第57話 終わりの始まり、底なしの地獄
Side:藤嶺徹
すべてが音を立てて崩れ去るというのは、こういうことを言うのだろう。
つい先日まで、俺は碧陵学園の王として君臨していた。
どれだけ世間が騒ごうとも、どれだけネットの風向きが変わろうとも、金と権力、そして恐怖で周囲をねじ伏せれば、俺の足元が揺らぐことなどないと思っていた。遠坂空というちっぽけな存在を踏みつけにし、俺の思い通りに世界を回すことなど容易いと本気で信じ込んでいた。
だが、その王城は、あの夜の生配信によって一瞬で灰燼に帰した。
ネットシンガー・レイナ──逢沢玲那が暴いた校舎裏での俺たちと空との会話、そして水瀬葵の裏切りによって拡散された裏社会とのつながりと違法薬物の証拠。それらは津波のように押し寄せ、俺の築き上げたすべてを根こそぎ押し流した。警察が動き出すより早く、俺の携帯電話は鳴りやまない怒号と、実家からの冷酷な切り捨ての通告でパンクしていた。
逃げなければならない。そう思った時には、すでに遅かった。
そして今、俺は、泥と腐葉土の臭いが立ち込める冷たい雑木林の中に転がっていた。
「……っぐ……う……」
全身の骨が軋むような激痛。視界は涙と血で滲み、まともに前を見ることもできない。口の中には生暖かい鉄の味が広がっていた。
ついさっきまで、俺はあの裏社会の人間──半グレグループのリーダーに呼び出され、倉庫の薄暗い一角で連中に囲まれ、理由も聞かされぬまま壊されるほどにボコボコに殴りつけられていたのだ。
なぜだ。あいつらとは裏で繋がっていたはずだ。金も払っていたし、厄介な仕事を処理してもらうための道具として、良好な関係を築いているつもりだった。
けれど、いざ俺たちが決定的なスキャンダルで社会的に終わったと知るや否や、連中の態度は一変した。
『使えないクズが警察沙汰の種をまきやがって。お前らのせいでこっちまで警察の捜査が入りそうなんだぞ。どう落とし前つけてくれるんだ?』
憤るリーダーの靴底で、何度も顔面を踏みつけられた。プライドも、傲慢さも、高級ブランドのシャツも汚れとともに泥にまみれ、俺はただの厄介払いされるゴミとして、この人気のない雑木林へと放り投げられたのだ。
寒さと痛みに震えながら、俺は這いつくばるようにして泥を掻いた。
助けてくれ。誰か、父さん……誰でもいい、俺をここから出してくれ……。
心の中で情けない悲鳴を上げながら、俺は地面に突っ伏した。
その時、カサリ、と落ち葉を踏む乾いた音が響いた。
「……誰だ……?」
すり減った視界の先に、細い足首が見えた。
ゆっくりと視線を上げていくと、そこに立っていたのは、信じられない人物だった。
「……あ、おい……」
水瀬葵。
かつて俺がレイプ動画のネタで脅し、意のままに従わせていたはずの女。あの夜、自ら進んであの地獄のようなドラッグパーティーに現れ、俺にすり寄ってきたはずの女だった。
しかし、今の葵の瞳には、かつての怯えも、従順さのかけらもなかった。
そこにあるのは、底知れぬ冷たさと、すべてを焼き尽くすような狂気の光だけだった。
「葵……お前、どうしてここに……? なんで俺がここにいるって分かったんだよ……」
喉からしわがれた声を絞り出す俺に、葵は冷ややかな、虫けらを見るような笑みを向けた。
「どうしてって……決まっているでしょ。あの半グレのリーダーに、連絡を入れたのは私だよ」
「……は……?」
耳を疑う俺の言葉を無視して、葵は冷たく言い放った。
「『藤嶺たちを一番絶望的な方法で片付けて。場所はあの雑木林がいいわ』ってね。あいつら、私が身体を差し出したら言うこと喜んで聞いたよ。だってお前らがもう何の価値もない『終わった人間』だってこと、あいつらも一番よく分かっていたから」
「ふざ……ふざけんなっ……! お前、俺に逆らったらどうなるか……っ!」
反射的に脅し文句を口にしようとした俺の腹部に、葵の容赦ないヒールが突き刺さった。
