!?」
「そうです……! あなたが起こしたネットでの騒動と、半グレ組織との癒着スキャンダルが引き金となり、マスコミや国税庁が赤羽グループの裏の金の流れを徹底的に洗う事態になった。その結果、裏金作りの実態や、隠し口座、そして数々の脱税の証拠が完璧に押さえられてしまったのです……!」
柊木の言葉は、まるで映画の台詞のようだった。
だけど、目の前で本気で取り乱している彼の姿が、それが現実であることを残酷に証明していた。
「それだけではありません……!」
柊木はさらに絶望的な顔を歪め、声を裏返させた。
「裏社会のマネーロンダリングや、グループ企業による違法な不正融資、さらには環境汚染の隠蔽工作といった、数々の企業の重大な不祥事までもが次々と明るみに出ました。世間の非難は最高潮に達し、今この瞬間も、当社の株価はストップ安を連発して大暴落しています……!」
「か、株価が……大暴落……?」
「はい……! すでに市場からの信用は完全に失墜し、銀行からの融資もすべて凍結されました。このままでは、グループ全体の『倒産』も秒読み段階です……! もはや、我が赤羽グループを救う手立ては、どこにもありません……ッ!!」
柊木はその場で崩れ落ちるように膝をつき、頭を抱えて絶望の声を漏らした。
私のせいで──。
私が、あの時、遠坂空をあざ笑い、裏で藤嶺たちと一緒になって彼を徹底的に陥れようとしたから。
私たちが犯した小さな傲慢さと、隠し通せると思っていた数々の悪事が、巨大な雪だるま式に転がり、最終的に我が家のすべてを根底から破壊する巨大な隕石となって跳ね返ってきたのだ。
もし、あのとき。
私たちが空をあんなふうに踏みにじらなければ。
もし、私たちが自分の保身や歪んだプライドのために、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるような真似をしなければ。
こんなことにはならなかった。
我が家が崩壊することも、父にあんなふうに暴力でボコボコにされることも、私が犯罪者として警察に連行される未来が待っていることも、すべてが起きなかったはずなのだ。
でも、すべては、手遅れだった。
自分が蒔いた悪意の種は、見事に巨大な毒の花を咲かせ、今まさに、私自身と私の家族の首を絞め上げて窒息させようとしている。
「あ……あぁ……あぁぁぁっ……!」
私は自分の頭を両手で抱え込み、リビングの冷たい床の上で、声を殺して泣き叫んだ。
逃げ場などどこにもない。救ってくれる人間など、誰もいない。
私たちが空に与えた絶望の何倍もの巨大な絶望が、今、完全に私たちのすべてを飲み込もうとしていた。
終わったのだ。
私たちの栄光も、プライドも、未来も。
すべては、あの遠坂空という存在を軽んじた瞬間から、狂い始めていたのだ。




