第51話 吉岡の怪しい指示、そして新たな約束の地へ
十一月下旬の土曜日の午後。
街路樹の葉がすっかり色づき、冷たい木枯らしがアスファルトの上を吹き抜ける肌寒い日だった。
駅前の大通りから一本入ったところにある、落ち着いた雰囲気のお洒落なカフェ。そのテラス席に、俺の姿があった。
数日前、思いがけない人物からメッセージが届いた。
かつて美術部で行動を共にしており、俺が冤罪で追放された後も葛藤し続けていた後輩、織野泉からの呼び出しだった。
メッセージには『週末の土曜日に、指定された時間ちょうどに街中のカフェのテラス席に来てください。どうしても空先輩にお話があるんです」と真剣な文面がつづられていた。
吉岡美誓や藤嶺たちが裏でどのような陰謀を巡らせているか分からないという警戒心はあったものの、泉ちゃん自身が何か深刻な悩みを抱えているのなら放っておくわけにはいかない。
そう考えて、俺は約束の時間の少し前に店に到着し、カプチーノを飲みながら彼女を待っていた。
だが、指定された時間を過ぎても、泉ちゃんの姿は現れなかった。
通りを行き交う人々の姿を眺めながら、スマホの画面に視線を落とす。待ち合わせの時間をすでに二十分ほど過ぎていた。
「……遅いな。何かトラブルでもあったのか?」
そう呟いた直後、俺のスマホが静かに震えた。画面を見ると、泉ちゃんからのメッセージが表示されていた。
『すいません、遅れます』──。
短く、どこか焦っているようなその文面に、俺は少し首をかしげた。何か電車が遅延でもしているのだろうか。
俺は『気にしないで、気をつけて来てくれ』と返信を打ち、そのまま彼女の到着を待つことにした。
それからさらに三十分以上が過ぎた頃、カフェの入り口から泉ちゃんが勢い良く飛び込んで来た。
彼女は店内を見渡し、テラス席に座っている俺の姿を見つけると、慌てた様子で足早に歩み寄ってくる。
「お待たせして、すいませんっ……!」
泉ちゃんは申し訳なさそうに深く頭を下げた。その表情には焦りと、言いようのない怯えの色が混じっていた。
「いや、俺も今来たところだから気にしないで。それより、どうしたんだ、何かあったのか?」
俺が優しく声をかけると、泉ちゃんは周囲をびくびくと見回し、誰にも聞かれないようにかぐっと身を乗り出してきた。彼女の小さな手が、テーブルの上で小刻みに震えている。
「空先輩……あの、私、実は……全部お話しなきゃいけないことがあります」
「話って……?」
泉ちゃんは大きく息を吸い込み、震える声を絞り出すようにして告げた。
「私……吉岡先輩に命じられたんです。今日この時間にここで空先輩と会うように言われたのは、吉岡先輩の指示なんです……!」
吉岡美誓。
その名前が出た瞬間、俺のなかの警鐘が激しく鳴り響いた。やはり、ただの後輩からの純粋な呼び出しなどではなかったのだ。
「吉岡が……?」
「はい……」
泉ちゃんは目を潤ませながら、早口で続けた。
「吉岡先輩から、『今日、指定した時間にあのカフェに行って遠坂空と会いなさい。ただし、彼は一時間前に呼び出しておいて、あなたはわざと遅れてそこに行きなさい』って命令されたんです……!」
「……どういうことだ? 一体、吉岡は何を狙ってそんなことを……」
「吉岡先輩は……私にこう言ったんです。『その通りにすれば、私は自分の過去の過ちを反省して、空君を美術部に復帰させてもいい』って……私、それを聞いて、空先輩がまた部活に戻れるならって思って……でも、カフェに来る途中で、なんだかすごく嫌な予感がして、怖くなって……!」
泉ちゃんはそこまで話すと、涙をこらえきれず、ポロポロと大きな涙をこぼし始めた。
怪しすぎる……吉岡は、また何か、汚い罠を企んでいるのか……?
