第54話 弁護士の微笑み、会議室の攻防
Side:逢沢桐乃
私はノートパソコンの画面を閉じ、マグカップに残っていた冷めかけたコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、心配そうにこちらを見つめ、不安の色を拭えないでいる空君や玲那たちの姿がある。
「ねえ、桐乃姉さん」
爽花が、テーブルの向こう側から静かに声をかけてきた。
「さっき、姉さんが言っていたこと……学校側に正式な交渉を持ちかけるって、いったいどういうことなの?」
私はふっと薄い笑みを浮かべ、愛用の手帳をパタンと閉じた。
「文字通りの意味よ、爽花。私たちがただ防御しているだけでは、あちらの卑劣な罠や底なしの悪あがきを完全に断ち切ることはできないわ。だからこそ、こちらから仕掛けるのよ。明日、学校側の代表、および理事会の人間たちを相手に、空君の弁護士として正式な交渉の場を持つことにしたわ」
「学校側に交渉って……相手は今、ネットの動画を利用してまた私たちを追い詰めようとしている連中だよ。まともに話し合いなんて通じるの?」
爽花が眉をひそめながら尋ねる。
「表向きの理由はね──『これ以上の泥沼化したスキャンダルや訴訟合戦を避け、学園側の名誉回復と円満な解決に向けた協議の場』という名目よ」
私はグラスに水を注ぎながら、冷徹な光を瞳に宿した。
「でも、もちろんそれは表向きのフェイクに過ぎないわ。真の狙いは別にあるのよ」
「真の狙い、ですか?」
空君が真剣な眼差しで聞いてくる。
私は彼のまっすぐな目を見つめ、頷いた。
「ええ。学校側は今、ネットに投稿された捏造動画の勢いに便乗して、『自分たちは最初から悪くない、あの生徒の素行に問題があったのだ』という責任逃れの口実を作ろうと必死になっている。つまりね、奴らを『完全に調子に乗らせる』のよ」
私の言葉に、リビングにいる全員が息を呑む。
「あえて学校側の土俵に上がり、交渉の席で向こうの意向を一度はのむような素振りを見せる。そして、連中が自分たちに落ち度は一切なく、空君にすべての罪を押し着せればいいという決定的な言葉を確実に吐かせ、それを完璧な証拠として残すの。そうすれば、逃げ道は完全に塞がり、学園側も、裏で糸を引いていた連中も、一網打尽に社会的信用を失うことになるわ」
私の説明を聞いた爽花が、感心したように小さく息を吐いた。
「なるほどね……。相手にわざと優位に立っていると錯覚させ、一番深いところで足をすくうわけだ。さすがはプロの弁護士、やり方が徹底しているね」
「当然よ。あいつらがやってきた非道な真似に比べたら、これくらいの手間なんて安いものよ」
私は不敵に微笑み、明日行われる予定の決戦の準備に思いを馳せたのだった。
§
そして迎えた、交渉当日。
舞台となったのは、碧陵学園の管理棟最上階にある、普段は一般の生徒や教員が立ち入ることのない重厚な第一会議室だった。
マホガニーの巨大な長机を挟んで、左右に分かれて座る。
空君側の弁護士として、私は黒のスーツに身を包み、髪をすっきりとまとめた姿で、一人堂々と交渉の席についていた。
対面の席に座る学校側の代表──教頭と、理事会の代理人である初老の弁護士、そして今回の隠蔽工作の責任を逃れようとしている学園幹部たちの顔には、露骨な嫌悪感と、どこか余裕が入り交じっていた。
「……遠坂空の代理人弁護士殿。よくぞ、このような場で話し合いに応じる気になったものだ」
最初に口を開いたのは、教頭だった。彼はふんぞりかえるように腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべながら私を睨みつけてきた。
その隣に座る学園側の弁護士も、薄ら笑いを浮かべながら書類の束をペラペラとめくっている。
「先日、ネット上で公開された『あの動画』をご覧になっていないわけではないでしょう? 遠坂空という生徒の素行不良、そして女性に対する数々の悪質な犯行の数々……。もはや世間は、貴女の依頼人を完全に犯罪者として扱っています。このような状況下で、我々学園側にどのような顔をして交渉などと持ちかけてくるのか、正直理解に苦しむところですがね」
彼らは、藤嶺たちが投稿した強姦告発の捏造動画が世間で爆発的に拡散していることを盾に、完全に自分たちが優位に立ったと確信しているのだ。
警察の正式な捜査結果が出る前であるにもかかわらず、学校側はすでに『遠坂空が犯人である』という前提に立ち、この交渉の場で私たちを精神的に追い詰め、自主退学や不利な示談の合意書にサインさせようという魂胆だろう。
「おや……」
私はあえて困惑したような、少し気圧されたような表情を作ってみせた。
「学校側としては、あの動画の内容が『真実である』と、この公式の会議の場で断言なさるわけですか?」
「決まっているでしょう!」
教頭はテーブルを軽く叩き、声を荒らげた。
「複数の被害者が声を大にして告発しているのです。これだけの客観的な証拠が出揃っていながら、まだ遠坂の無実を主張するというのなら、我が校としても、名誉毀損および威力業務妨害で徹底的に法的措置を取らざるを得ない。もっとも、貴殿が弁護士として賢明な判断を下すのであれば、これ以上の学校への波及を防ぐため、遠坂に今すぐ自主退学届けを書かせるべきですな。それが、せめてもの温情というものです」
会議室にいる他の教職員たちも、教頭の言葉に同調するように、やれやれといった態度で鼻を鳴らしたり、冷ややかな視線を向けてきたりした。
彼らにとっては、真実がどうであるかなんてどうでもよいのだ。ただ自分たちの保身がなりたち、世間のバッシングの矛先をすべて一人の生徒に押し付けられるのであれば、それで十分なのだ。
「……そうですか。学校側がそこまで強く出られるのであれば、こちらの依頼人としても、これ以上争うのは得策ではないと考えております……」
私はわざと自信なげに視線を伏せ、相手の意向を全面的にのむような、弱気なトーンを演じてみせた。
その言葉を聞いた教頭や学校側の弁護士たちは、やはりネットの動画のプレッシャーに屈したかとばかりに、一層鼻息を荒くしてほくそ笑んだ。
「ふん、賢明な判断だな。で、あるならば──」
学校側の弁護士が、得意満面といった様子で一枚の紙切れをこちらにスライドさせてきた。そこに書かれているのは、空君がすべての罪を認め、学校の処分に従うという旨の、完全な不平等契約書だった。
「少し失礼してもよろしいですか?」
私は困ったような顔でスマホを手に取り、軽く手を挙げた。
「少し緊張で、お手洗いに行きたくなってしまいまして……。それに、この重大な書類の条項、一度こちらの事務所のシステムとも照らし合わせて確認しておきたいのです。ほんの数分、席を外してもよろしいでしょうか?」
「ふん、逃げ出すわけではなかろうね?」
と教頭が嫌味な笑みを浮かべる。
「まさか。すぐに戻りますわ」
私は上品に微笑むと、バッグから取り出したスマホの画面を操作し、見えないように裏返した状態で、資料の束のすぐ脇──会議用テーブルの真ん中においたペン立ての陰にそっと置いた。
そうしておいてから、私はすまし顔で会議室のドアを開け、廊下へと抜け出した。