「がはっ……!」
「ふざけてるのはどっちよ、藤嶺」
葵は蹲る俺の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。その表情のあまりの恐ろしさに、俺の背筋に凍てつくような寒気が走った。
「お前が私に何をしたか、忘れたとは言わせないよ。あの動画で脅され、心を踏みにじられ、人間の尊厳を奪われ続けた日々……あの苦しみを、お前はどれだけ理解していた? いや、理解できる脳みそなんて最初からなかったか」
「ま、待て……葵、話せば分かる……! これまでのことは謝るから……! だから、助けてくれ……!」
「助けて、ねえ」
葵はフッと鼻で笑うと、背後に立てかけてあった一本の重い金属バットを手に取った。キン、と鈍い金属音が夕闇の静寂を切り裂く。
「そんなに命乞いをする必要はないよ、藤嶺。安心して。殺したりはしないから」
葵は冷たい笑みを浮かべたまま、バットを肩に担いだ。
「ただね、私からあなたに、一生かけて償ってもらう『特別な罰』を用意してきたのよ」
「な……なにをする気だ……?」
「教えてあげる。二度と女を抱けない身体にしてあげる」
その言葉の意味を理解した瞬間、全身の血液が一気に逆流した。
「やめろ……! それだけは……それだけはやめろ、葵っ……!!」
「嫌よ。喰らえ」
「ぎゃああああああああっっ!!!」
人間の発するものとは思えないほどの絶叫が、雑木林の闇夜に響き渡った。
鈍い肉の潰れる音と、骨が砕けるような耐え難い衝撃。股間を直撃した猛烈な激痛に、俺の意識は一瞬で白濁し、そのまま泥の中に崩れ落ちた。
痛い、痛い、痛い──!!
視界が真っ暗に染まり、息ができないほどの過呼吸の中、俺の意識はそこで完全に途切れた。
§
どれだけの時間が経ったのか分からない。
気がついたとき、周囲はすっかり暗くなり、肌を刺すような夜の冷気が全身の傷口にしみ込んでいた。
動かない。身体が、まるで鉛のように重い。
特に下半身のあたりから伝わってくるのは、ちぎれそうなほどの焼けるような激痛と、言い表しようのない異物感だった。
「……うっ……うう……」
掠れた声を漏らしながら目を開けると、ぼやけた視界の中に、異様な光景が飛び込んできた。
そこには、長年風呂に入っていないようなすえた臭いを放ち、無精ひげを伸ばした、ボロボロの服を着た浮浪者らしき男がいた。その男が、あろうことか、意識を取り戻したばかりの俺の身体に馬乗りになっていたのだ。
「ひっ……! なんだ、お前……! 離れろ……っ!」
恐怖に駆られて叫ぼうとしたが、喉の奥が潰れているのか、まともな声にならない。
しかし、その浮浪者の男はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべるだけで、俺の必死の抵抗などまるで無視するかのように、容赦なく腰を振ってきた。
「ぐっ……あ……ああっ……!?」
耐え難い屈辱と、肉体が引き裂かれるような激痛が同時に脳を突き抜ける。
繊細な部位に、泥と汗にまみれた見知らぬ男の汚ない身体が容赦なく突き刺さる。拒絶しようにも、手足の骨を折られ、痛みに縛られた俺には、ただその重みを受け入れることしかできなかった。
「やめろ……! やめてくれ……っ! 頼むから……!!」
涙と鼻水まみれになりながら、俺は声を枯らして泣き叫んだ。
だが、誰も助けには来ない。警察も、家族も、かつての友人たちも、誰も俺のことなど見ていない。
激しい痛みと、全身を覆う拭い去れない汚辱感。
自分が人間から何か別の卑しい生き物へと堕ちていくような、底知れぬ恐怖と絶望のなかで、俺は自分の犯してきた罪の重さを、ようやくその身をもって知ることになった。
これが、俺の選んだ道の結末。
救いのない、永遠に終わらない地獄の底で、俺はただ声を殺して咽び泣き続けるしかなかった。