俺が険しい表情で押し黙っていると、目の前に座る泉ちゃんは自分の頭を両手で抱え込み、苦しそうにうめいた。
「私……私、なんてことしちゃったんだろ……。吉岡先輩の命令に馬鹿みたいに疑いもなく従って、もし空先輩が罠に嵌められようとしているんだとしたら……」
泉ちゃんの肩が激しく震えている。彼女もまた、吉岡の圧力と恐怖に支配され、利用されていただけの被害者なのだ。俺は彼女を責める気には到底なれなかった。
「顔を上げてくれ、泉ちゃん」
俺が優しく声をかけ、テーブル越しにそっと彼女の肩に手を置くと、泉ちゃんは真っ赤に腫らした目をゆっくりと上げた。
「君は悪くないよ。俺のためを思ってのことだったんだろ?」
「それは……でも……私、吉岡先輩には逆らえません。そうしたらもう美術部にはいられなくなるし、大好きな絵を描くことが……」
泉ちゃんはか細い声で嘆くように口にした。
かつて彼女にとってのすべてだった美術部という居場所。
しかし、吉岡美誓が牛耳る今の美術部は、もはや健全な創作の場ではなく、悪意の温床と化していた。
その言葉を聞いた瞬間、俺のなかに一つの強い決意が芽生えた。
もう、あんな腐った部活にしがみつく必要などない。泉ちゃんのような純粋な才能を持った人間が、あんな奴らに踏みにじられる必要も、もう二度とないのだ。
「戻って来てください、空先輩! 空先輩がいない美術部なんて、もう意味がないんです!」
と泣きじゃくる泉ちゃんに対し、俺は首を横に振った。
「悪いけど、それはできないよ、泉ちゃん。けど、代わりに提案がある」
「え……?」
泉ちゃんは涙を浮かべたまま、ぽかんと口を開けた。
俺はその戸惑う小さな手をそっと包み込み、温かく微笑みながら続けた。
「あんな腐りきった美術部になんて、もう戻る必要はないんだ。それよりもさ、泉ちゃん」
「はい……?」
「美術部を辞めて、俺と新しく『同人サークル』を結成しないか?」
その提案に、泉ちゃんは息を呑んだ。
「サークル……ですか?」
「ああ。同人サークルだ」
俺は熱を込めて語り始めた。
「君の絵の才能は、あんな小さな部の枠に収まるようなものじゃない。それに、俺の母さんが文章を書いて、俺が『シエル』としてイラストを描いていることは知っているだろ? 実は、今後の活動に向けて、新しいオリジナル作品の制作や、個人でのイラスト発信をもっと本格的にやっていきたいんだよ。だから、そのパートナーとして、君と一緒に活動したいんだ」
「でも……私なんて、空先輩に比べたら全然……」
「そんなことない。君の持つ独特のタッチや、絵に対する真摯な姿勢は、誰にも負けない素晴らしい武器だ。それに、場所なら心配いらないよ」
俺は彼女の目を見つめながら、具体的な提案を続けた。
「泉ちゃんの家、確か、逢沢家のタワーマンションのすぐ近くだったよな」
「えっ……あ、はい。あの大きなマンションのことでしたら、徒歩で五分くらいのところに……」
「だったら好都合だ。放課後とか休日に、その逢沢家に来てよ。あそこには広い空き部屋がいくつもあるし、作業スペースだって十分にある。桐乃さんや爽花さん、玲那さんや凛ちゃんたちも、君が来るのを大歓迎してくれるはずだ。部活の上下関係や、吉岡みたいな嫌な奴らの目を気にする必要なんて一切ない。完全な自由な環境で、思いっきり絵を描けるんだ」
泉ちゃんの瞳が、少しずつ、しかし確実に輝きを取り戻していくのが分かった。
吉岡の支配、美術部という窮屈な檻、そして孤独への恐怖──それらが、俺の言葉によって音を立てて溶けていく。
「部活じゃなくても、絵を発表する場はいくらでもあるよ。SNSを使えば、世界中の人たちに直接届けることもできるし、俺たちが作った作品を本にしてイベントで売ることもできる。自分の力で表現して、誰かに届ける楽しさを、もう一度一緒に味わおうよ」
俺はまっすぐに手を差し出した。
「どうかな、泉ちゃん。俺と一緒に、新しい世界へ踏み出してみないか?」
泉ちゃんはしばらくの間、呆然と俺の手を見つめていた。
そして、彼女の胸の内で何かが弾けたように、大粒の涙が再びあふれ出たが、今度はその頬に、これまでにないほど美しく、晴れやかな笑顔が咲いていた。
彼女は両手で俺の手をぎゅっと力強く握り返し、潤んだ瞳で力強くうなずいた。
「はいっ……! 私、空先輩とまた一緒に活動したいです! あんな美術部なんて、もう辞めます! 空先輩のそばで、もっともっと絵が描きたいです……!」
その声は、店内の空気を震わせるほど真っ直ぐで、確かな決意に満ちていた。
裏切りと悪意の渦巻く学園を抜け出し、俺たちは今、自分たちの手で未来を切り開くための第一歩を踏み出した。




