第50話 黒い共謀
世間では、母・庵原翡翠が執筆し、俺が『シエル』名義で表紙を描いた小説が大重版を記録し、現代の社会問題である『冤罪と隠蔽』を告発するマスターピースとして爆発的なムーブメントを引き起こしていた。その波及効果はネットの隅々にまで及び、碧陵学園の不祥事や、かつて空を陥れようとした者たちの醜態を次々と明るみに出していた。
だが、その華やかな成功と正義の逆風の裏で、追い詰められた敗者たちの心は、ドロドロとした狂気と復讐心の沼へと沈み込んでいた。
§
Side:吉岡美誓
私の部屋のデスクの上で、スマホの画面が冷たく青白い光を放っていた。
画面に映し出されているのは、SNSのトレンド検索結果。『シエル 最新作 大重版』『碧陵学園 冤罪隠蔽』『天才イラストレーターの復讐劇』──そんな見出しが、どこを見ても踊っている。
そして、そのページを開けば開くほど、かつて私が踏みにじり、見下し、虫けらのように扱っていたはずの遠坂空の名前が、称賛の嵐に包まれて輝いていた。
「……嘘、でしょ……。こんなの、あり得ない……」
私は震える指でスマホを握りしめ、歯ぎしりが聞こえるほど奥歯を強く噛み締めた。
あんな、ただ優しさだけが取り柄のようななよっちい平凡野郎が、私や赤羽、そして藤嶺のようなスクールカーストの頂点に立つ人間たちの足元にも及ばないはずの奴が、今や世間から持て囃され、プロの作家として、イラストレーターとして、圧倒的な高みへと駆け上がっている。
しかも、あろうことか、あの学園祭のミスコンで華々しくグランプリを獲得し、全校生徒の憧れの的となった逢沢玲那から、公の場で「いつも隣にいて欲しい人」として熱烈な好意を寄せられているという。
許せない。
許せるわけがない。
胸の奥底から、沸騰した泥水のような激しい嫉妬と、ドス黒い憎悪が同時に這い上がってきた。
私の上にいくなんて、絶対に許さない。空だけが眩しい光の中で栄光の道を進むなんて、そんな結末は絶対に認めない。
必ず、引きずり降ろしてやる。あの時のように、徹底的に踏みつけて、私の足元で這いつくばらせて破滅させてやる……!
頭がおかしくなりそうなほどの焦燥感に駆られ、私はスマホを放り投げるようにベッドへと転がした。
このままでは、私が社会的に終わってしまう。学校での私の居場所はすでに崩れかけ、冷ややかな視線に晒されている。全ては、あの遠坂空と、あのセミフィクションの形をとった悪趣味な暴露本のせいだ。
何か手を打たなければならない。
一人ではどうにもならないこの絶望的な状況を打破し、あの憎たらしい空を地獄に叩き落とすためには──同じくすべてを奪われ、怒りに狂っているあいつと手を結ぶしかなかった。
私は震える手でコートを羽織り、夜の街へと飛び出した。
§
向かった先は、市内の高級マンション街にそびえ立つ、藤嶺徹の自宅だった。
かつてはクラスの絶対的な君臨者として、周囲の人間を意のままに操っていた彼の城。
だが、今のその部屋の空気は、かつての華やかさのかけらもなく、淀んだ不気味な熱気と退廃的な雰囲気に包まれていた。
玄関のオートロックを抜け、指定された階の部屋の前に立つと、ノックをするまでもなく、ドアが無造作に開け放たれた。
そこに立っていたのは、乱れた髪に高級ブランドのシャツの襟元を崩した、見るからに荒れ果てた様子の藤嶺徹だった。彼の両目は血走り、その顔にはかつての余裕や傲慢さは消え失せ、あるのは歪んだ憎悪の炎だけだった。
「……遅かったじゃないか、美誓」
藤嶺は低くかすれた声で呟くと、私を室内に引きずり込むようにしてドアを閉めた。
リビングルームの床には、ビールの空き缶が散乱し、テレビ画面には例の小説の特集記事が無音で映し出されている。
「……文句言わないで。私だって、余裕がないのよ」
私はリビングのソファに倒れ込むように腰を下ろした。
藤嶺は冷ややかな笑みを浮かべながら、私の隣にどさりと座り込み、その冷たい指先で私の顎を強引に掴み上げた。
「お前も知ってるだろ? あのクソみたいな小説と、世間の手のひら返しのバカ騒ぎをよ。俺の父親の会社にまで、ネットの誹謗中傷や嫌がらせのメールが山のように届いてるんだ。俺のこれまでの人生設計も、プライドも、すべてあの遠坂空のせいでめちゃくちゃだ……!」
藤嶺の声には、言いようのない屈辱と、狂気じみた殺意が滲んでいた。
そして、その昂った感情のまま、彼は私をソファに押し倒し、荒々しく唇を奪ってきた。
拒絶する余裕も、理性も、その時の私たちにはなかった。お互いの焦燥感と、行き場のない破壊衝動をぶつけ合うように、私たちは何度も何度も快楽を貪り合った。息が詰まるような濃厚な皮膚の触れ合いの中で、私たちの精神は、より一層暗い底へと堕ちていった。
しばらくして、荒い息を整えながら、私たちは乱れた服のままでリビングのソファに並んで座った。
部屋に漂うのは、甘ったるい匂いと、拭い去れない焦燥感だった。
「……ねえ、徹君」
私は自分のブラウスのボタンを留めながら、冷え切った声で切り出した。
「このままじゃ、本当に私たちが終わるわ。あの小説のせいで、学校の連中も、世間も、私たちがあの時空を罠に嵌めた犯人だってみんな疑い始めている。逆転するための手段を講じないと、もう取り返しがつかないところまで来てるのよ」
藤嶺はビール缶を傾け、中身を一気に飲み干すと、不敵な笑みを浮かべた。
「分かってるさ。じっとしていれば、奴らの思う壺だ。だからこそ、今度はこっちから完全にトドメを刺すための『決定的な一手』を用意してある」
「決定的な一手……?」
「ああ。奴らを精神的にも、社会的にも、二度と這い上がれないほどの完全な奈落の底に突き落とすには、『もっと大きくて、誰もが目を背けられないスキャンダル』を仕立て上げるしかないんだよ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「それって……具体的にどうするつもりなの?」
「協力して、空を今度こそ完全に破滅に追い込むぞ」
藤嶺の目が、爛々と狂気に満ちた光を放った。
「俺は──」
「それはいいわね。じゃあ、私は──」
私たちは完全に空を社会的・精神的に抹殺するための、新たな、これまでにないほど残酷で周到な陰謀の計画を固めていった。




